第36話・裏側:数学的安楽死
〇〇中枢の議事堂が羽柴の怒声と怒号に揺れていたその時、喫茶店『ジャックポット』は、水底のような静寂に沈んでいた。
遮光カーテンが外界の光を完全に拒絶し、店内の光源はゼンの顔を青白く照らす複数のモニターだけ。空調の低い唸り音が、まるで巨大な生物の呼吸のように響いている。
ゼンは、羽柴が演壇で掲げた「真の収支報告書」のオリジナルデータを画面に展開していた。
「……残り、45秒」
ゼンが呟く。彼の指先は、まるでピアノを奏でるように滑らかで、それでいて機械的な正確さでキーを叩き続けていた。彼が今行っているのは、羽柴の告発を裏付ける「物理的な証拠」の最終解錠だ。
神崎や久世たちが、某国へ機密データを送信しようとした瞬間に作動する**「論理的落とし穴」**。
ゼンは、彼らが「逃げ道」として用意していた暗号化パケットの中に、あらかじめ特定の素数を組み込んでいた。彼らが「送信」のボタンを押した瞬間、そのパケットはデータではなく、自らを破壊し、送信元の端末の全ログを議場の大型モニターへ転送する「鏡」へと変質する。
「お嬢さん……。これが、君が求めた『正義』の最終項だ」
画面上のインジケーターが100%に達した瞬間、ゼンは最後の一打を、慈しむように、あるいは引導を渡すように、静かに押し下げた。
その瞬間、数百キロ離れた議事堂で、重鎮たちの通信が遮断され、彼らの売国の証拠が白日の下に晒された。
ゼンの仕事は、ここで終わった。
同時に、彼は自身の脳内に構築されていた「外界解析用アルゴリズム」の全削除を開始した。
「……ゼンさん。もう、いいんですよ」
背後から、ミチルの冷たくて甘い声が届く。
彼女は、ゼンの細くなった首筋に、冷えたタオルをそっと当てた。ゼンの脳は、極限の演算負荷によって熱を帯び、限界に達していた。
「……ミチル。社会の変数が、消えていく。……1,200億、経済安保、外患誘致……。すべて、ただの『ゼロ』に収束する」
ゼンの瞳から、それまで宿っていた鋭利な光が、砂が零れ落ちるように失われていく。
彼は、自分という高性能な演算機が、これ以上外界の不条理を処理し続けることに耐えられなかった。あるいは、一ノ瀬に「正しい答え」を渡したことで、生きる目的としての数学を、あえて放棄したのかもしれない。
「いいのよ、ゼンさん。これからは、もっと簡単な計算だけをしましょう」
ミチルは、ゼンの手からキーボードを取り上げ、代わりに自分の手を握らせた。
「さあ、ゼンさん。……おやすみなさい。明日からは、私だけが貴方の変数よ」
ミチルが電源を切る直前、ゼンの視界の端で、自身が設計した論理回路の最終処理が完了した。
(……ああ。……ジャックポットだ)
脳内に響くその言葉は、もはや外界に向けられた勝利の宣言ではなかった。
1,200億の汚職、国家の命運、一ノ瀬の正義。それらすべての巨大な「変数」を、たった一打のキーで無効化した快感。
複雑怪奇な不条理が、一点の淀みもなく「ゼロ」へと収束し、世界から自身の痕跡が完全に消滅する瞬間。
彼にとって、これ以上の「当たり(大当たり)」は存在しなかった。
(これですべての計算式は閉じられた。……外界に、もう僕を証明する数字は残っていない)
暗闇の中で、ゼンは満足げに、そして幸福そうに思考の灯を消した。
後の世が、この日の激動を「英雄による告発」と呼ぼうとも。
この密室の王にとって、それはただの「美しい検算結果」に過ぎなかった。




