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第37話:正義の終着点


〇〇中枢の街並みは、まるで脱皮した後の蛇のように、瑞々しくも冷徹な活気に満ち溢れていた。

鷹羽新内閣が打ち出した「経済安全保障」の旗印の下、不正な資金の流れは次々と凍結され、歪んだ利権に代わって「自立」という名の厳しい規律が社会を覆い始めている。テレビの街頭インタビューでは、人々が「ようやくまともな国になった」と笑顔で語っていた。

一ノ瀬は、その祝祭のような喧騒の中を、一人逆行するように歩いていた。

彼女の指先は、ポケットの中で一枚の古びたレシートを握りしめている。それは、かつてゼンが彼女に手渡した、あの「数字の迷宮」の入り口でもあった。

「……ここだけ、時間が止まっているみたい」

辿り着いた『ジャックポット』の外観は、以前と何も変わっていなかった。

しかし、入り口に掲げられていた「営業中」の札は取り外され、窓には内側から厚い遮光カーテンが引かれている。外界の喧騒も、新政権が謳う希望に満ちたマニフェストも、この厚い壁を通り抜けることはできないようだった。

一ノ瀬が重いドアを押し開けると、カウベルが低く、頼りなげな音を立てた。

「……いらっしゃい。でも、あいにく今日は予約のお客様だけでおしまいなの」

カウンターの奥から、鈴を転がすような、しかしどこか生気を欠いた声が響いた。

ミチルだった。彼女は以前にも増して完璧な所作で、銀色のスプーンを磨いていた。店内のテレビは取り払われ、ラジオも流れていない。そこにあるのは、空調の微かな動作音と、ミチルが立てる食器の音だけだった。

「ミチルさん。……ゼンさんに、会いに来ました」

ミチルは磨く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、一ノ瀬に対する敵意も、拒絶もなかった。ただ、深い霧のような「憐れみ」だけが湛えられていた。

「一ノ瀬さん。……貴女が外で成し遂げたことは、風の噂で聞いていますよ。悪い人たちが消えて、数字が正しくなったんですってね。……素晴らしいことだわ」

ミチルは、まるで子供の成長を喜ぶ母親のような口調で言った。だが、彼女は一歩もカウンターから動こうとはしなかった。

「でも、今のゼンさんには、その『正しさ』は必要ないの。……彼は今、ようやく手に入れたんです。誰にも乱されない、完璧で、純粋な……『答えのない数学』の中にいる時間を」

「答えのない……? ゼンさんは、数字で世界を救おうとしたんじゃないんですか?」

「救う? いいえ。彼はただ、数式の整合性を守りたかっただけ。……そして今の彼は、外界という不確実な変数から切り離されて、私というたった一つの定数に守られながら、永遠に解けない難問を楽しんでいるのよ」

ミチルは、店の奥にある「あの机」を顎でしゃくった。

一ノ瀬は、導かれるように店の奥へと足を進めた。

そこには、以前と変わらぬ姿勢で、ノートパソコンと数枚の紙に向き合うゼンの背中があった。

だが、その背中は、以前よりも一回り小さく、そして何かに溶け込んでいるかのように透明に見えた。

一ノ瀬は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

彼女が見たのは、かつて自分を導いた「導師マスター」の姿ではなかった。

そこにいたのは、外界との繋がりをすべて断ち切り、ミチルという唯一の生存維持装置に繋がれたまま、終わりのない計算の海を漂う、純粋な「思考の残骸」だった。


一ノ瀬は、ゼンの背後で足を止めた。

以前なら、彼女が近づく気配だけで「お嬢さん、歩幅が0.5センチ狂っている」と皮肉を飛ばしたはずの男が、今はペンを走らせる音すら立てず、ただディスプレイを見つめている。

「……ゼンさん。終わりましたよ。全部、貴方の数式の通りに」

一ノ瀬の声は、店内の静寂に吸い込まれるように響いた。

彼女は、持参した最新の新聞と、鷹羽内閣の基本方針が記された公報をテーブルの端に置いた。汚職の撲滅、税制の健全化、そしてデータの主権回復。一ノ瀬が成し遂げた、あるいはゼンの知略がもたらした「正義」の果実だ。

ゼンは、ゆっくりと首を巡らせた。

その瞳は以前よりも澄んでいたが、同時に、そこには一ノ瀬という「人間」を映すための焦点が、もう存在していないように見えた。

「……お嬢さん。新聞はそこに置いておいてくれ。後でミチルが……何かの包み紙に使うだろう」

「……ゼンさん?」

「数式は、解かれた瞬間に死ぬんだ」

ゼンは、掠れた声で淡々と語り始めた。その視線は、再び画面上の、複雑に絡み合った数式へと戻る。

「君が外で成し遂げたのは、既に答えが出た『計算済みの問題』だ。もうそこに、私のリソースを割く必要はない。1,200億も、鷹羽という新しい定数も、正常化したシステムも……すべては確定した過去に過ぎない」

一ノ瀬は、凍りつくような感覚を覚えた。

自分たちが命を懸けて戦った激動の日々も、流された血も、正された国の未来も。今のゼンにとっては、解き終えた計算問題の「検算」ほどにも興味を引かないものに成り果てていた。

「今、私が計算しているのは……」

ゼンがキーボードを叩くと、画面上に無数の光の点が舞った。

「この店の湿度、ミチルの心拍数、そして窓の外を降る雨の粒が、アスファルトに衝突して蒸発するまでの確率変動だ。……外界の巨大な不条理カオスよりも、この閉ざされた空間にある微細な揺らぎ(ゆらぎ)の方が、はるかに高次元で、はるかに美しい」

ゼンが計算しているのは、もはや「社会」ではなかった。

ミチルという閉鎖環境の中で維持される、完全な静寂と依存。その微細な調律のためだけに、かつて国家を揺るがした知能が、無為に、しかし完璧に費やされている。

「ゼンさん、貴方は……それでいいんですか? あの檻の中で、ただミチルさんの望む数字を出すだけの機械になって……」

「いいんだよ、一ノ瀬さん」

いつの間にか背後に立っていたミチルが、一ノ瀬の肩にそっと手を置いた。その手は、優しく、しかし確実な力で一ノ瀬をゼンから引き離そうとしていた。

「彼は、もう疲れてしまったの。世界中の悪意を数式にするのは、あまりに重すぎた。……だから、ここからは私が彼の『変数』をすべて預かるわ。彼にはもう、私の淹れるコーヒーの味と、この部屋の温度だけを考えていてもらえばいいの」

ゼンの指が、不自然なほど滑らかに動き続ける。

彼は一ノ瀬に向き直ることさえしなかった。彼の脳内では、一ノ瀬の存在すらも、既に「処理済みのノイズ」として、メモリの隅へと追いやられていた。

「お嬢さん……。最後のアドバイスだ」

ゼンが、画面を見つめたまま呟いた。

「正しくなった世界で、君はこれから『退屈』という名の、最も解きにくい難問に出会う。……その時、君が数字に頼るのか、それとも別の何かに頼るのか。……残念ながら、私の計算機コンピューターには、その予測結果を君に伝える機能は……もう実装されていない」

それが、ゼンが外界へ放った、最後の言葉だった。


一ノ瀬は、それ以上言葉を重ねることを止めた。

目の前にいる男は、確かにゼンである。しかし、彼が今見つめているのは、一ノ瀬が守ろうとした「明日」ではなく、ミチルという名の温室で培養される「無限の現在」だった。

「……さようなら。ゼンさん」

その言葉に対しても、キーボードを叩く乾いた音が返ってくるだけだった。

一ノ瀬が背を向け、出口へと歩き出す。カウンターの傍らで、ミチルが満足げに、しかしどこか虚ろな微笑を浮かべて会釈をした。彼女はこの日、世界から「唯一の理解者」を奪い去り、自分だけの神としてこの店に幽閉することに成功したのだ。

重いドアを開けると、カウベルが最後の一音を鳴らした。

外は、いつの間にか雨が上がり、眩しいほどの陽光がアスファルトを照らしていた。

大通りに出れば、巨大なビジョンには鷹羽総理の力強い演説が映し出され、人々は希望という名の新しいシステムに従って、整然と歩みを進めている。

ハニーが街角の影で、一台の黒い車に寄りかかって待っていた。

「……終わったのね」

「はい。ゼンさんはもう、あそこにいませんでした」

一ノ瀬は空を見上げた。眩しさに目が眩む。

「正義」が勝ったはずの世界。数字が正しく書き換えられたはずの世界。

けれど、その礎となった男は、静かな狂気と共依存の果てに、外界から消滅した。ハニーは、一ノ瀬のその表情を見て、短く鼻を鳴らした。

「皮肉なものね。あんなに世界を嫌っていた男が、最後には世界から『完璧に隔離される』という一番の贅沢を手に入れたんだから」

ハニーは助手席のドアを開けた。

「さて、お嬢さん。新しい世界システムは、既に動き出しているわ。律も、計も、リリコも……みんな、新しい自分の『居場所』を見つけて、数字を積み上げ始めている」

一ノ瀬は、車に乗り込む直前、一度だけ振り返って『ジャックポット』のある路地を見つめた。

そこには、かつて不条理な権力に抗い、絶望的な数式を解き明かした天才の気配は、もう微塵も残っていない。

「……私は、書き続けます。ゼンさんに教わった、数字の裏側にある『人間の体温』を」

車がゆっくりと走り出す。

一ノ瀬は、膝の上でタブレットを開いた。画面には、新しい記事のタイトルが点滅している。

【数式が正した未来、そして残された空白について】

世界は、これからも歪み、修正され、また歪んでいくだろう。

巨悪が去った後には、また別の欲望が芽吹き、新しい「不条理の数式」が組まれるはずだ。

けれど、そのたびに、誰かがその数字の嘘を見抜き、正しさを求めて歩き出す。

ゼンという計算機が沈黙したとしても。

彼が遺した「誠実な数字」という灯火は、それを拾い上げた一ノ瀬たちの手の中で、静かに、しかし決して消えることなく燃え続けていく。

『ジャックポット』の遮光カーテンの奥で、ゼンがふと指を止めた。

一瞬だけ、本当に一瞬だけ、彼はディスプレイ越しに、遠ざかる一ノ瀬の「未来の軌跡」を計算したのかもしれない。

だが、すぐにミチルが温かいコーヒーを差し出し、彼の視界を優しく遮った。

「ゼンさん。……今の温度、完璧ですよ」

「……ああ。そうだな」

男は、幸せそうに微笑んだ。

その瞳には、もう、何の数字も映っていなかった。


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