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第35話:保身の数式とトカゲの尻尾切り


某〇〇中枢、〇〇田の裏通り。地図にさえ載らない会員制料亭「浮舟」の最奥。防音施工が施された八畳間の座敷では、この国の血流を司る老人たちが、沈痛というよりは、むしろ「不快」を隠しきれない表情で膝を突き合わせていた。

「……一ノ瀬とかいう小娘。あれは『正義』ではなく、ただのテロリズムだ」

財務省の元事務次官であり、現在は数々の政府系ファンドの顧問を兼任する男、神崎が、漆塗りのテーブルを指先で叩いた。その前には、一ノ瀬が拡散したデータのプリントアウトが置かれている。一見すると退屈な支出項目の羅列だが、そこには彼らが数十年かけて構築した「集金システム」の急所が、赤裸々なまでに記されていた。

しかし、彼らが真に震えているのは、国内の汚職発覚という矮小な問題ではない。データの第5階層、ゼンの助言によって一ノ瀬がこじ開けた**「Mメンテナンス」**の項目――そこに刻まれた、ある「裏切りの証跡」だ。

「警察上層部の耳にも入っているが、SNSで騒がれている『ハニートラップ』の件……あれは、もはや単なるスキャンダルでは済まない。あのリストには、我々が某国のダミーコンサルに支払った『業務委託費』の対価として、国民の識別番号、戸籍、さらには次世代通信網のバックドア、そして防衛局が進めている無人機の航法アルゴリズムのソースコードが、組織的に提供されていた事実が含まれている」

法曹界の重鎮、久世が、冷え切った緑茶を啜りながら声を潜めた。

20××年、日本の政界を揺るがせた「某国企業による秋波」や「高額報酬での学術的交流」。それは、この1,200億円のシステム構築事業という巨大な隠れ蓑の中で、合法的な事務手続きとして処理されていたのだ。

「……だが、あちら側の『センター』から、興味深い提案が来ている。国内での追及が避けられなくなった場合、我々が保有するすべての機密、あるいは重要な知的財産を携えて、あちら側の『デジタル特区』へ実質的に拠点を移さないか、とな。あちらは既に、我々の資産を追跡不能な暗号通貨で保全し、家族を含めた永住権と、向こう数十年単位の生活を保障する準備を終えているそうだ」

「つまり……国を捨てる、と?」

神崎の問いに、久世は冷酷な笑みを浮かべた。

「捨てるのではない。より『効率の良い数式』に乗り換えるだけだ。この国はもう、老いた個体のように免疫力が落ちている。一ノ瀬のような細胞が暴走するたびに、我々の利権は削られる。ならば、まだ自分たちを高く買ってくれる『新しい飼い主』に、価値あるパーツを売り払い、自分たちは逃げ切る。……それが、合理的な判断ロジックというものだろう」

彼らの会話には、かつてゼンが重んじた「数字の誠実さ」は微塵もなかった。あるのは、自分たちが生き残るために、他者の人生や国家の安全を「変数」として切り捨てる、歪んだ保身の数式だけだ。

「……決まりだな。一ノ瀬のデータは『捏造』として処理し、その裏で、事務局の末端職員数名に『某国のスパイ』というレッテルを貼って差し出す。その混乱に乗じて、我々は重要データの最終的な『鞍替え』を完了させる」

男たちは、冷めた茶碗で、乾杯の代わりに不気味な合意を交わした。彼らにとって、この国はもはや守るべき故領ではなく、最後の一滴まで搾り取った後に、高値で売り払うための「ジャンク品」に過ぎなかった。

だが、彼らは気づいていなかった。その座敷の天井裏、あるいは給仕が運んできた盆の裏側に、かつてゼンが放った「亡霊たち」の鋭い耳が、その醜悪な取引をすべて、1ビットの欠落もなく記録していたことに。


翌朝、〇〇中枢の空は低く垂れ込めた雲に覆われていた。一ノ瀬がスマートフォンの画面をスワイプするたび、昨日まで彼女を「英雄」と称えていたタイムラインは、急速に冷笑と疑念の色に染め替えられていった。

テレビのワイドショーでは、コメンテーターたちが神妙な面持ちで、当局から発表された「公式見解」をなぞっていた。

「……本日未明、当局は『次世代広域システム事務局』の若手職員ら3名を、業務上横領および不正アクセス禁止法違反の疑いで逮捕しました。押収された証拠からは、彼らが某国の工作員と接触し、私利私欲のために機密情報を流出させていた疑いも浮上しています。また、ネット上で拡散された『汚職リスト』については、これらの容疑者が自己の罪を隠蔽するために一部の数字を改ざんし、捏造したものである可能性が極めて高いとのことです」

画面に映し出されるのは、早朝の自宅から連行される、一ノ瀬も顔を見たことのない20代の職員たちの姿だった。彼らは上層部の指示を忠実に守り、末端の事務処理を担当していただけの「トカゲの尻尾」だ。しかし、彼らの経歴――学生時代の留学経験や、SNSでの些細な発言――が、あたかも「最初から他国に魂を売ったスパイ」であったかのように、編集されたナレーションと共に垂れ流される。

「……嘘。あんなの、ただのスケープゴートじゃない」

一ノ瀬は、指先が凍りつくのを感じた。

さらに追い打ちをかけるように、ネット上では「匿名」のインフルエンサーや、専門家を自称するアカウントが一斉に動き出していた。

> 『一ノ瀬とかいうライター、スパイが捏造したデータを裏取りもせずに垂れ流したのか?』

> 『正義の味方ごっこをして、結果的に国家機密をバラ撒いた売国奴。責任取れるの?』

> 『デジタル化の足を引っ張る老害組織の回し者だろう。結局、若者が損をする』

>

かつてゼンが冷徹に指摘した「数字を歪めるのは人間だ」という不条理。

どんなに完璧な数式を提示しても、それを解釈し、報道し、大衆に「意味」を与える側が、保身と腐敗という変数を組み込んでいる限り、答えは常に「権力にとって都合の良い真実」に書き換えられてしまう。一ノ瀬が命懸けで放った「真実の数式」は、巨大な権力による「情報の暴力」の前に、見る影もなく矮小化されようとしていた。

「……誰も、数字を見ようとしない。みんな、見たい物語ストーリーだけを見て、石を投げている」

一ノ瀬は、膝の上に置いた手が震えるのを止められなかった。自分の行動が、何の罪もない若者たちを「スパイ」という汚名の下に投獄させ、真の巨悪に「掃除」の機会を与えてしまった。その罪悪感が、彼女の心を内側から蝕んでいく。

その時、雨に濡れたコートを翻し、ハニーが音もなく一ノ瀬の背後に立った。

「お嬢さん、絶望するにはまだ早いわ。……向こうが『トカゲの尻尾』で物語を幕引きにするつもりなら、私たちはその尻尾から『毒』を全身に回してあげるだけよ」

ハニーは冷笑を浮かべ、一ノ瀬のスマートフォンの上に、自身のタブレットを重ねた。画面には、一般のブラウザでは到達できない、幾重にも暗号化された「秘密のチャットルーム」が展開されていた。

「これを見て。あななたちが放ったデータ、あれを『ただの数字』だと思って無視できたのは、何も知らない一般大衆だけよ。……この『数式の重み』を知る人間たちは、もうとっくに動き出しているわ」

画面には、懐かしい、あるいは一ノ瀬さえ知らないコードネームが次々とログインし、膨大な解析ログを生成していく様子が映し出されていた。

「……これ、佐伯さんの名前? それに……」

「ええ。ボスがかつて繋ぎ止め、あるいはあえて手放した『数字の信徒』たちよ。彼らにとって、あのリストが捏造だなんて嘘は通用しない。……お嬢さん、向こうが『嘘の物語』で攻めてくるなら、こちらは『逃れようのない現実』で、その心臓を刺しに行きましょう」

ハニーの瞳に宿る、静かな、しかし苛烈な戦意。

一ノ瀬は、涙を拭うことさえ忘れ、画面の中で猛烈なスピードで更新されていく「反撃の数式」を見つめた。


「……このチャットルームは、ボスの『予備回路』よ」

ハニーが操作するタブレットの画面上では、滝のように流れるログの合間に、かつてゼンの冷徹な知略に触れ、その圧倒的な正しさに人生の軌道を歪められた者たちの識別子(ID)が、暗闇の中で次々と点灯していった。

まず画面を支配したのは、法律の迷宮を知り尽くした**りつと、金銭の血流を数式で解体するけい**の連係だった。

「『尻尾』にされた若手職員の端末ログを詳細に解析した。……管理者権限の剥奪時刻が、逮捕の24時間前に集中している。これは外部のスパイ工作などではなく、組織内部の『特権ID』による人為的な抹消だ」

律の無機質なテキストが、当局の筋書きを法的な矛盾という刃で切り裂いていく。

「並行して、事務局の不透明な資金移動を洗った」と計が続く。

「1,200億のうち、海外のペーパーカンパニーへ流れた250億……。これは名目上の委託費ではなく、特定の機密情報の『対価』として、監視の目を掻い潜るための資金洗浄プロトコルが組まれている。……ボスのやり方を模倣しているようだが、美しさに欠ける」

実務家としての二人の介入は、権力が作り上げた「偽りの物語」の底に、逃れようのない論理の楔を打ち込んでいた。

一方で、情報の海という名の泥沼の戦場では、別の「亡霊たち」が牙を剥いていた。

世論の熱狂を操る術を知るリリコ、ネットの深淵から真実を釣り上げる特定技術を持つ佐藤、そして組織の不条理を規定の壁で封じ込める清川。

「『捏造だ』と騒いでいるアカウントの8割が、同一のサーバーから発信されているわ。……見てなさい。この『偽物の声』を、私の発信力を使って一気に逆流させてあげる」

リリコが、膨大な拡散力を「真実の弾幕」へと転換し、歪められた世論の上書きを開始する。

佐藤は、当局が「スパイ」と決めつけた職員たちの潔白を証明するため、削除された通信記録の断片を深淵から掘り起こし、清川はその情報を元に、現行のコンプライアンス規定を盾とした「正当な内部告発」としての手続きを、公的機関の正規ルートへ強引に流し込んでいった。

「お嬢さん、見ていて」

ハニーの指が一つのログを固定した。

それは、一ノ瀬が暴いた「1,200億円の中抜き」の数字が、単なる汚職の証跡ではなく、**【国家機密の売却価格表】**と完全に一致していることを証明する、極めて高度な相関演算の結果だった。

「……これ、誰が計算したの?」

一ノ瀬が息を呑んで問いかける。ハニーは、かつてないほど穏やかで、しかし酷く冷たい笑みを浮かべた。

「ボスが遺した『亡霊の王』……佐伯よ。彼は今、実在するトラックのハンドルを握りながら、同時にこのネットワークの『物理層』を守っているわ。……権力者たちが国を売って逃げ出そうとするなら、その逃走路を『物理的な数字』で封鎖するのが、彼の役割よ」

チャットルームの最下部、一人のユーザーが短いメッセージを投げた。

「トカゲの尻尾ではなく、毒蛇の心臓を狙う。準備はいいか」

一ノ瀬は、スマホを持つ手に力を込めた。

テレビの中では、依然として歪んだ正義が吠え続けている。だが、この暗い雨の夜、ネットの深淵と中枢の死角では、誰にも制御できない「情報の反乱」が臨界点を迎えようとしていた。

それは、ゼンという絶対的な指揮者を欠きながらも、彼の遺した「数式の誠実さ」を信じる者たちが、自律的に結集して作り上げた、巨大なカウンター・システムだった。

「……ゼンさん。あなたが言った通り、システムは人間を殺すかもしれない。でも、システムを書き換えるのも、また人間なのね」

一ノ瀬の瞳から、絶望の影が消えた。

彼女は、ハニーから手渡された「毒の鍵」を握りしめ、自分を裏切った世界へと、再びその足で歩き出した。


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