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第33話:中枢の虚飾と多重中抜き


某〇〇中枢、〇〇街。空を突き刺すような中枢庁舎の影が、巨大な日時計のように街を切り裂いている。一ノ瀬は、地方での「勝利」の余韻に浸る間もなく、このコンクリートの迷宮に放り込まれていた。

彼女が手にしているのは、匿名で届いた一通の内部告発資料。それは、某中枢が推進する**『次世代広域システム基盤構築事業』**に関するものだった。総予算、1,200億円。地方都市の再開発予算が霞んで見えるほどの巨額が、この一つのプロジェクトに投じられている。

「……おかしい。予算の出所も、契約の形態も、地方のそれとは比較にならないほど『綺麗』すぎる」

一ノ瀬は、庁舎近くの古びた喫茶店で、手元の相関図を睨みつけた。

地方では、議員の身内が直接受注するという露骨な手法が取られていた。だが、この中枢の案件では、まず誰もが名を知る超大手の広告代理店やシンクタンクが「元請け」として名を連ねている。その下に、実態の見えない一般社団法人や中間団体が幾重にも重なり、末端で実際に実務を担っているのは、さらにその数階層下の、低賃金で酷使される零細企業だ。

この構造こそが、ゼンがかつて唾棄した**「多重中抜き」の完成形だった。

元請けが40%を跳ね、二次請けが20%を抜き、三次請けの中間団体が事務手数料という名目でさらに15%を搾取する。実際に現場に届く予算は、当初の3割にも満たない**。消えた数百億円は、天下り役員の高額な報酬や、有力者への合法的な献金パーティーの原資へと姿を変え、システムとして完全に合法化されている。

「……これじゃ、どこを叩けばいいのかさえ分からない」

一ノ瀬は、かつてゼンが言った言葉を思い出す。

『お嬢さん、巨大な悪は、悪人によって作られるんじゃない。責任を細分化し、誰もが「私はルールに従っているだけだ」と言えるシステムによって作られるんだ』

彼女が資料を捲る手が止まる。そのリストの最下層、本来なら無名の企業があるべき場所に、一つの見慣れない組織名が記されていた。

『一般社団法人・広域公共データ管理センター』。

一見、公益性の高そうな名称だが、その役員名簿には、かつて某I県の一族が頼った「某中枢の有力者」と繋がりのある人物たちが、亡霊のように名を連ねていた。

その時、一ノ瀬の背後に冷ややかな気配が立ち昇る。

「……あのお店の『マスター』に教わったにしては、少し読み込みが甘いんじゃないかしら?」

振り返ると、そこには見慣れた黒いドレス姿の女、ハニーが立っていた。彼女はいつもの冷笑を浮かべ、一ノ瀬のテーブルに一枚の、より「深い」階層の収支報告書を置いた。

「ゼンが言っていたわ。お嬢さんは、光が強すぎる場所では目が眩んで、自分の足元にある『影の正体』に気づかないって。……見てごらんなさい。その1,200億、実はただの中抜きじゃない。某中枢が保有する数千万人分の個人データを、特定の民間企業に『無償に近い価格』で独占利用させるための、壮大な横流しスキームの一部なのよ」

ハニーの指先が、予算案の注釈にある小さな一行を指した。そこには、システムの運用保守を委託する代わりに、収集された非識別化データの二次利用権を事業者に譲渡する、という一文があった。

「データは現代の石油。1,200億の税金を使って油田を掘らせ、その所有権を身内にタダ同然で譲り渡す。……これが、この街を統べる『怪物たち』のやり方よ。……さあ、どうする? 相手は地方の小悪党じゃない。この国の『法律』を自分で書き換えることができる連中よ」

一ノ瀬の指先が、怒りと恐怖で小さく震える。摩天楼の窓の向こう側、数え切れないほどの照明が灯る夜景。その一つ一つが、吸い上げられた血税とデータによって輝いているように見えた。


「……っ、どういうことですか! 先週までは『前向きに検討する』と言っていたはずでしょう!」

一ノ瀬の声が、庁舎近くの公衆電話の中で虚しく響いた。受話器の向こう側、かつての協力者であった中堅議員は、怯えたような声で「すまない、これ以上は……いや、私の立場に関わる」とだけ言い残し、一方的に回線を切った。

彼女が掴んだ『次世代広域システム基盤構築事業』の闇。一ノ瀬がその核心に触れようとした瞬間、彼女の周囲の協力者たちは一斉に沈黙し、昨日まで開いていた扉は鉄錆のように固く閉ざされた。

「……誰も、戦おうとしない。数字がこれほど異常なのに、みんな『適正な手続きだ』と繰り返すだけ……」

一ノ瀬は冷たい雨が降り始めた路上に立ち尽くし、絶望に震えていた。地方の時は「悪人」の顔が見えた。しかし、ここでは「システム」そのものが敵であり、その正体は霞のように掴めない。

その時、傘も差さずに立ち尽くす彼女の隣に、音もなく一台の黒いセダンが停まった。後部座席の窓が静かに下がり、中から一人の男が鋭い視線を向けた。かつてゼンの下で実務面を支えていた男、**佐伯さえき**だった。

「お嬢さん。クジラの腹の中で溺れたくなければ、クジラの『消化器官』の動きを逆算しろ。……これは、かつて私のボスが、あなたのような人間に贈った言葉だ」

佐伯は無機質な声で告げると、一ノ瀬に一通の封筒を差し出した。中には、一つの「数式」と、数枚の「経費精算書の写し」が同封されていた。


P = ( (G * R) - (S * M) ) / L


「1,200億の本流を追えば、国家機密や守秘義務という名の壁に当たる。だが、その巨大なプロジェクトを動かすために設置された『事務局』の運営実態……その内訳は、まだ制度の隙間に残っている。これは私が、かつてボスから預かっていた、事務局の不透明な雑費リストだ」

一ノ瀬は、資料に目を凝らした。そこには、1,200億円の本予算とは別に、事務局の「調査研究費」や「会議室維持費」という名目で、月額数千万円が特定のペーパーカンパニーへ流れている記録が記されていた。

「事務局の運営費……。一見すると少額の『雑費』に見える。でも、この支払い先を辿れば、実態のない会社や、有力者の子息たちが『座っているだけ』で高額な日当を得ている、生々しい腐敗の証跡に辿り着く……!」

「そうだ。本体が叩けないなら、それを支える『腐った土台』を崩せ。土台が崩れれば、1,200億の巨像も自重で倒れる。……ボスは、あなたが自力でこの『数式の意味』に辿り着くことを期待しているようだがね」

佐伯はそう言い残すと、窓を閉めた。黒いセダンは、煙る街角へと静かに消えていく。一ノ瀬は、資料を強く握りしめた。ゼンは、自分が動けなくなった時のために、佐伯という「遺産」を外界に残していたのだ。

「……事務局の幽霊たち。そこが、あなたが教えてくれた『急所』なのね」

一ノ瀬の瞳に、再び強い光が宿った。彼女は、資料に記された「幽霊会社」の住所へと歩き出した。その背後を、巨大な組織の影が、蛇のように追跡していることにも気づかずに。


資料に記された住所は、都心の華やかな大通りから数本裏に入った、築40年を超える雑居ビルの4階だった。看板には『一般社団法人・広域システム研究推進機構』という名前が掲げられている。

一ノ瀬は、佐伯から渡された**「雑費リスト」**の数字を脳内で反芻した。この「機構」に対し、事務局からコンサルティング料として支払われているのは、月額2,800万円。だが、提示された数式に従えば、この法人が維持されるための固定費と人件費の合計は、どう計算しても月額300万円にも満たない。

「残りの2,500万円は、どこへ消えているの……?」

一ノ瀬は意を決して、錆びついたドアをノックした。返事はない。薄暗いオフィスの中に足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。

10台近く並んだデスクの上には、最新型のPCが置かれ、電源が入ったままになっている。だが、そこに「人間」の気配は微塵もない。唯一、奥のデスクに座っていたのは、所在なげに端末を眺めている青年一人だけだった。

「……あの、広報担当の方はいらっしゃいますか?」

一ノ瀬の問いかけに、青年は怯えたような表情を見せた。

「広報? いえ、僕……ここでバイトしてるだけで。仕事は、1時間おきにデバイスを動かして、PCがスリープにならないようにするだけなんです。他の人は……名前しか見たことありません」

一ノ瀬は、青年の横にある座席表に目を走らせた。そこには、元高官や現職議員の親族、さらには『センター』の役員たちの名前が並んでいた。彼らは一度も出勤することなく、この「マウスを動かすだけのバイト」が守る空席を維持するためだけに、月額数百万円の「報酬」を吸い上げている。

「これが、1,200億を支える『消化器官』の正体……」

一ノ瀬がその光景を撮影しようとした、その時。背後のドアが、暴力的な勢いで閉ざされた。

「……お嬢さん。人の家の台所を勝手に覗くのは、感心しないな」

低く、抑揚のない声。振り返ると、そこには安物のスーツを完璧に着こなした、表情の読み取れない男たちが三人、出口を塞いで立っていた。彼らの胸元には、無機質な銀色の正方形のバッジ――『センター』の監視実務者の証が光っている。

「……そのデバイスを渡しなさい。あなたが今見たものは、行政上の『機密情報』だ。無断での持ち出しは、重大な法に抵触する」

一ノ瀬は震える手でデバイスを背後に隠したが、男たちは距離を詰めてくる。その瞳に宿る「事務的に排除する」という意志は、暴力よりもなお深く、彼女の生存本能を凍りつかせた。

「抵抗は無意味だ。君が今日ここで何をしようと、このビルを出る頃には、君の社会的信用も、この記事を載せるはずの媒体も、すべて『清算』されている。……数式を乱す変数は、速やかに抹消される。それがこの街のルールだ」

男の一人が、懐からデバイスを取り出した。一ノ瀬は窓際に追い詰められ、逃げ場はない。佐伯も、ハニーも、そして……あの檻の中にいるゼンも、ここにはいない。

「……ゼンさん。数式は解けた。でも、答えを書くための紙が……もう足りないよ」

一ノ瀬が絶望に瞳を閉じた、その瞬間。

ビルの火災報知器が、鼓膜を劈くような音で鳴り響いた。


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