第4話:報・連・相の迷宮(ラビリンス) 〜その『今やろうと』は、地獄への特急券だぜ〜
「報告、連絡、相談。……その頭文字を取って『ホウレンソウ』。だが、現代社会の土壌に根を張っているのは、保身と隠蔽で根腐れした不信の種だけだ」
喫茶店『ジャックポット』。午後の斜光が、埃の舞う店内に頼りない境界線を描いている。俺はトレンチコートの襟を立て、鏡の中の自分と対峙した。
今日の俺の眼光は、剃刀のように鋭い。シガレットチョコを奥歯で噛み砕く音さえ、静寂を切り裂く銃声のように響くはずだった。
だが、コートの裏側に隠された「真実」は、あまりにも無慈悲に俺を嘲笑っている。
今日のTシャツは、蛍光ピンクの生地に、これ以上ないほど間の抜けたフォントでこうプリントされていた。
『やる気、行方不明。』
昨夜、自室の姿見の前で三時間。「俺の指パッチンの音、湿気てないか?」「もし不発だったら、その瞬間の俺の顔は……?」そんな被害妄想の迷宮に迷い込み、朝まで自問自答を繰り返した末の、魂の脱殻だ。この布一枚が、俺が積み上げてきた「孤高の狙撃手」という砂の城を、内側から爆破していく。
「ゼンさーん! また魂が鼻から半分漏れ出してますよ? ほら、特製の『根性が出るジンジャーエール』です! ショウガたっぷりで、喉からやる気が湧いてきますよ!」
看板娘・ミチルが、この世の邪気をすべて浄化するような笑顔でグラスを置く。彼女の周りだけ、世界の解像度と彩度が異常に高い。
「……ミチル、俺に必要なのは根性じゃない。この世から『評価』や『視線』という名の刃が消え去ることだ」
「ふふ、ゼンさんは相変わらず哲学的な冗談が上手ですね。はい、ストローどうぞ!」
彼女の「ホワイトアウト(純粋な善意)」に当てられ、俺のハードボイルドな外殻が、熱せられた飴細工のようにミリ単位でひび割れていく。
その時、店の重い扉が、死刑宣告の鐘のような音を立てて開いた。
現れたのは、中堅企業に勤める男、佐藤。
彼の背後には、社会の闇――「先延ばし」という名の粘着質な影が、巨大な蜘蛛の足のように這いずっていた。
「……あ、あと一時間。あと一時間だけ『今やってます』と微笑めば、今日の嵐はやり過ごせる……。明日になれば、世界が滅んでいるかもしれないし、誰かが奇跡的に修正してくれるかもしれない……」
佐藤の独り言は、ドブ川に捨てられた砂糖菓子のように不味い。
俺の視界が、一瞬でモノクロームの「観測モード」へ反転する。
佐藤の喉元。そこに、醜く肥大化し、ドクドクと不規則に脈打つ真っ赤な「痛点」が見えた。
それは【失敗の隠蔽】【叱責への恐怖】、そして何より「仕事ができない自分」を認めることで世界が崩壊すると信じ込んでいる【幼児的な全能感の残骸】だ。これらが混ざり合い、今にも溢れ出しそうな汚泥となって彼を支配している。
「 Sweetest Dream... 」
甘い、鼓膜の奥までとろけさせるような蜜の声。
極彩色のドレスを纏ったハニーが、佐藤の背後に音もなく立ち、その震える肩を優しく抱いた。彼女が指をパチンと鳴らすと、佐藤の周囲に、現世の苦しみを覆い隠す「虹色のメリーゴーランド」が高速で回り出す。
「いいのよ、佐藤さん。あなたは『慎重』に、宇宙が整うのを待っているだけ。報告なんて無粋なことをして、野蛮な上司にあなたの高貴な精神を汚させる必要はないわ。……そう、真実はこの甘い夢の毛布の中に、深く沈めてしまいましょう?」
「……そうだ。僕は、悪くない……。僕を理解しようとしない会社が、怒鳴る上司が、すべて間違っているんだ……」
ハニーの【脳内補完】が、佐藤の無責任を「自己防衛という名の聖域」へと書き換えていく。このままでは、彼は社会的な死すら「幸福な旅立ち」だと誤認して、底なしの沼に沈んでいくだろう。
「ハニー……あんたの作る綿あめは、中身が空っぽだぜ。地べたを這いずるような泥臭い真実だけが、人を唯一立ち上がらせるんだ」
俺は立ち上がり、トレンチコートの裾を劇的に翻し、その前を――全開にした。
「なっ……!?」
ハニーの余裕に満ちた笑みが、一瞬で凍りついた。
彼女の視線の先には、俺の胸元で燦然と輝く**『やる気、行方不明。』**の七文字。
「佐藤! お前が恐れているのは怒号じゃない。自分の内側にある『空虚』が暴かれる、その瞬間だ! だがな……『今やろうと思ってた』という言葉は、未来のお前の首を、一ミリずつ、だが確実に締め上げる絞首刑の縄に過ぎないんだよ!」
俺は右手の親指と中指を、鋼のような精度で交差させた。
少年誌の巻頭カラーを撃ち抜くような、絶対的な断罪の構図。
「俺にアイツを笑う資格はない。……だが、同じ泥沼で震えているからこそ、その急所は痛いほどよく分かる」
独白が重厚に響き、喫茶店内の空気が、巨大なプレス機にかけられたように圧縮される。
「――逃げ場は既に、埋まっているぜ。JACKPOT執行!!」
パチンッ!!
乾いた音が響いた瞬間、佐藤の頭上に、カジノの電飾を思わせる巨大なスロットが出現した!
リールが爆速で回転し、周囲の風景を吸い込んでいく。揃った図柄は――【無・能・確定】!
「ぎゃあああああああ!! 本当は! 一時間前に操作ミスでメインデータを消去しましたあああ! 怖かった! 怒られるのが、自分が『使えない人間』だと刻印されるのが死ぬほど怖くて、公園の多目的トイレに三時間こもってスマホゲームしてましたああああ!!」
佐藤が、物理的な衝撃波と共に店の防音壁を突き抜け、裏の公園の砂場まで一直線に吹き飛んでいく!
ハニーが展開していた甘い幻覚が、強化ガラスを粉砕したように砕け散り、剥き出しの「恥」と「現実」が佐藤の全細胞を貫いた。
彼は砂まみれになり、鼻水と涙を垂れ流しながら、震える指で端末を操作し、上司への謝罪と事実報告を叫ぶように打ち込み始めた。
「……ふん。ようやく、自分という名のシステムが再起動したようだな」
俺はシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。
決まった。今この瞬間、俺は間違いなくこの歪んだ世界の中心だった。
だが。
「ゼンさーん! 今の、すっごく、すっごおおおく格好良かったです!」
背後から、鼓膜に直接「善意」を流し込むような声。ミチルだ。
彼女は感動で目を潤ませ、俺の手を両手で握りしめてきた。
「そのTシャツ! 『やる気、行方不明。』……! つまり、**『やる気なんていう不確かな感情に頼らず、自分を律して淡々と義務を果たせ』**っていう、佐藤さんへの、これ以上ないほど高度な武士道のアドバイスだったんですね! ゼンさん、本当はやる気に満ち溢れているのに、わざと自分を情けなく見せて相手の心を開かせるなんて……!」
「……え?」
「さすが、自分を律することに厳しいゼンさんです! その、あえてダサい格好をしてまで、自分を犠牲にして人を救おうとする『隠れたヒーローの美学』……私、一生尊敬しちゃいます!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母のような全肯定」。
それが、俺の豆腐メンタルに核爆弾級の致命傷を与える。
俺は別に、武士道なんて説いていない。ただ昨夜、自分の指パッチンのキレを心配しすぎて、文字通りやる気が次元の彼方へ消え去っていただけだ。
「……あ……いや……ミチル……それは……誤解……だ……」
「あ、ゼンさん? また顔が彫像みたいに真っ白ですよ? ほら、次は『頑張る働きアリさん』の特大フルーツパフェ、持ってきますからね!」
ミチルがスキップするように奥へ引っ込む。
俺の視界から再び色が消え、ただ、自分のTシャツの『行方不明』という文字が、虚しく宙を舞う幻影が見えた。
「……J-JACK……POT……」
俺は、糸の切れた人形のように、床に沈没した。
ハニーが隣で、「あはは! 本当に、あなたって最高に壊しがいのあるおもちゃね!」と、椅子から転げ落ちそうになりながら笑っていた。




