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幕間:焦土の再編 〜亡霊たちの独断〜


地方都市を焼き払った一ノ瀬の告発記事。その衝撃波は、かつてゼンが「執行人」として君臨していた時代に、彼の周辺で蠢いていた人間たちの元へも、音もなく届いていた。

某T都の片隅、築年数の不詳な古い雑居ビルの一室。そこには、かつて「予算の魔術師」と謳われながらも、ある巨大プロジェクトの責任を負わされて表舞台を追われた男、**九条くじょう**がいた。彼は今、地方自治体の補助金申請を代行する細々としたコンサルタントとして、その卓越した知性を浪費している。

九条は、古びたモニターに映し出された某市の再開発白紙撤回のニュースを、無感情な目で見つめていた。だが、彼の指先は、一般のジャーナリストが見落とすような、予算等一覧表の「一行」に釘付けになっていた。

「……計算が、合わないな」

九条は独り言を漏らし、吸い殻の山となった灰皿に視線を落とした。

「白紙撤回された58億4,000万円の予算。だが、この市の決算公告を過去五年分遡れば、一族の息がかかった外郭団体に流れたまま『未執行』で積み上がっている予備費と基金が、少なくとも12億円はある。これに誰も気づいていないのか? それとも、気づかない振りをしているのか……」

九条の脳裏に、かつて自分を完膚なきまでに叩き潰した、あの冷徹な「数字の怪物」の横顔が浮かんだ。ゼンなら、この12億円をどう使うか。このまま焦土として街を見捨てるか、あるいは、この「隠し金」を解毒剤に変えて街を再編するか。

九条は、数年ぶりに、かつてゼンから「いつかこの数字が必要になる時が来る」とだけ言い渡されていた、暗号化された共有ドライブへのアクセスを試みた。

パスワードは、当時ゼンが最も忌み嫌っていた「非論理的な感情」の指数を逆算した数値。

エンターキーを押すと、画面には簡素なテキストファイルが一つだけ現れた。

『焦土に価値はない。だが、その灰の中に、次のゲームのチップを隠した。』

それは、数年前のタイムスタンプが押された、ゼンからの「遺言」のような指示だった。九条は、乾いた笑いを漏らした。

「……死んでなお、俺を駒として使うつもりか。それとも、これがあんたの望んだ『正しい解』なのか」

九条は、埃を被った電話を手に取った。連絡先は、かつてゼンを介して一度だけ繋がったことのある、裏社会の情報屋――『カラス』。

彼女もまた、この地方の混乱を、別の角度から見つめているはずだった。

同じ頃、某市の駅前。シャッターの閉まった商店街を、一人の女が歩いていた。

かつてゼンに敗北し、法曹界のキャリアを奪われた元弁護士、サトミ。彼女は今、この街の片隅で、法律相談という名の「敗戦処理」を引き受けている。

彼女の足元には、一ノ瀬の記事を読み、絶望に暮れる商店主たちから預かった、破棄されるはずだった契約書の数々が詰まったバッグがあった。

「……ゼン。あんたが壊したわけじゃないだろうけど、あんたの影がちらつくわ。この数字の並び方は、あんたが好む『最も効率的な破壊』そのものだもの」

サトミは、赤いスプレーで汚された掲示板を見上げ、不敵な笑みを浮かべた。

「いいわ。あんたが更地にしたっていうなら、私はその上に、あんたですら計算できなかった『執念』という名の不条理を建ててあげる」

ゼンという中心軸を失った世界で、かつての駒たちが、それぞれの怨嗟と目的を持って、焦土へと集い始めていた。それはゼンが意図したことなのか、それとも、彼が遺した数字の引力が引き起こした必然なのか。


某市の郊外。かつて再開発のモデルルームとして使われ、今は差し押さえの赤い紙が貼られるのを待つだけのプレハブ小屋。その薄暗い一室に、かつてのゼンの「手駒」たちが、数年ぶりの再会を果たしていた。

「……九条。相変わらず、安っぽい煙草の臭いが染み付いているな」

闇の中から声をかけたのは、情報屋の**カラス**だった。彼女は、地元の土建業者たちの間で「幽霊会員」として登録されているダミー企業の経営実態を網羅した、一冊の分厚いファイリングをテーブルに放り出した。

「鴉か。お前の方こそ、相変わらず『他人の財布の底』を覗くのが趣味のようだな」

九条は不敵に笑い、ノートパソコンを開いた。画面には、市の一般会計からは隔離された、特定目的基金の推移グラフが表示されている。

「いいか、サトミ。ここからが実務だ。一ノ瀬が暴いたのは『三男の中抜き』という、いわば枝葉に過ぎない。本流は、白紙撤回された58億4,000万円の予算ではなく、過去十数年にわたり、一族が『〇〇市環境整備公社』という外郭団体に溜め込んできた12億8,000万円の内部留保金だ。この金は、形式上は公社の資産だが、実態は一族が私物化している。……だが、公社の定款ていかんには、事業継続が困難になった場合、残余財産は市に帰属するという項目がある。ここが突ける」

サトミは、商店主たちから集めた委任状の束を指先で弾いた。

「ええ、そのための『法的なトリガー』は私が用意するわ。商店主たちを原告として、一族の関連企業を相手取った『工事遅延に伴う損害賠償請求』を一斉に提訴する。当然、向こうは支払いを拒むか、計画的な自己破産を狙うでしょう。……でも、九条が見つけたその12億円の『公社資産』に、市が先んじて債権差押えをかけるよう、住民訴訟を併用して圧力をかける。行政が身内を守るために『不作為なにもしないこと』を決め込むなら、それを『背任』として刑事告発する準備もできているわ」

サトミの言葉は、かつてゼンに叩き潰された屈辱を、磨き抜かれた法理の刃へと変えた者の響きを持っていた。

「なるほど。九条が『金の隠し場所』を特定し、私が『金の流れを止めている急所(弱み)』を突き、サトミが『法的な回収ルート』をこじ開ける……というわけね」

鴉が、一族の息がかかった銀行の支店長が、裏で私的に行っていた融資の証拠写真をテーブルに並べた。

「この支店長を締め上げれば、公社の資金が某T都の別法人にロンダリングされる前に、口座を凍結できる。……これが成功すれば、一族の懐に入るはずだった12億円は、市の『緊急経済対策予算』として、法的根拠を持って強制的に還流される。……立ち退きで店を失った人たちの補償、止まった市道の補修、そして連鎖倒産を防ぐための短期融資枠……。58億円のハコモノなんて要らない。この12億を正しく『血管』に流し込めば、この街の壊死は止まる」

九条は、キーボードを叩き、一つのシミュレーション結果を表示させた。

それは、一族を完全に排除した上で、地元の商店街と零細業者が「直接」行政と契約を結ぶための、新しい入札構造の草案だった。ゼンのような神がかり的な計算ではなく、泥臭い利権の組み替え。だが、そこにはかつて彼らがゼンから学んだ「数字を本来あるべき場所に置く」という執念が、呪いのように刻まれていた。

「……ゼン。あんたなら、これを『非効率な延命』だと笑うかもしれないな。だが、あんたがいなくなったこの焦土で、俺たちは俺たちのやり方で、数字の帳尻を合わせてみせる」

九条の独白に応える者はいない。

だが、そのプレハブ小屋の窓の外、街のどこかで、止まっていた信号機が一つ、再び点灯した。


数週間後、某市の市役所庁舎前。

かつて議員一族の私有車がわが物顔で並んでいた特等席には、今や差し押さえを執行する地裁の車両と、サトミが組織した住民弁護団の質素な国産車が停まっていた。

「……計算通りね、九条」

サトミは、裁判所から下された「預金債権仮差押決定通知書」を掲げた。

九条が特定した『〇〇市環境整備公社』の隠し口座12億8,000万円は、某T都の別法人へ送金されるわずか2時間前に、法的に凍結された。一族が「経営努力による余剰金」と言い張ったその金は、鴉がリークした「不当な業務委託とキックバックの証拠」によって、実質的な公金横領の産物であると断定されたのだ。

この資金を原資として、市議会では緊急の「地域経済再生基金」が可決された。

58億のハコモノ計画という巨大な虚飾は消えたが、その代わりに、立ち退きで廃業寸前だった商店主への補償金と、止まっていた公共インフラの修繕予算が、細い、しかし確実な毛細血管となって街を巡り始めた。

「……正義の勝利、なんて言葉は使わないでくれ。俺たちがやったのは、ただの『資金洗浄の逆回し』だ」

九条は、遠くで再び動き始めた補修工事の重機の音を聞きながら、乾いた笑いを漏らした。

「一族は失脚し、隠し金は市に還流された。地元の零細業者は、公社を通さない『直接入札』で仕事を得る。……これで、この街の死期は数十年先延ばしにされた。……ゼン、あんたが遺した数式の答えは、これで合っているか?」

九条たちは、自分たちが成し遂げたことに満足感など抱いていなかった。彼らはただ、かつての主人が愛した「数字の秩序」を守ったに過ぎない。

だが、この「地方の小さな更生」は、ある巨大な存在の不興を買うこととなった。

同じ頃、某T都。

空を切り裂くような全面ガラス張りの超高層ビルの一室で、一人の男がタブレットの画面を忌々しそうにスワイプしていた。画面には、某市の12億円が「住民側」に奪われたことを報じる、地方紙の短信が映っている。

「……無能な連中だ。たかが地方の土着議員ごときが、せっかくこちらで洗浄してやる予定だった12億を、みすみす住民に奪い返されるとは」

男は、某T都の広域行政を陰で操る巨大中間団体、通称**『センター』**の幹部だった。彼らにとって、地方の再開発予算やその中抜きは、都心の巨大な利権構造を維持するための「末端の養分」に過ぎない。

「……この『一ノ瀬』というジャーナリスト。彼女の背後で数字を動かしているのは誰だ? 地方の小娘一人に、これほど精緻な資金移動の特定ができるはずがない。……それに、あの九条やサトミが動いた形跡もある」

男は受話器を取り、冷酷な声で命じた。

「……あのお嬢さんを、これ以上自由にさせるな。彼女が次に嗅ぎ回ろうとしている『都立病院の民営化予算』と『デジタル推進中抜きスキーム』……。これに触れさせるわけにはいかない。……彼女を、我々の『数式』の中に引きずり込め。……まずは、彼女の周囲にいる『協力者』から根こそぎだ」

一ノ瀬が放った弾丸は、地方の壁を突き破り、ついにT都の心臓部に鎮座する「顔のない怪物たち」の服をかすめた。

一方で、喫茶店『ジャックポット』。

外界の激変を完全に遮断したその檻の中で、ゼンはミチルによって新しく用意された「一切の通信機能を持たない、計算専用の端末」に向き合わされていた。

「ゼンさん、外が少し騒がしいみたいですけど……気にしなくていいですよ。……ゼンさんの代わりに、誰かがお掃除を済ませてくれたみたいですから。……さあ、冷めないうちに。今日のコーヒーは、特別に甘くしておきましたから」

ミチルが差し出したコーヒーは、かつてないほど濃密な砂糖の香りが立ち込めていた。それは、思考を停止させ、安らかな死へと誘うような、逃げ場のない甘露だった。

ゼンは無言で、その「毒」を口にする。

外界で動き出した「怪物」たちの視線が、一ノ瀬を通じて自分へ向けられつつあることを、彼はまだ知らない。


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