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第32話:地方の晩餐 〜家族経営とハコモノの甘い罠〜


喫茶店『ジャックポット』。

店内に流れる古いジャズの調べは、真空管アンプ特有の重厚な温かみと、それ以上に深い「時代の澱み」を帯びて、微かな塵と共に漂っている。カウンターに置かれた古い砂時計は、落ちる砂の音さえ聞こえそうなほどの静寂を刻んでいた。だが、その完成された静謐を無慈悲に切り裂くように、窓の外では市議会議員選挙の街宣車が、スピーカーの限界を超えて割れた音声で、空疎な希望をがなり立てて通り過ぎていく。

「市民の皆様の未来のために、身を切る改革を! 私、佐藤よしおは、この街の再生に命を懸けます!」

その絶叫がガラス窓をビリビリと震わせるたび、ゼンはカウンターの隅で、深い溜息を吐いた。彼は今、ミチルによって「作業中に袖が汚れないように」という名目で無理やり着せつけられた、薄ピンク色のフリル付きエプロンの裾を、所在なげに握りしめている。それは、かつて数兆円の資本を数式一つで動かした「執行人」としての尊厳を、物理的な布の面積と甘ったるい配色によって、完膚なきまでに否定する残酷な象徴だった。

ゼンが今日身に纏っているのは、黒地に白の細い線が幾何学的に交差し、中央で巨大な「0」という数字が、何かの入力エラーのように虚しく居座っているデザインのTシャツだ。

『計算、合わない。』

胸元のその文字は、今の彼の境遇そのものを皮肉っているようにも見える。

「……一ノ瀬。あんた、またこの店に『正義の燃えカス』を持ち込んできたのか? 俺は今、ミチルが淹れるこの、驚くほど色の薄いアメリカンのせいで、脳の全回路がスタンバイモードに入ってるんだ。あんたが抱えているその泥臭い資料を読み解くような、高尚なエネルギーは残っちゃいない」

ゼンは、カウンターに置かれたカップに視線を落とした。向こう側が透けて見えそうなその液体は、コーヒーというよりも、焦げた記憶の抽出液のような味がする。

「お願いします、ゼンさん! 他に頼れる人がいないんです!」

一ノ瀬は、雨に濡れて乾いた後のようにページが波打ち、インクの滲んだノートと、役所が発行した分厚い予算概要書を、狂気を感じさせるほどの勢いでカウンターに叩きつけた。その衝撃で、ミチルがゼンを喜ばせるために数ミリ単位の誤差もなく積み上げていた角砂糖のピラミッドが、乾いた音を立てて崩落する。

「この、某I県内の某市……私が生まれ育った街で今、取り返しのつかないことが起きようとしているんです。再開発計画と銘打たれた、市民のための『多目的交流センター』の建設。……でも、その数字の裏側を見てください。総工費は58億4,000万円。人口わずか5万人規模の、若者が消えゆく過疎化の進んだ市で、これだけの巨額投資が必要なわけがないんです! 建築単価を逆算すると、都心の高級オフィスビル並みの平米単価80万円を超えています。さらに、完成後の維持管理費として毎年2億2,000万円を計上している。これは、隣接する〇〇市や××市の同規模施設と比較しても、管理運営費の割合が不自然に**35%**以上も高い。誰かが、この建物を『財布』にしようとしている……その確信はあるのに、私一人の力では、この数字の嘘を剥がせないんです!」

一ノ瀬の瞳には、不正を許さないという青い炎が、狂気的なまでの純粋さを伴って宿っていた。彼女が持ち込んだのは、地方行政が「市民への説明」という免罪符のために整えた、表面的な数字の羅列だ。だが、その整列した数字の兵隊たちの背後に、どれほど醜悪な「欲望の設計図」が隠されているか。彼女はそれを暴くための、鋭利な知略を求めて、この「逃げ場の無い檻」の門を叩いたのだ。

ゼンは崩れた角砂糖を一つ拾い上げ、口に放り込んだ。脳に直接届くはずの甘みは、今の彼にはただ、砂を噛むような虚無感しか与えなかった。


「ゼンさん……私の淹れたコーヒーが『薄い』んじゃなくて、ゼンさんの『私への集中力』が薄いんじゃないですか?」

低く、しかし鈴を振るような透明感を持った声が、カウンターの奥から響いた。ミチルは、一ノ瀬が広げた資料によって乱された角砂糖の残骸を一瞥もせず、ただゼンだけをその瞳に映している。彼女の手には、まるで儀式のように恭しく、新しいおしぼりが握られていた。

ミチルはカウンターを回り込み、ゼンの背後へと音もなく滑り込む。彼女の体から漂う、清潔な石鹸と微かなスパイスが混ざり合った香りが、ゼンを包み込んだ。彼女は、ゼンが資料の束に手を伸ばそうとするその指先を、熱を帯びたおしぼりで優しく、しかし有無を言わせぬ力で包み込む。

「外から持ち込まれた泥臭い不浄に触れる前に、まずはその手を清めないと。……それとも、ゼンさんは私にお世話されるよりも、こんな『正義の押し売り』に夢中になる方が楽しいんですか?」

ミチルはゼンの背中をなぞるようにして、ピンク色のフリルエプロンの紐に指をかけた。そして、意図的に、肺が微かに圧迫されるほど強く、その紐を締め上げる。ゼンが小さく息を詰まらせるのを確認すると、満足げにその背中に体重を預けた。

「こんな、どこかの誰かのために怒っているような人のために、ゼンさんの貴重な脳細胞を一秒でも浪費させたくありません。ゼンさんの知略は、私と一緒に今日の夕飯の献立を『昨日の残り物を、いかに宮廷料理のように見せるか』という、世界で一番大切で、唯一無二の課題にのみ、注ぎ込まれるべきなんです」

ミチルはゼンの耳元で囁きながら、一ノ瀬が広げた予算概要書を、まるで汚物でも見るかのような冷徹な視線で切り捨てた。その瞳は、先ほどまでの少女らしい甘さを消し去り、自分たちの聖域を侵す外敵に対する、絶対的な拒絶の色に染まっている。

「……まあ、ゼンさんがこの人を三分以内に納得させて追い出すなら、少しだけその手元を自由にしてあげなくもないですけど。ゼンさんは、私にお世話されていないと、自分の靴下の穴も見つけられず、鏡の前でネクタイを結ぶことすら忘れてしまう『素敵に無能な人』なんですから。ねえ、そうでしょう?」

ミチルはそう言いながら、ゼンの肩にそっと顎を乗せた。彼女の華奢な掌は、ゼンが椅子から立ち上がろうとする気配を察知するセンサーのように機能し、必要最小限の力で彼を椅子に、そして『ジャックポット』という名の閉じた世界に繋ぎ止めている。

それは、愛という名でコーティングされた、逃げ場のない監禁だった。ゼンは自分の肺に溜まった空気が、彼女の支配によって少しずつ「彼女の所有物」に書き換えられていくような感覚を覚えながら、重い瞼を上げた。

「……ミチル。あんたの言う『三分』ってのは、地球の時間軸の話か、それともあんたの主観による永遠のことか? ……これだけの資料を三分の口実で片付けるのは、数学的に言っても無理がある」

「あら、ゼンさんなら一瞬で『正解』が見えているはずですよ。それとも……わざと時間をかけて、このお嬢さんとの時間を楽しもうとしているんですか?」

ミチルの指が、ゼンの首筋を薄氷を撫でるような冷たさでなぞる。その微かな接触は、もし答えを誤ればこのエプロンの紐が、そのまま彼の呼吸を止める鎖に変わるだろうという無言の警告だった。

ゼンは、カウンター越しに自分を縋るような目で見つめる一ノ瀬と、背後で甘い毒を振りまくミチルの間で、逃げ場のない溜息を深く吐き出した。


「……いいか、一ノ瀬。これが地方という、閉鎖された水の濁りきった社会で行われている『お遊戯会』の、剥き出しの裏側だ」

ゼンは、背後からミチルに密着され、その華奢な腕が喉元をかすめるという不自由極まりない姿勢のまま、震える右手で赤ペンを握り直した。彼は、一ノ瀬がノートの余白に必死で書き込んだ、乱雑な親族の相関図を冷徹な目で見下ろす。その視線は、もはや無気力な居候のそれではない。膨大なデータの海から、一瞬で「致命的な矛盾」という名の血痕を見つけ出す、かつての「執行人」の眼差しだった。

「この市の建設事業を差配する常任委員会のトップ。その男の長男が経営する土木事務所。そして、この再開発計画の予算案を承認した議長の後援会長が社長を務める資材会社。さらに、今回の工事を共同で受注する共同企業体の幹事会社……この代表者の苗字を順に並べてみろ。……驚くほどバリエーションに欠けると思わないか?」

ゼンは、ペン先で親族図の特定の名前を力強く囲み、それらを太い線で繋いでいく。

「全員、血縁か、あるいは姻戚関係にある。あんたが『議事堂』と呼んでいるあの建物は、市民の声を拾い上げ、未来を議論する場所じゃない。一族の食卓で、誰が一番高い肉を食い、誰にデザートの分配権を与えるかを決める、ただの親戚会議ダイニングルームだ。その食卓に並ぶ料理の代金は、すべてこの街で真面目に働く人間が納めた血税だ。……お嬢さん、あんたが憤っているのは、この連中の『マナーの悪さ』か? それとも、自分たちが招待客ですらないという『現実』か?」

ゼンの言葉は、一ノ瀬の喉元に突きつけられた刃のように鋭く、冷たい。彼は資料のページを乱暴に捲り、58億4,000万円という総工費の、さらに奥に隠された細かな内訳を指し示した。

「この『多目的交流センター』ってのは、市民のための利便施設なんかじゃない。住民税という名の栄養を、一族の口座へと数十年にわたって送り込み続けるための、合法的な永久集金マシーンだ。見てみろ、この設計段階でのコンサルタント費用だけで1億2,000万円。近隣の〇〇市や××市の基準と比較しても、この規模の案件にしては算出根拠が**25%**も上乗せされている。この超過分……約3,000万円が、どの親戚の懐に、どんな名目の『手数料』として消えたと思う?」

一ノ瀬は絶句し、ただペンを握る手を震わせていた。彼女が抱いていたのは、正義感という名の漠然とした「怒り」に過ぎなかった。だが、ゼンが今提示しているのは、感情の入る隙など微塵もない、無機質で冷酷な「数学的必然」だ。

「さらに、この建物の『死後』……つまり維持管理費だ。清掃、警備、空調設備の点検、エレベーターの保守。これらの委託先を一覧にしてみろ。すべて、この一族の関連会社か、あるいは子会社だ。この街の人口は5万人。毎年2億2,000万円の維持費が必要だということは、赤ん坊から寝たきりの老人まで、市民一人あたりが毎年4,400円を、一生使うこともない施設の維持のために上納し続けることになる。これが30年続けば、66億円がこの一族に流れ込む計算だ。……これを『地域の活性化』と呼びたければ勝手にしろ。だが、数学的にはこれを『合法的な略奪』と定義する。……あんた、この数字の重みに耐えられるか?」

ゼンの声は、次第に低く、熱を帯びていく。その知略が解き放たれる快楽と、それを他人のために使わされている屈辱。ミチルはゼンの肩越しにその横顔を見つめ、彼の中に眠る「怪物」が目を覚ます気配を、恍惚とした表情で楽しんでいた。彼女の手は、ゼンの胸元でより一層強く、その存在を主張するように握りしめられていた。


「 Sweetest Collusion... 」

その囁きは、店内の澱んだ空気を一瞬にして凍りつかせるような、無機質な甘さを孕んでいた。いつの間にか、ハニーが一ノ瀬の背後に音もなく立ち、彼女のノートに細く長い、氷のような指を添えていた。一ノ瀬が驚きで息を呑む暇さえ与えず、ハニーの指先は、膨大な資料の片隅に、まるで最初からそこにあるべきではなかったかのように小さく記されたある項目を、正確に指し示した。

(……あら、この『家族経営』のリスト。一見すると盤石な地方の包囲網に見えるけれど、一点だけ、あなたが見落としている『隠し味』があるわよ……)

ハニーの指がなぞったのは、議員の三男が都内、港区の雑居ビルに籍を置いているという「〇〇・デジタル・クリエイト」という社名だった。一見、地方の土着的な利権とは無縁に見える、横文字のクリーンで先進的な会社名。それが、この一族の鎧の、最も薄い継ぎ目だった。

「この会社、登記上の資本金はわずか300万円。社員も数名、実態は代表者である三男一人のペーパーカンパニーに近い組織だわ。それなのに、この市から『行政サービスの効率化およびDX推進事業』という名目で、競争入札なしの単独指名、つまり随意契約で、毎年4,500万円もの業務委託費を受注しているの。……ねえゼン、これをどう料理する? このお嬢さんを、地方のおりに潜む『現代的な寄生虫』の正体に絶望させて追い返すか、それとも……」

ハニーはゼンの耳元で、甘く、毒を含んだ息を吹きかける。ゼンは鼻で笑い、右手に握っていた赤ペンをカウンターの上で無造作に弄んだ。その視線は、三男の会社の収支計算書を一瞥しただけで、その内部構造の致命的な欠陥を透かして見せていた。

「……お嬢さん。その三男の会社が納品したという『〇〇市民ポータルアプリ』の実態を洗ってみろ。専門的なエンジニアの知識なんて必要ない、ただの事実確認だ。おそらく、オープンソースの無料テンプレートを流用しただけで、セキュリティのパッチすら当たっていない、ただの空箱だ。サーバーの稼働記録ログを情報公開請求で開示させてみろ。アクセスしているのは、テスト送信を繰り返す市役所の情報課職員と、議員の身内、それと受注業者の身内だけだと判明するはずだ。年間4,500万円。一か月あたり約375万円。これだけの金が、ただサーバーを置いているだけの『維持費』として消えている」

ゼンの言葉は、もはや推理ではない。過去に数多の企業の虚飾を剥ぎ取り、再構築してきた彼にとって、それは「見慣れた詐欺のパターン」に過ぎなかった。

「この街の平均的な世帯年収の、実に10倍以上の税金が、一人の若造の都心での豪遊資金に化けている。行政の効率化なんてのは、会計検査を逃れるための建前だ。実態は、土木工事という『目立つ利権』の陰に隠して、追跡が難しく、誰も中身を検証できないデジタル予算として身内の小遣いを捻出しているだけだ。そこが、この一族が纏っている『先進的でクリーンな市政』という名の鎧の、最も脆い箇所だ。ここを突けば、一族全体の不透明な資金フローが逆流を始める。……さあ、どうする? 自分の故郷を、この醜悪な真実で一度更地にする覚悟はあるか? 数字は嘘をつかないが、突きつけた瞬間に、誰かの人生を確実に終わらせる刃になる」

一ノ瀬は震える手で、その数字と社名をノートの最も目立つ場所に刻み込んだ。

「……4,500万円。この街の、将来が見えずに消えていく若者たちの学費や、廃止されたバス路線の維持費がどれほど賄えるか……。ゼンさん、私……これを、この数字という名の暴力を、絶対に許しません。彼らが市民を欺き、その背後で笑っているのを、私が終わらせます」

彼女の筆跡は、怒りによって激しく歪んでいたが、その筆圧はこれまでにないほど強く、迷いがなかった。ゼンはその様子を、エプロンの紐で締め付けられた窮屈な体勢のまま、どこか遠い場所の出来事のように眺めていた。自分の吐いた言葉が、一人の人間の平穏を奪い、戦場へと突き落としたことを理解しながらも。


「……分かりました。彼らが『市民の幸福』や『次世代への投資』という耳障りの良い言葉で塗り固めてきた嘘を、この数字という名の刃で、白日の下に晒してきます。……ありがとうございました、ゼンさん。あなたのその、突き放すような冷徹さに……私は、今の自分に必要な覚悟を教わりました」

一ノ瀬は、ゼンの解析によって真っ赤な修正線と血の通った実数で埋め尽くされたノートを、宝物のように、あるいは呪物のように強く胸に抱き寄せた。その瞳からは、先ほどまでの迷いや困惑は完全に消失し、代わりに冷たく研ぎ澄まされたジャーナリストとしての、一種の狂気が宿っている。彼女は、もはやゼンを「救うべき弱者」としては見ていなかった。自分に戦うための毒を授けた「忌むべき師」として、その存在を魂に刻み込んだのだ。

「ゼンさんに教えを乞うなんて、百歩どころか万歩以上も譲ってあげたんですから。……負けたら承知しませんからね」

ミチルの声が、氷の礫のように鋭くカウンターに響いた。彼女はいつの間にか、一ノ瀬の前に一皿の菓子を置いていた。それは、表面が鏡のように滑らかにコーティングされ、照明を吸い込んで重く沈むような漆黒の輝きを放つ【特製ビターチョコ・タルト】だった。

「食べて、さっさと自分の『戦場』へ帰りなさい。……ゼンさんの貴重な、私との大切な時間を15分も浪費させたんです。その責任、記事という名の結果で、しっかりと取ってもらいますから。……いいですか、ゼンさんは、私にお世話をされることでしか生きていけない、この世で一番不器用な人なんです。あなたの持っているようなキラキラした正義なんて、この店には一滴も必要ありません!」

ミチルは冷たく言い放ち、エプロンのポケットから取り出した真っ白な除菌シートで、一ノ瀬の資料が触れていたカウンターの場所を、これ見よがしに、しかし隅々まで徹底的に拭き清めた。その動作は、一ノ瀬という「異物」がこの閉じた聖域に持ち込んだ外界の澱みを、一刻も早く消滅させたいという、強迫観念に近い独占欲の現れだった。

だが、その一方で、ミチルの左手はカウンターの下で、ゼンのエプロンの裾をぎゅっと掴み、その温もりを確かめるように小刻みに震えていた。一ノ瀬という、自分と同年代でありながら「外の世界」で何かを変えようとする女性に対する猛烈な焦燥。そして、ゼンが自分以外の「誰かの目的」のためにその知略を貸し出してしまったことへの、幼い少女のような根深い嫉妬が、彼女の胸の中で激しく渦巻いていた。

一ノ瀬は、差し出されたタルトをフォークで小さく切り、迷うことなく口に運んだ。

その瞬間、脳を直接殴打するような、カカオの暴力的なまでの苦みが彼女の口腔内を支配した。甘みは、後味として微かに、あるいは幻覚のように存在するに過ぎない。だが、その容赦のない苦みこそが、今から彼女が踏み込もうとしている「地方の闇」という名の現実の味であることを、彼女は本能で理解した。

「……苦い。でも、これで目が覚めました」

一ノ瀬は最後の一口を飲み干すと、目尻に溜まった微かな涙を拭うこともせず、力強い足取りで店の重い扉を開けた。

カランカラン、という乾いた鐘の音が響き、彼女の背中が夜の帳へと消えていく。入れ替わりに流れ込んできたのは、遠くで今なお「清き一票を!」と虚しく叫び続ける選挙カーの、どこまでも空疎な残響だった。

ミチルはその音を物理的に遮断するように、店の扉を勢いよく閉め、重厚な錠をかけた。そして、ようやく二人きりになった静寂の中で、ゼンへと向き直った。その瞳には、先ほどまでの「店員としての仮面」ではない、濃密で、逃げ場のない愛着の色が、沈殿するように深く溜まっていた。

「……さあ、ゼンさん。やっと静かになりましたね。……外の汚い数字に触れた後は、たっぷりとお掃除とお手入れが必要です。……まずは、その汚れた思考を、私がきれいに塗り替えてあげますから……。いいですね?」

ミチルの手が、逃げようとするゼンの指先を、逃がさないという確固たる意志を込めて、優しく、しかし確実に握りしめた。


一週間後。一ノ瀬が『ジャックポット』から持ち出した「実数」という名の毒は、彼女の手によって地方紙の片隅に、そして匿名性を帯びたインターネットの海へと放たれた。

「――某市再開発、不透明な資金還流の実態。58億円のハコモノ計画の裏に潜む、親族企業への組織的利益供与」

その見出しが躍った朝、静かだった地方都市の空気は一変した。ゼンが指摘した「〇〇・デジタル・クリエイト」社の実態なき契約は、市民たちの怒りに火を付ける決定打となった。何の役にも立たないアプリに、自分たちの血税が毎年4,500万円も吸い取られていたという事実は、これまで「お上」のやることに無関心だった層をも戦慄させた。

結果として、58億4,000万円を投じるはずだった再開発計画は、市議会での猛烈な追及の末、事実上の白紙撤回へと追い込まれた。ハコモノを「財布」にするはずだった一族の野望は、ゼンの冷徹な数式によって粉砕されたのだ。

だが、そんな劇的な変革の報せが届いても、喫茶店『ジャックポット』の中に流れる時間は、一滴の不純物も混じらないまま、淀んでいた。

「……ゼンさん、そんなに熱心にニュースをチェックして、どうするつもりですか? 外の世界がどう変わろうと、ゼンさんの『今日、誰に生かされているか』という事実は一ミリも変わりませんよ」

閉店後の静寂。カウンターの隅で、ゼンはミチルによって新しく新調された、さらにフリルの量が増したエプロンを着せられ、無機質なノートに向き合わされていた。そのノートに記されているのは、国家の予算案でも一族の裏帳簿でもない。ミチルが明日、ゼンに食べさせるための「栄養バランスと愛の配合率」を計算した、狂気的なまでに細密な家計簿だった。

ミチルはゼンの背後に回り、その首筋に顔を埋めるようにして、ノートを覗き込む。彼女の吐息がゼンの耳を掠めるたび、ゼンは自分が「知略という牙」を外に向けて振るった代償を、肌で感じていた。

「58億円の計画を止めたところで、この街の若者が増えるわけじゃない。……俺がやったのは、ただの『整理整頓』だ。泥棒が盗もうとしていた金が、元の金庫に戻っただけ。……そしてその金庫の鍵を握る連中が、また別の『名目』を思いつくまでの一時的な猶予に過ぎない。……虚しいな、数学ってのは」

ゼンは自嘲気味に呟き、手元にある「ミチルへの感謝の言葉・30通り」という、彼女から課せられた宿題のペンを置いた。

ハニーは、影の濃い店内の隅で、満足げに手帳を閉じた。

(……波紋は広がったわ。ゼン、あなたが撒いた『数字の真実』は、一ノ瀬さんという依り代を得て、社会という名の巨大な胃袋で今も消化されている。……でも、その代償に、あなたの自由はより深く、この甘い檻の底へと沈んでいく。……これこそが、この店の真骨頂。……ねえ、マスター? 彼の『計算の合わない人生』は、これからもっと面白くなるわよ)

ハニーは闇の中で、一度だけ指パッチンを鳴らした。その乾いた音は、ゼンの退路が完全に断たれた合図のようにも聞こえた。

翌朝、ゼンの裏垢には、誰の目にも触れることのない独白が綴られた。

「58億のハコモノは消えたが、俺の首に巻かれたエプロンの紐は、以前より**15%**ほど強く締められている。社会を救う計算式は知っていても、自分を縛る『独占欲』という名の不条理を解く数式は、この世のどこにも存在しない。……自由の価値は0円。いや、ミチルの機嫌を損ねるというリスクを考慮すれば、マイナス数千億円の損失だ。……俺は、このままこの薄いコーヒーの中に溺れて死ぬのが、一番幸福な計算結果なのかもしれない」

「ゼンさん、独り言はやめて、早くこれを食べてください。……私の愛を、残さず、一滴も漏らさず、一粒一粒まで噛み締めて……ね?」

ミチルが差し出したのは、昨日よりもさらに黒く、さらに苦い、逃げ場のないほど濃厚なコーヒーだった。ゼンはそれを無言で受け取り、自分の尊厳がエプロンのフリルと共に溶けていく感覚を味わいながら、ゆっくりと口に運んだ。

窓の外では、また新しい一日が始まり、何も知らない選挙カーが、次の「嘘」を叫び始めていた。


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