第31話:正義の執行猶予 〜綺麗事(理想)で、腹は膨れないぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
いつものように澱んだ空気と、ミチルが淹れる「味の薄いアメリカン」の湯気が漂う店内に、不釣り合いなほど鋭い靴音が響いた。
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、首からプレス証を下げ、瞳に「不正は許さない」という青い炎を宿した若きジャーナリスト、一ノ瀬だった。
ゼンはカウンターで、ミチルによって施された【愛の連結磁石】のせいで右腕が不自然にカウンターに固定されたまま、死んだ魚のような目でスポーツ新聞を眺めていた。
今日のゼンのTシャツは、ひび割れた拡声器のイラストが描かれた一着。
『救助、お断り。』
「……ミチル。あのお客さん、メニューも見ずにこっちを睨んでるぞ。……俺、また何か国際法に触れるような『存在の不手際』でもやらかしたか?」
「ゼンさん、あれは現代の【迷える聖騎士】ですよ!」
ミチルが、ゼンと磁石で繋がっていない方の手で、可愛らしく頬を膨らませて答える。
「彼女は、ゼンさんという『囚われの姫君』を救い出し、私という『悪の魔王』を倒すという、盛大な勘違いを追いかけてきたんです。……ゼンさん、あんな女に助けられて、外の荒波に放り出されたいんですか? 私、そんなことになったら、ゼンさんの住民票を物理的にシュレッダーにかけて、この世から消去しちゃいますからねっ!」
ミチルはツンと顔を背けながらも、その視線はゼンを片時も離さない。独占欲と焦燥が入り混じった、未熟な少女特有の剥き出しの執着。彼女は一ノ瀬に対し、同年代の女性としての敵意を隠そうともしなかった。
「見つけましたよ、ジャックポット・リッパー! ……いえ、今はただの『依存症の被害者』と呼ぶべきでしょうか」
一ノ瀬がレコーダーをゼンに突きつける。
「ゼンさん、私はあなたの過去を調べました。かつてのあなたは、社会の不合理を冷徹に最適化する天才だった。それが今や、こんなカルトじみた店で、少女の所有物として磁石で繋がれているなんて……。……これは不当な拘束、人権の侵害です! さあ、私と一緒にここを出て、真実を告発しましょう!」
一ノ瀬の正義感は、自ら「見たい真実」を捏造して加熱していた。彼女にとって、ゼンは救われるべき弱者でなければならなかった。
ゼンは、鼻をすすりながら、固定された腕をガリガリと掻いた。
「……お嬢さん。あんた、俺の何を知ってるんだ? ……俺はな、毎日ここでミチルの機嫌を損ねないように、彼女が食べたがってるコンビニスイーツの新作を当てることだけに、全脳細胞を使い果たしてるんだ。……昨日は外して、三時間もトイレ掃除をさせられた。……見てみろよ、このボロボロの爪。これが、あんたが救いたいと思ってる男の『真実』だよ」
ゼンは、これでもかと自分の情けなさを誇張し、惨めさのパレードを一ノ瀬に叩きつける。
「……社会のために戦う? 冗談だろ。俺は、自分で自分の靴下の穴を塞ぐことすら、ミチルに許可をもらわないとできない男なんだ。……あんたが追いかけるべきは、俺みたいな『自発的なゴミ』じゃない。……例えば、そのプレス証を握りつぶそうとしてる、不条理な増税を繰り返すどっかの政治家とか、そういう『本物の悪』だろ?」
一ノ瀬の瞳が、困惑に揺れる。彼女が用意していた「感動の救出劇」のシナリオが、ゼンの圧倒的なダメ人間っぷりに、音を立てて崩れていく。
「…… Sweetest Justice... 」
ハニーが、一ノ瀬の背後に音もなく立ち、その困惑を「鋭利な怒り」へと転換させるように囁いた。
(……十分な手応えね。でも、このままじゃ単なる『迷惑な客』で終わってしまうわ。……少し、レンズの焦点を変えてあげましょうか……)
ハニーは実体化を抑えつつ、一ノ瀬の耳元に、今この街で進行している「不透明な公共事業の不正データ」を、直感として流し込んだ。
ハニーは知っている。純粋すぎる正義は、対象を失うと自壊する。だからこそ、その矛先をゼンから逸らし、この場を収めるための「外敵」へと誘導するのだ。
「……ゼンさん。あなたは……あなたは本当に、それでいいんですか?」
一ノ瀬の声から、救済の押し売りという傲慢さが消え、純粋な疑問が漏れる。
「……いいんだよ。俺は、ここで『不自由という名の贅沢』を味わってる。……その代わりにお嬢さん、あんたはその有り余るエネルギーで、俺みたいな奴が二度と生まれないような、まともな世界を作ってくれよ。……俺の屍を越えてな」
「……ゼンさんの言う通りですよ、お節介さん♪」
ミチルが、一ノ瀬の前に【特製ビターチョコケーキ】を置いた。それは、一ノ瀬が抱いた「自分は何も救えなかった」という苦い挫折感と、ゼンから与えられた「本来の使命」という熱い余韻を、そのまま形にしたような一皿だった。
「このケーキを食べて、さっさと帰りなさい。……ゼンさんは、私の淹れたマズいコーヒーでしか生きていけない体なんです。……あなたのキラキラした正義なんて、この店には一滴も必要ありません!」
ミチルはツンと顔を背けながらも、自分を「必要だ」と言ってのけたゼンの言葉に、耳まで赤く染めていた。
一ノ瀬はそのケーキを無言で口にし、目から一粒の涙を流すと、何かに憑りつかれたような勢いで店を飛び出していった。
彼女のレコーダーには、もはや「喫茶店での洗脳」の記録はない。代わりに、巨大な不正を暴くための、鋭い思考が刻まれていた。
「……ふん。ようやく、眩しすぎる光が消えたか」
ゼンは、一ノ瀬が置いていった「正義の熱気」の残骸を眺めながら、深く溜息をついた。
自分の惨めさを武器にして、一人の若者の人生を「正しい戦場」へ突き落とした。それは救いでありながら、同時に彼女の平穏を奪う残酷な仕打ちでもあった。
「ゼンさん……! 今の、私を庇って『俺はこいつの奴隷だ』って全世界に宣言したも同然の愛の答弁……! ……最高にカッコ悪くて、最高に愛おしかったです!」
ミチルが、磁石で繋がった腕を引き寄せ、ゼンの胸に頭を預ける。
「……でも、あんな女にちょっとでも『いい顔』をした罪は重いですからね。……今日から一週間、おやつは抜きで、私の手作り健康ドリンク(特製ニガウリ汁)の刑です!」
「……ミチル。俺、さっきまで彼女に『ここで居座るのが幸せだ』って熱弁してたはずなんだけどな……。……さっそく、その判断を後悔し始めてるぜ……」
ハニーは、カウンターの隅で独り、手帳に何かを書き留めていた。
(……対象の再定義、完了。ゼンは自らの欠落を利用して、外部の歪みを正し始めたわね。……これは、あの人の想定内かしら?)
ハニーは、店の奥にある「開かずの間」の扉を一瞬だけ見つめ、すぐにまた、無機質な監査役の目に戻った。
ゼンの裏垢には、昨夜の「正義感の強い奴に『自由になれ』と言われた。俺の自由は、ミチルの手のひらの上でゴロゴロ転がることなのに、あいつらはその土俵ごと俺を放り出そうとする。善意ってのは、時に悪意より残酷だ」という、あまりにも捻くれた独白が並んでいる。
そして今、ミチルの不器用な甘えと、容赦のない束縛の乱高下に振り回され、磁力で繋がれた腕の関節が悲鳴を上げている、あまりにも理不尽な【共依存の永久機関】に置かれた自分がいる。
ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、カウンターの下で丸まって存在を放棄した。
ハニーが隣で、一ノ瀬が残していった「正義のペン」をゼンに突き刺しながら、楽しげに笑っていた。
「あはは! あなたの『救助お断り』、ただの更生拒否じゃない! 昨夜、ミチルに将来の設計図を書けって言われて『俺の未来はミチルの家計簿の中にしかないから、俺が書くのは改ざんになる』って言い訳してたあなたみたいに、救いようのない思考停止野郎だわ!」
「……磁石の出力……上がってないか? ……俺の骨が……愛の重みで砕ける……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『救助、お断り。』という文字が、虚しく警告灯のように点滅する幻影だけが残った。




