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第29話:鏡の中の亡霊 〜数字の王様、裸足で逃げ出す準備はいいか?〜


喫茶店『ジャックポット』。

店内のジャズが、針飛びを起こしたように不協和音を奏で始めた。

カツ、カツ、と。一歩ごとに数万円の価値があるような、高級革靴の音が床を叩く。

扉を開けたのは、かつてのゼンと同じ、あるいはそれ以上に「完璧なシステム」を纏った男――佐伯さえきだった。

ゼンは、その男から視線を逸らすように、カウンターの影でミチルが用意した「過保護なエプロン(脱出不可)」を締め直そうとしていた。

今日のゼンのTシャツは、砂嵐のようなノイズ柄。中央に、読み取り不能な文字でこう刻まれている。

『404: 過去、見つかりません。』

「……ミチル。今日のお客さんは、コーヒーを注文しに来たんじゃない。俺の死体を確認しに来たんだ」

「ゼンさん、あれは現代の『迷い込んできた亡霊』ですよ!」

看板娘のミチルが、瞳の奥に「絶対排除」の炎を宿しながら、凍りつくような笑顔で答える。

「彼は、ゼンさんがかつて捨てた『使い古しの栄光』を、まだ大事に磨き続けているんです。ゼンさんの今の、一円の価値も産まないけれど、私だけが知っている『愛の不労所得』まみれの生活を見せつけて、成仏させてあげましょうね?」


「……久しぶりだな、『運命の執行人ジャックポット・リッパー』。いや、今はただの『喫茶店の置物』か?」

佐伯が、店内の調度品を値踏みするように眺めながら、カウンターに腰を下ろした。

彼の背負っている空気は、ゼンが最も嫌悪し、そして最も熟知していた「強者の論理」そのものだった。

「お前が失踪して、業界の数字は随分と大人しくなった。だが、俺は満足していない。お前という『最強のライバル』を、論理で屈服させてこそ、俺の完成があるんだ。……さあ、ゼン。その薄汚れたエプロンを脱げ。お前の居場所は、ここじゃない。血と数字が踊る、あの頂点だ」

佐伯の指先は、かつてのゼンがそうしたように、無意識に机の上で「決定を下す」ためのリズムを刻んでいた。

ゼンの視界に、かつての自分の亡霊が重なる。

佐伯の背後には、**「冷たい数字で編まれた巨大な蜘蛛の巣」**が広がっていた。

その中心に囚われているのは佐伯自身だ。彼は、ゼンを連れ戻すことで、自分自身が蜘蛛のシステムの一部であるという孤独を紛らわそうとしている。


「 Sweetest Success... 」

ハニーが、佐伯の背後に音もなく現れ、その「エリートの誇り」を極彩色に塗り替えるように、冷たい指を彼のネクタイに添えた。

ハニーの囁きが、店内の空気をさらに甘く、重く変えていく。

「そうよ、ゼン。見て。この彼こそが、あなたがかつて愛し、殺した『理想の自分』。彼と一緒に戻れば、もうミチルの顔色を窺って丸まる必要なんてないわ。……さあ、その指で、最高に冷酷な『ジャックポット』を撃って。そうすれば、あなたはまた、世界の執行人に戻れる……!」

ハニーは知っている。ゼンが力を使い、再び「数字の世界」に触れれば、今の平穏(という名の監禁)は一瞬で崩壊することを。


ゼンは、ゆっくりと右手を持ち上げた。

指を交差させ、パチンと鳴らせば、佐伯の呪縛を解くのは容易い。だが、ゼンはそれをしなかった。

指を解き、ただの不器用な、肉の通った平手として、カウンターの上にドン、と叩きつけた。

「……佐伯。お前が追ってるのは、もうどこにもいない幻だ」

ゼンはトレンチコートを脱ぎ捨て、格子状のTシャツ一枚になった。かつてのスマートな「執行人」の面影はない。そこには、ただの「空っぽな自分」をさらけ出した男が立っていた。

「俺はあの日、先代の親父さんに、その傲慢な指をへし折られたんだよ。数字で人を切り刻んで、神様気取りだった俺の薄汚い根性をな!……佐伯、お前も分かってるはずだ。あの頂点で俺たちが見ていたのは、摩天楼の夜景なんかじゃない。いつ自分が真っ逆さまに落ちるか怯えながら、他人の死体を積み上げてるだけの地獄絵図だっただろ」

「黙れ! 俺たちは勝者だ! 選ばれた人間なんだ!」

佐伯が叫ぶが、その声は震えていた。

「勝って何が残った? 自分の名前すら数字でしか語れなくなった空っぽの心か? ……いいか、佐伯。俺は今、ミチルに徹底的に管理されて、小遣い一円すら自由にならない情けない生活を送ってる。だがな……。……今朝、ミチルが淹れたこのマズいコーヒーの苦さを『苦えな』って思えるこの瞬間だけは、誰の指示でも、システムのバグでもねえ。俺が生きてる証拠なんだよ! 億単位の数字を動かすより、この一口の苦みの方が、よっぽど手応えがあるんだ!」

ゼンの、嘘偽りのない「泥臭い本音」。

それが、佐伯が鎧として纏っていた「完璧な論理」を内側から爆破していく。


「……佐伯、思い出せよ。俺たちがまだ何も持ってなかった頃、安物の缶コーヒーを回し飲みしながら、『いつか世界を驚かせてやる』って笑い合ったあの熱を! あの時の俺たちは、数字じゃなくて、もっと、どうしようもなく熱い『何か』を信じてたはずだろ!」

ゼンの叫びが、佐伯の胸に深く刺さる。

佐伯の瞳に、エリートの虚飾を焼き切るような、青白い炎が宿った。

「……ああ、……ああ、そうだ。ゼン。……俺は、お前に勝ちたかったんじゃない。……あの頃みたいに、お前と、……本気で笑い合いたかっただけなんだ……!」

その瞬間だった。

佐伯の魂が放った「人間としての熱量」が、店内の空気を一変させた。

超常的な「ジャックポット」ではない。ただの人間が、自らの意志で呪縛を振り払った時に放つ、暴力的なまでの輝き。

「……ッ!? な、何よ、この熱……! 溶ける、私の作った完璧な脚本が……!!」

ハニーが絶叫する。彼女の「甘い虚無の膜」が、佐伯の熱気に触れた瞬間、硝子が砕けるような音を立てて粉々に飛散した。

「ゼンさんの『過去のデータ』が……、私の知らない彼が、溢れて……ッ……!」

ミチルもまた、顔を歪めて後退した。彼女が完璧にフォーマットしたはずの「今のゼン」が、佐伯という「過去の熱」に呼応し、制御不能のエネルギーを放っている。二人の「支配者」は、人間の剥き出しの情熱という、計算不可能な劇薬をまともに浴び、その場に跪いた。


佐伯は、涙が出るほど苦いコーヒーを、一気に飲み干した。

「……マズいな。だが、……最高に目が覚めたよ、ゼン」

憑き物が落ちたような顔で立ち上がった佐伯は、ゼンに拳を向けた。ゼンもそれに応え、二人の拳が軽く触れ合う。それは、ジャックポットの執行ではなく、対等な男同士の、新しい契約の音だった。

「ゼン。お前はそのまま、この店で腐ってろ。……俺は、この苦みを忘れないまま、もう一度、俺の名前で世界に喧嘩を売ってくる」

佐伯が店を出ていった後、ゼンは脱力したように椅子に沈み込んだ。

「……ふん。ようやく、鏡の中の亡霊(自分)をぶち壊せたか」

決まった。超常的な力を使わず、ただの「ダメな自分」と言葉だけで一人の男を救った。それはゼンにとって、人生最大の賭けであり、最高の逆転劇だった。

「……ゼンさん……。今の、過去を『熱量』に変えて、私を一時的にでも弾き飛ばすほどの、剥き出しの雄叫び……。……ああっ、もう、最高にゾクゾクしました……!」

ミチルの、全てを飲み込むような「聖母なる全肯定(完全再開発モード)」が、さらに深い狂気を帯びて戻ってくる。

「過去のゼンさん」を佐伯が持ち去り、今ここに残されたのは、熱を発し、より魅力的になった「未知のゼン」。彼女にとって、これほど「手なずけ甲斐」のある獲物はいなかった。

「ゼンさん……。今のあなたの熱、全部私が吸い取って、私の愛の中でだけ燃え続けるように、もっともっと深く、管理してあげますね……?」

「……ミチル、さっきの熱で、コーヒー温め直してくれよ……。……お前の愛、熱すぎて火傷しそうなんだ……」

ゼンの視界から、かつての栄光の残滓も消え、ただ、ミチルの淹れるコーヒーの湯気の向こうに、さらに強固になった「愛という名の檻」の景色が広がっていた。


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