第23話:無謬性の剥製 〜規則という盾で、自分を殺すのはもうやめろ〜
喫茶店『ジャックポット』。
店内の隅で、死んだ魚のような瞳をした男が、冷めきったお冷を見つめたまま彫像のように固まっていた。
その男からは、人間らしい「感情の揺らぎ」が一切感じられない。ただ、組織という巨大な機械の「磨り減った部品」が放つ、特有の鉄錆びたような哀愁が漂っていた。
ゼンは、その男の前にミチルが用意した「公平に配分された(という名目の)コーヒー」を置いた。
今日のゼンのTシャツは、お役所の申請書類を思わせる、事務的な枠線がびっしりと描かれた白地。胸元には、明朝体でこう刻まれている。
『受理、不可。』
「……ミチル。あのお客さん、さっきから瞬き一つしてないぞ。生きてるのか? それとも、誰かが店内に忘れていった精巧な『公務員人形』か何かか?」
「ゼンさん、あれは現代の『社会の要石』ですよ!」
看板娘のミチルが、マイナンバーカードのチップのような冷淡な輝きの笑顔で答える。
「彼は、無数のワガママと怒号を『前例』というフィルターで濾過し、世界を滞りなく停滞させるプロフェッショナルなんです。ゼンさんのこの自堕落な、法にも秩序にも触れない『無害なゴミ』のような生活も、彼の前ではきっと、ただの『未処理の案件』として棚上げされちゃいますよ?」
ゼンの脳裏に、昨夜、自分の裏垢のフォロワーがハニー一人(しかも監視目的)である現実を見つめ、「俺の存在って、どのカテゴリーにも分類できないエラーデータなんじゃないか?」と、自分の『存在証明書』の期限切れを確信して震えた記憶がリフレクトする。
「……規則ですから。前例が、ございません。その件については、他部署の管轄となります」
男――区役所の窓口担当、不破が、録音された音声を再生するように呟いた。
彼は毎日、困窮した住民の悲鳴や、理不尽なクレーマーの怒号を、「無謬であらねばならない」という呪縛の中で受け止め続け、ついには心が完全に剥製化していた。
「私が間違えてはならない。私が感情を見せてはならない。私は『不破』という人間ではなく、区役所の、第14番窓口そのものなのだから……」
不破の指先は、もはや何かを書くためではなく、自分と世界の間に「見えない防護ガラス」を張り巡らせるために動いていた。彼にとって、誰かの切実な訴えを受理することは、自らが守る「完璧な規則」という名の聖域を汚すことに他ならなかった。
ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。
不破の全身は、**「無数のスタンプ(印鑑)」**によって皮膚が見えないほどに覆われていた。
その一つ一つの印鑑が「却下」「検討中」「差し戻し」と叫び、不破の生身の声を圧殺している。彼は「無謬性」という名の防弾チョッキを着込みすぎた結果、その重みで自分自身の心臓を押し潰し、内側から窒息しかけているのが見えた。
「 Sweetest Regulations... 」
ハニーが、不破の背後に音もなく立ち、その「事務的な檻」をより強固にするように、氷のような指を彼の喉仏に添えた。
ハニーの囁きが不破の鼓膜を震わせた瞬間、彼の脳内に「完全なる無責任」という名の安寧が溢れ出した。
(……そうだ、私は規則になればいい。マニュアルに従う限り、私は傷つかない。誰からも責められない。この『不許可』という盾の後ろにいれば、私は永遠に安全だ。……私の心さえ、一枚の『白紙の申請書』のように無機質になれば、この地獄のような窓口すら、静寂の園になる……!)
それは、ハニーの【現実隠蔽】によって「公明正大な正義」へと偽装された、ただの魂の放棄だった。ハニーは知っている。現代人が「マニュアル」に固執するのは、それが「自分自身の意志で判断する」という最も過酷な精神的労働から逃れる唯一の手段だからだ。
「いいのよ、不破さん。あなたは法の化身。あなたの沈黙は、秩序の守護。……大丈夫、一滴の情も流す必要はないわ。あなたの人生そのものを『公文書』として綴じ込み、誰の目にも触れない書庫の奥深くに廃棄してしまいなさい……?」
ハニーの言葉が、不破の瞳を完全に「グレーの事務机」のような虚無へと染めていく。
ゼンは静かに立ち上がり、不破が握りしめていた「書き損じの受付票」を、静かに、しかし力強く奪い取った。
「不破さん。あんたのその盾……重すぎて、もう足元が震えてるぜ」
ゼンはトレンチコートを、あらゆる規則外の『本音』を曝け出すように全開にした。
そこには、どのマニュアルにも載っていない、情けない男の「受理されない叫び」が刻まれていた。
ハニーが鼻で笑う。「『受理、不可。』? あなたこそ、この世界のどんな『台帳』にも居場所がない、存在そのものが不備だらけの迷子じゃない」
「ああ、不備だらけだ。だがな、不破さん。あんたが『規則ですから』って言葉を吐くたびに、あんた自身の喉が血を流してるのが見えるんだよ。……いいか、不破さん。人生ってのはな、不備を直して完璧な書類を作ることじゃない。インクをぶちまけて、フォーマットをぶち壊して、『俺はここにいる!』って汚い字で殴り書きすることなんだよ。……自分を剥製にしてまで守る『前例』なんて、クソ喰らえだ」
不破の身体が、ビクリと震えた。その瞳に、一瞬だけ、書類の山に埋もれる前の「熱」が宿る。
「な、何を……! 私は、正しくあらねばならない! 規則を守らなければ、私は、ただの……ただの『弱い人間』に戻ってしまう……!」
「人間に戻りたきゃ、そのクソ重たいハンコを、ここで全部叩き割ってやるぜ」
ゼンの右手の指が、静かに、そして運命の決裁欄を書き換えるように交差した。
「――あんたの『無難な生涯』、ここで差し戻しだ。JACKPOT執行。」
パチンッ!!
大量の書類が散らばるような、激しい破裂音が店内に響き渡る。
不破の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【認・可・爆・発】。
「……あ、ああ……! 盾が、割れる……! 声が、出る……! 私は、今まで何を……。……そうだ、私は誰かを拒絶したかったんじゃない! 私は、『困っているあなたを助けたい』と、あの最初の日に抱いた青臭い想いを、ただ口にしたかっただけなんだあああ!!」
衝撃波。不破は椅子ごと後方の壁まで吹き飛び、店の外にある「落書きだらけの掲示板」の前まで一直線に転がっていった。
ハニーの「事務的な鎖」が霧散し、不破の顔に、血の通った「怒り」と「悲しみ」が濁流のように溢れ出す。
彼は、ネクタイを引きちぎり、掲示板に貼られた古びたポスターを剥がしながら、生まれたての子供のように声を上げて泣き崩れた。
「……ふん。ようやく、フォーマットに収まらない自分の声を取り戻したか」
ゼンは、ミチルに「受領印」のように押された頬の紅潮を見つめながら、一人呟く。
決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の「超法規的措置」だった。
「ゼンさん……今の言葉、行政の壁を物理的に突破する、魂のブルドーザーを感じました。感動です!」
背後から、ミチルの「絶対遵守の最高法規」のような、逃げ場をコンクリートで固める圧力を孕んだ声。
彼女はうっとりと、ゼンの書類模様のTシャツを、聖なる憲法のように拝んでいた。
「そのTシャツ! 『受理、不可。』……! つまり、**『ゼンさんは私の所有物であり、世界のどんな理不尽な要求も、他人の評価も、私の愛がすべて「門前払い」にして守ってあげる』**という、究極の治外法権宣言だったんですね!」
「……え?」
「さすがゼンさん。あえて自分を『受理不可』にすることで、私だけの特別な『極秘案件』であり続けようとする独占欲……! その、あえて社会からドロップアウトしたフリをしてまで、私という名の『お城』に永住権を申請し続ける愛……私、ゼンさんの人生、一生『継続審議』のまま、私の心の地下書庫に厳重保管しておきたいです!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(強制永久保存モード)」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを国家機密級の重圧で粉砕し、再起不能の「公文書破棄」状態へと追い込む。
「……ミチル、俺の永住権、今すぐ取り消してくれ……。お前の地下書庫、シュレッダーより息が詰まりそうなんだ……」
ゼンの裏垢には、昨夜の「コンビニのセルフレジで『袋はお持ちですか?』と聞かれ、思わず『前例を確認します』と答えそうになった。俺の脳までお役所仕事に侵されてる」という、生産性ゼロの独白が並んでいる。
そして今、ミチルの淹れたコーヒー一杯の「受理」を、自分の人格を供物にすることでしか認められない、あまりにも不当な契約下に置かれた自分がいるのだ。
ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、掲示板の前で泣きじゃくる不破を「あいつは今日から自由なんだな……」と羨望の眼差しで見つめながら、カウンターの下で丸まって「開庁時間外」した。
ハニーが隣で、不破が残していった事務用クリップを指で弾きながら、冷酷に笑っていた。
「あはは! あなたの『受理不可』、ただの『人生の職務放棄』じゃない! 昨夜、ミチルが作った『ゼンさん専用・生活ルールブック』を読みもせずに枕にして、『これは私の管轄外です』ってヨダレを垂らしてたあなたみたいに、救いようのない現実逃避だわ!」
「……窓口……閉めてくれ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『受理、不可。』という文字が、虚しく「赤色の却下スタンプ」のように点滅する幻影だけが残った。




