第22話:数値の召使い 〜一円のズレも許さない人生なんて、割に合わないぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
店内に響くのは、心地よいジャズでもミチルの鼻歌でもなく、カチャカチャと乾いた音を立てて叩かれ続ける電卓の連打音だった。
カウンターの端に陣取った男は、山のような領収書とノートPCを前に、血走った目で画面を睨みつけている。
ゼンは、その男から数センチの距離に、ミチルが「愛の仕訳(福利厚生費)」を込めて淹れた、ただの苦いコーヒーを置いた。
今日のゼンのTシャツは、方眼紙のような細かい格子模様。中央に、ドットプリンタで印字したようなカスれた書体でこう刻まれている。
『損金、算入済み。』
「……ミチル。あのお客さん、さっきから電卓を百回は叩き直してるぞ。あんなに数字を追いかけて、一体どこへ行こうとしてるんだ? 確定申告の時期でもないのに」
「ゼンさん、あれは現代の『整合性の守護者』ですよ!」
看板娘のミチルが、新品の領収書のような真っ白な歯を見せて微笑む。
「彼は、混沌とした世界を『貸方』と『借方』の二文字で綺麗に整理し直しているんです。ゼンさんのこの情けない、一円の価値も産まない生活も、彼の計算式にかかれば、きっと何かの『特別損失』として美しく処理されちゃいますよ?」
ゼンの脳裏に、昨夜、ミチルからもらった「肩たたき券」の束を眺めて、「これ、メルカリで売ったら雑所得になるのか? ていうか、そもそも俺の労働価値って時給換算でいくらなんだ……?」と真剣に悩み、自分の人生のB/S(貸借対照表)が債務超過であることに気づいて震えた記憶がリフレクトする。
「……合わない。なぜだ。あと、三円……どこへ消えた……」
男――税理士の計が、震える手で眼鏡を拭き直した。
彼は、中小企業の社長たちの「私的な飲み食いを経費にねじ込むわがまま」と、税務署の「冷徹な否認」の板挟みになり、人生のすべての事象を「数字の整合性」だけで解釈する怪物に変貌していた。
「三円……。この三円の不一致が、私の専門家としての価値を、いや、存在そのものを否定している……。合わないものは、悪だ。不合理な感情は、すべて損金として切り捨てなければ……!」
計の指先は、もはやキーを叩いているのではなく、自分の命の残り時間を削り取っているように見えた。彼にとって、計算が合わないことは、この世界の物理法則が崩壊することと同義だった。
ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。
計の背後には、**「巨大な砂時計」**がそびえ立っていた。
だが、その砂の中身は砂ではなく、無数の「一円硬貨」だ。一円が落ちるたびに、計の顔から表情が、言葉から体温が消えていく。彼は一円のミスを恐れるあまり、自分の魂を「無機質な計算式」の中に幽閉し、感情を『過年度損益修正』として抹消し続けているのが見えた。
「 Sweetest Calculation... 」
ハニーが、計の背後に音もなく立ち、その「数字の檻」を補強するように、冷たい指を彼のこめかみに添えた。
ハニーの吐息が計の耳をなでた瞬間、彼の脳内に「完璧な整合性」という名の劇薬が溢れ出した。
(……そうだ、私は計算機になればいい。喜びも、悲しみも、すべて『雑損』として処理してしまえば、この苦しみからも解放される。世界を、完璧なバランスシートの中に閉じ込めるんだ。……私の心さえ、一円のズレもない完璧な『ゼロ』になればいい……!)
それは、ハニーの【現実隠蔽】によって「完全なる秩序」へと偽装された、ただの精神的去勢だった。ハニーは知っている。現代人が「正解(数字)」に依存するのは、それが唯一、誰にも否定されない絶対的な盾になるからだということを。
「いいのよ、計さん。あなたは数字の守護神。あなたの流す涙は、ただの『流動資産の流出』に過ぎないわ。……大丈夫、一円の不一致に怯える必要なんてない。あなたの魂を、すべて『損金』として計上して、この世界から跡形もなく償却してしまいなさい……?」
ハニーの言葉が、計の瞳を完全に「デジタルな虚無」へと染めていく。
ゼンは静かに立ち上がり、計が計算を間違えて破り捨てた、クシャクシャのメモ用紙を拾い上げた。
「計さん。あんたの計算、根本的なところでマイナスが出てるぜ」
ゼンはトレンチコートを、あらゆる帳簿外の真実を突きつけるように全開にした。
そこには、どれだけ計算しても答えの出ない、情けない男の現在地が刻まれていた。
ハニーが鼻で笑う。「『損金、算入済み』? あなた自身が、この社会にとっての『不渡り手形』みたいなものじゃない。資産価値ゼロの不良債権さんが、何を言ってるのかしら?」
「ああ、不渡りだよ。だがな、計さん。あんたが三円を追いかけてる間に、あんたの心の中の一万円札が、何千枚も燃え落ちてるのが見えねえのか。……いいか、計さん。人生ってのはな、一円のズレもない確定申告書のことじゃない。計算の合わない『無駄』や、説明のつかない『大赤字』の中にこそ、生きてる手応えってやつがあるんだよ。……帳尻合わせるために自分を殺すのは、もうやめろ」
計の動きが止まる。電卓を叩く指が、激しく震え始める。
「な、何を……! 正確さこそが、私の存在証明だ! 数字が合わなければ、私は、ただの『処理ミス』になる……!」
「ゴミで上等だ。あんたを数字の奴隷にしてるその時計、ここでぶち壊してやるぜ」
ゼンの右手の指が、静かに、そして因果の数式を書き換えるように交差した。
「――あんたの人生の監査、ここで終了だ。JACKPOT執行。」
パチンッ!!
電卓の液晶が焼き切れるような、乾いた破裂音が店内に響き渡る。
計の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【赤・字・満・足】。
「……あ、ああ……! 数字が、消えた……? 視界が、ぐにゃぐにゃだ……! 私は、今まで何を……。……そうだ、三円なんてどうでもいい。私は、あの時、三円で買える安い飴玉を笑って分け合えるような、そんな不正確で、馬鹿げた日々に戻りたかっただけなんだあああ!!」
衝撃波。計は電卓ごと後方の壁まで吹き飛び、店の外にある「落書きだらけの自動販売機」の前まで一直線に転がっていった。
ハニーの「数字の鎖」が霧散し、計の顔に、血の通った「混乱」という名の生気が戻る。
彼は、壊れた電卓を放り出し、自販機で買った「三円ではない、適当な値段の炭酸水」を一気に飲み干して、むせ返るように笑い出した。
「……ふん。ようやく、計算の合わない自分の人生を愛せるようになったか」
ゼンは、ミチルに配給された「無一文の自分」を象徴する空の財布を見つめながら、ハードボイルドに独りごつ。
決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の「帳外処理」だった。
「ゼンさん……今の言葉、資本主義の限界を超越した、魂の富裕層を感じました。感動です!」
背後から、ミチルの「税務調査官」のような、逃げ場を塞ぐ圧力を孕んだ声。
彼女はうっとりと、ゼンの格子模様のTシャツを、聖なる決算書のように拝んでいた。
「そのTシャツ! 『損金、算入済み。』……! つまり、**『ゼンさんのこれまでの失敗も、情けなさも、すべて愛という名の必要経費として承認されている。あなたは存在するだけで、私にとっての莫大な資産である』**という、究極の全肯定決算だったんですね!」
「……え?」
「さすがゼンさん。あえて自分を『損金』と呼ぶことで、私の愛の損益計算書を永久に黒字に固定するなんて……! その、あえて一円の価値もないフリをしてまで、私だけの『非売品』であり続けようとする独占欲……私、ゼンさんの人生、一生『未処分利益』として、私の心の金庫に閉じ込めておきたいです!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(強制内部留保モード)」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを国家予算級の重圧で粉砕し、再起不能の破産状態へと追い込む。
「……ミチル、俺を……赤字のまま、野に放してくれ……。お前の資産管理、監査が厳しすぎて、一息つく隙もねえんだ……」
ゼンの裏垢には、昨夜の「家計簿をつけようとして、最初の一行目に『絶望:プライスレス』と書いて筆が止まった。俺の人生、複式簿記じゃ記録しきれねえ」という、資産価値ゼロの独白が並んでいる。
そして今、ミチルの淹れたコーヒー一杯の「対価」を、自分の魂を切り売りすることでしか払えない、あまりにも債務超過な自分がいるのだ。
ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、自販機の前で笑い続ける計を羨ましく思いながら、カウンターの下で丸まって「自己破産」した。
ハニーが隣で、計が残した領収書の山を紙吹雪のように散らしながら、意地悪に笑っていた。
「あはは! あなたの『損金算入』、ただの『人生の丸投げ』じゃない! 昨夜、コンビニで一番高いアイスを三つも買って、家計簿の備考欄に『自分への慰謝料』って書いていたあなたみたいに、救いようのない赤字だわ!」
「……税理士……呼んでくれ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『損金、算入済み。』という文字が、虚しく「赤字の請求書」のように赤く光る幻影だけが残った。




