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幕間:凪の日の空砲 〜名もなき一日が、一番の激戦区だぜ〜


喫茶店『ジャックポット』。

今日の店内に漂っているのは、劇的な絶望を煮詰めた芳醇な香りではない。ただの湿った埃と、昨日の使い残しのミルクが放つ、ひどく現実的で退屈な匂いだった。

ゼンはカウンターの隅で、中身のない頭を支えるように頬杖をついていた。その姿は、往年の映画スターのパロディか、あるいは賞味期限の切れたレトルトカレーのパッケージのような、言いようのない「終わった感」を醸し出している。

「……静かだな。静かすぎて、自分の血管を流れる安物コーヒーの音が聞こえそうだ」

その呟きは、誰に届くこともなく、厚い遮音壁のような沈黙に吸い込まれた。

今日のゼンのTシャツは、洗濯を繰り返して輪郭がぼやけた、締まりのないネズミ色。そこに、やる気という概念をドブに捨てたような筆致でこう書かれている。

『本日、通常営業。』

誰の闇も撃ち抜かない。誰の絶望も弾け飛ばさない。

ただ時間が、底の抜けた砂時計から無機質にこぼれ落ちていくだけの日。

訪れる客といえば、ただ黙々と、味のしないコーヒーを啜って去っていく、人生の端役のような住人ばかり。彼らの抱える「小さな不満」や「薄っぺらな倦怠」は、ゼンの弾丸を消費する価値すらなく、ただ無為に店内の空気を重くさせていた。


「ゼンさーん。またお顔が、お風呂場に置き忘れて三日経った石鹸みたいに、ドロドロに溶けちゃってますよ?」

看板娘のミチルが、いつものように一点の曇りもない笑顔で現れた。だが、その手にあるのは、精製された感情のシロップではなく、ただの「湯気の立たない白湯」だった。

「……ミチル、俺は溶けているんじゃない。凪のような平穏の中で、魂のアイドリングをしているだけだ。……かつて、俺の背中を預けていたあいつは言っていた。『戦いがない日こそ、戦士が最も死に近づく瞬間だ』とな……」

ゼンの脳裏に、掠れた声と硝煙の匂いが一瞬だけよぎる。名前も顔も思い出せない「あいつ」の残像。だが、その重厚な回想は、ミチルの能天気な声によって瞬時に粉砕された。

「へぇ。ゼンさんって、意外とポエミー……いえ、お寝ぼけさんなんですね。三十路を過ぎて『通常営業』という看板を背負ったまま、動かない置物みたいに座り続けているなんて。まるでお店の一部になったみたいで、私、とっても嬉しいです! このまま根っこが生えて、カウンターと一体化しちゃいましょう!」

ミチルの言葉が、いつも以上にゼンの「空っぽな内面」を抉る。

普段なら、彼女の全肯定が、この空虚さすら美学に変えてくれるはずだった。しかし、今日という凪の日において、彼女の笑顔はただの「逃げ場のない白い壁」に見えた。

「ゼンさん、今日は悪いこと(ジャックポット)が起きないから、私と一緒に『何も起きない平和な時間』をたっぷり楽しみましょうね。ほら、この白湯を飲んで、自分の存在の濃度がどんどん薄まっていくのを、うっとりしながら感じてください。とっても清らかな、無価値な気持ちになれますよ?」

ミチルが差し出した白湯を啜る。

味がしない。

それは、今のゼンの「家賃も払えず、ミチルの配給で生きている」という、あまりにも薄い人生そのものの味だった。


「……ふん。退屈すぎて、死神すらあくびをして通り過ぎるわね。あなたのその顔、まるで撃たれるのを待っているだけのマトよ」

ハニーが、カウンターの特等席で、今日はカクテルではなく「ただの水」のグラスを弄んでいた。

彼女の鋭い毒舌も、弾ける闇という火薬がなければ、ただの湿気った爆竹のように威力を欠いている。

「ねえ、ゼン。あなたが今日、一発も弾丸を放てないのは、世の中が平和だからだと思っているの? 違うわよ。あなたが、あまりにも『空っぽ』すぎて、闇を引き寄せる重力すら失っているからよ。あいつ……あなたが時折口にする『本物のハードボイルド』なら、この退屈すら一発の弾丸で芸術に変えてみせたでしょうに」

ハニーが指を鳴らさない。

あの乾いた音が響かないことが、これほどまでに不安を煽るとは、ゼンは思ってもみなかった。

「何者かを撃つことでしか、自分の居場所を確認できないなんて。今日のあなたは、そこに座っているだけの『汚れ』ね。いいえ、洗っても落ちない、ただのシミよ」

ハニーの瞳に、いつもの愉悦がない。

あるのは、ただ、標的を見失ったハンターのような、冷淡な失望だけだった。

「……分かってるよ。俺は、他人の不幸を借りて、ようやく自分の『輪郭』を維持できているだけの幽霊だ。あいつのように、自分自身の熱で世界を焦がすことなんて、もう俺にはできねえんだよ」

ゼンの独白に、Tシャツの文字が寂しく、かつ滑稽に呼応する。

『本日、通常営業。』

この文字は、かつての伝説というメッキを、徹底的に「今の情けない現実」へと引き摺り下ろしていた。


ゼンは、手持ち無沙汰にスマートフォンの画面を点けた。

裏垢を開く。

【@Zero_Bullet_99:今日は何も書くことがない。俺という存在が、薄いグレーの壁紙と同化していく気がする。……助けてくれ、と言えるほど、俺は不幸ですらない。ただ、ミチルが作った『お札の形のパン』の耳が硬かった、それだけだ】

投稿ボタンを押そうとして、指が止まる。

(……こんなの、投稿しても意味がない。ハニーが「いいね」を押すことすら、今の俺には苦痛だ。あいつが見たら、腹を抱えて笑うだろうな。『弾丸一発の重みも知らないSNSの住人が』ってな……)

画面を閉じると、暗転したディスプレイに、自分の顔が映った。

そこには、鋭い眼光も、硝煙の哀愁も、何もない。

ただ、ミチルに与えられた呪いの服を着せられ、ハニーに観測され続けることで、ようやくこの世に繋ぎ止められている、一人の脆弱な男の成れの果てがあった。

「ゼンさん、どうしました? 急に、電池が切れて液漏れしたおもちゃみたいな顔して」

ミチルが、ゼンの背後から首筋に冷たい手を添えた。その温度の低さに、ゼンは心臓を掴まれたような錯覚を覚える。

「大丈夫ですよ。ゼンさんがどれだけ空っぽでも、私がその隙間を、私の愛でびっしり埋めてあげますから。さあ、通常営業を続けましょう。何も起きない、何も変わらない、永遠に続く昨日みたいな今日を。この店の中で、二人きりで、ずっと……」

ミチルの指が、ゼンの首元を優しく、しかし確実に「ここから逃がさない」という強固な意志を持って食い込む。

それは愛情という名の、あまりにも重く、逃れられない停滞だった。


結局、その日、ジャックポットは一度も鳴り響かなかった。

閉店間際、ゼンは一人で店のゴミ出しをしていた。

路地裏の、現実と異界が混ざり合う薄暗い場所。

彼はふと、自分のコートのポケットに手を入れた。そこには、いつか放つはずの、あるいはかつて「あいつ」と共に放ったはずの、一発の「銀の弾丸」の感触を探した。

だが、指先に触れたのは、ミチルに渡された『肩たたき券』の、カサカサとした虚しい紙の感触だけだった。

「……ハッ。笑えねえジョークだぜ」

ゼンは力なく、しかし少しだけハードボイルドを気取って笑った。

かつて世界を震え上がらせたであろう狙撃手のプライドは、今や、画用紙で作られた偽物のチケットの軽さに、完全に上書きされていた。

ゼンのTシャツの文字が、街灯の点滅に合わせて、一瞬だけ揺らいだ。

『本日、通常営業。』

その文字が、ゼンの視界では『生涯、執行猶予。』という、逃れられない死刑宣告のように見えた。

「……チェックアウトすら、させてもらえないのか。なあ、相棒……あんたなら、この退屈をどう撃ち抜く?」

ゼンは、街灯の下で、自分の影がどんどん薄くなっていくのを眺めていた。

ミチルに管理されているスマホが、ポケットの中で静かに振動した。

【ハニー:今日のあなた、最高に無価値で、最高に惨めだったわ。明日も、その無価値さを私に食べさせてね。ごちそうさま。】

ゼンは、その通知を消す気力もなく、ただ、何も起きなかった一日という名の、底なしの沼の中へ、ゆっくりと沈んでいくのだった。その瞳の奥に、かつて共に戦った誰かの「引き金を引く指」の残像を、かすかに灯しながら。


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