幕間:ジャックポットの給与明細 〜肩たたき券で世界を救えると思うなよ!〜
月末。喫茶店『ジャックポット』。
閉店後の店内に、三十路を過ぎた男の、魂の底から絞り出されたような絶叫が木霊した。
「ミチルゥゥゥ! 誰が給料日に『色画用紙の端切れ』を欲しがると言ったァァ! 俺が欲しいのは! 印刷局が威信をかけて発行した、あの! 諭吉や栄一が微笑む、美しい透かしの入った紙幣なんだよォォォ!!」
カウンターにぶちまけられたのは、今月の「給与」。
それはギザギザバサミで丁寧にカットされ、ラメ入りのペンで**『ゼンさん専用・肩たたき券』だの『明日も一緒に働ける権(ゴールドカード仕様)』**だのと書かれた、幼稚園児の父の日ギフトでももう少し実利があるぞと言いたくなる「紙屑の山」だった。
今日のゼンのTシャツは、泥水で煮出したような、やる気ゼロのベージュ地に、弱々しい筆致でこう書かれている。
『給与、未払い。』
「ゼンさん、何を言ってるんですか! その券一枚で、私の『全力の肩たたき』が受けられるんですよ? 普通の相場で換算したら、私のような美少女の揉み解しは一揉みにつき一万円の価値はあるんだから……今月のゼンさんの月収、福利厚生込みで三千万円超えちゃってますよ!」
「時給高すぎんだろ! どんだけ高級エステだよ! その架空の三千万を寄越せ! 換金させろ! 切実に! 現金を! このままだと俺の人生のキャッシュフローが完全に停止して、餓死という名のチェックアウトが確定しちまうんだよ!」
ゼンは、偽物の金を数える悪徳商人のような手つきで空を掻き、もはや存在しない「一万円札の幻影」を追って白目を剥いていた。
「ゼン、みっともないわよ。お金なんて、ただの『インクが染みた汚れた紙』じゃない」
ハニーがいつの間にか隣で、毒々しいほど青いソーダ――誰かの『冷めた初恋』を煮詰めたシロップ入り――を、ストローでズズズと下品な音を立てて啜りながら口を出した。
「いい? お金っていうのは、外の世界の『汚いルール』に縛られた人たちが使う、ただの気休め。あなたはここ(ジャックポット)の住人なのよ? 大家さんに家賃を払う? 冗談はやめて。あなた、最後にその『大家さん』とやらを見たの、一体いつの話かしら?」
「え? ……えーと。確か、先月の更新の時に……。……あれ? 待てよ、どんな顔だっけ? 恰幅のいいおばちゃんだったような、無口で厳格なおじいさんだったような……。いや、そもそもアパートの名前すら思い出せねえぞ!? 『メゾン・ド・ヘタレ』だっけ? いや、そんな屈辱的な名前じゃなかったはずだ!」
ゼンの脳内に、猛烈なノイズが走る。
(……待て。俺、どうやって毎日あの部屋に帰ってるんだっけ? 角を曲がったら店、店を出たら角。……近っ! 俺の通勤時間、徒歩三秒かよ!? 信号もねえ、コンビニもねえ、ただ扉を開けたら自分の部屋……。そんな便利な立地の物件、このインフレのご時世にあるわけねえだろ!?)
「ふふっ、ゼンさん、また寝ぼけてるんですか?」
ミチルがゼンの頬を両手で挟み、無理やり笑顔の形に固定した。その指先は、ひどく冷たく、そして逃げられないほど力強い。
「ゼンさんは、お店を出て、私の指差す方向に歩けば、そこがゼンさんの『お家』です! 電気も水も、私が『愛の魔法(※ただの一括管理)』で流し込んでおきましたから! 家賃なんて、私の笑顔一枚で相殺……いえ、お釣りが出るくらいですよ!」
「魔法でインフラが整うかァァ! 中部電力も東京都水道局も、お前の笑顔じゃ一滴の水も流してくれねえんだよ! それに、俺のスマホ代はどうなってんだ! 先月、裏垢に動画をアップしすぎて通信制限(ギガ死)寸前だったはずなのに、何で今サクサク動いてるんだよ! 5Gの電波、どこから受信してんだよ!」
ゼンが最後の希望であるスマートフォンを、まるで十字架のように掲げる。
「あ、それなら大丈夫です! ゼンさんの端末、私の『家族割・極』に、先週の夜中に寝ている間に強制加入させておきましたから! 容量無制限、通話無料、さらにはミチルからのモーニングコール(強制着信)付き! ゼンさんがどんなに情けない呟きをネットの海に放流しても、その通信料は私の深い愛がすべて飲み込んで差し上げます!」
「……家族割(強制)。……逃げ場が、ねえ。俺のプライバシーは、もはやキャリア(ミチル)の手の中か……」
ゼンの膝が、がくがくと生まれたての小鹿のように笑い始めた。
この通信網も、この生命維持装置も、すべてミチルという名の巨大な母船に直結されている。彼は、自分自身の支払能力という名の「自立の牙」を抜かれ、ただの可愛い「飼い犬」として、ミチルの用意した電脳空間を漂わされていたのだ。
「いいじゃない、ゼン。よかったわね、世界で一番手厚い『養い』を受けられて。……でも、そんなに『文字通りの自分』でありたいなら、ちょっと助けてあげるわ」
ハニーが愉悦に目を細め、パチンと指を鳴らす。
ゼンのTシャツの文字が、ハニーの「不思議トリック(感熱上書き)」によって、じわじわと書き換えられていった。
『給与、未払い。』 → 『全財産、ミチル。』
「わあぁぁ! ゼンさんの胸に私の名前が! 運命の刻印、エンゲージ・テキストですね!」
ミチルが感激のあまり、ゼンの胸元に頬を擦り寄せた。
「これでお金なんてなくても、ゼンさんが私の所有物だって世界中に証明できちゃいました! ゼンさんは一円も持たなくていいんです。全部私が買ってあげますから。……ね? さあ、お祝いに、今日の晩御飯は超高級な『手作りお札パン』にしますね! お札の形をしたパンを食べて、物欲なんて噛み砕いちゃいましょう!」
「……ミチル、パンは……せめてクロワッサンの形とかで、美味しく食べさせてくれ……。あと、その肩たたき券で、俺のこの『将来への不安』という名の慢性的な凝りを解してくれ……。一揉み一万円なんだろ……?」
ゼンは、テーブルに散らばったラメ入りの紙片を、一枚一枚、震える手で拾い集めた。
たとえ今、この店を飛び出して一億円の宝くじを拾ったとしても、その換金所すら見つけられない。そもそも、この店の外に「日本円」という概念が存在する世界があるのかすら、今の彼には疑わしくなっていた。
ミチルが運んできた「焼きたてのパンの香り(※誰かの失恋から精製した絶望成分3%配合)」に、あっさりと理性が溶かされていく。
「……もう、どうにでもなれ……。俺のギガが減らないなら、それでいい……。栄一なんて、最初から俺の友達じゃなかったんだ……」
ゼンは、ミチルに肩を揉まれ(物理的な力加減が少し強すぎて、背骨が「ジャックポット!」と悲鳴を上げる)、ハニーに高解像度で嘲笑われながら、今日も一円の現金も持たずに、幸せな『監禁』の眠りにつくのだった。
夜、ゼンが「自室」だと思い込んでいる場所に横たわる。
ふと、彼は気づく。部屋の壁紙に、小さな文字でびっしりと何かが書かれていることに。
(……これ、全部……ミチルの筆跡か……?)
そこには、ゼンが今日食べたもの、呟いたこと、そしてこれから彼が着るはずのTシャツの予定が、数年先までギッシリと書き込まれていた。
だが、ゼンはその恐怖を直視する前に、通信無制限のスマホで、誰も見ていない(ハニーしか見ていない)裏垢に、こう投稿して意識を失った。
『肩たたき券、意外と感触がいい。俺、このまま紙幣のない原始社会に戻ってもいい気がしてきた……。おやすみ、栄一』
その投稿には、0.1秒後にハニーからの「いいね」が届き、隣の部屋からはミチルの「ゼンさん、良い夢を!」という、壁を透過してくるような声が響いた。
ゼンの「経済的自立」の死は、かくして華やかで、そして甘いパンの香りと共に完遂されたのである。




