表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/46

第20話:介護の泥濘(でいねい) 〜愛が重すぎて、一緒に沈んでいくのはごめんだぜ〜


喫茶店『ジャックポット』。

店内に漂う香ばしいコーヒーの香りに混じって、ゼンはどこか「湿った土」のような、拭いきれない生活の重みを感じていた。窓の外、車椅子を押す若者の疲れ切った横顔。その指先が震えているのを、ゼンは見逃さなかった。

(……支える側が先に折れる。それが、この国の『絆』という名の残酷な現実か……)

ゼンの脳裏には、昨夜の裏垢での呟きがリフレクトする。

「誰かのために生きるなんて、俺には重すぎる。自分の靴紐を結ぶだけで精一杯な男に、他人の人生を背負う資格なんてない」

そんな、逃げ腰な自分を正当化する呟きを噛み締める彼の今日のTシャツは、汚れの目立たない暗いカーキ色の生地に、掠れた文字でこう書かれている。

『現在、介抱中。』

誰かを助けているのではない。ただ、自分自身の情けない自尊心を、酒や怠惰で必死に介抱しているだけだ。そんな、救いようのない欺瞞を纏っていた。

「ゼンさーん。またお顔が『一晩中雨に打たれた段ボール箱』みたいに、今にも底が抜けそうですよ?」

看板娘のミチルが、毒のない笑顔で、滋養強壮に効く「高麗人参入りの激重げきおもココア」を置く。

「……ミチル、俺は底が抜けそうなんじゃない。中身が詰まりすぎて、自重で沈んでいるだけだ」

「へぇ。ゼンさんって、意外と責任感……いえ、重石おもしなんですね。三十路を過ぎて『介抱中』という名の、終わらない二日酔いを楽しんでいるなんて、まるで路地裏の守護霊さん!」

「……」

ミチルの悪意なき「追撃」が、ゼンの心に新たなヒビを入れる。彼は沈黙し、ドロリとしたココアを、自分の重い腰と共に飲み下した。


その時、店の扉が、ひどく重々しい音を立てて開いた。

現れたのは、髪は乱れ、目の下には深いクマを刻んだ女性、老田おいた

彼女は席に着くなり、震える手でメニューを開いたが、何も選ぶことができない。ただ、呪文のように小声で呟き続けていた。

「……お母さん。ごめんね、お母さん。……私がいないとダメなのに、私はもう、お母さんがいなくなればいいと思ってしまう。……愛しているのに、憎い。介護は美徳? 冗談じゃないわ、これは出口のない、終わらない泥沼の散歩なのよ……」

老田の指は、湿布の匂いと洗剤の香りが混ざり合っていた。彼女にとって、人生はもはや「自分のもの」ではなく、愛する肉親を看取るための「残余物」に成り下がっていた。

ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。

老田の背後には、**「底なしの沼から伸びる、無数の痩せ細った手」**がそびえ立っていた。

それは、家族という名の鎖に絡め取られ、共に沈んでいく「共倒れの地獄」の象徴だ。彼女は自分が孝行娘であると必死に言い聞かせているが、その沼の底には、彼女自身の「若さ」や「夢」という名の死体が、無残に埋もれているのが見えた。


「 Sweetest Dream... 」

甘く、脳の判断能力を砂糖漬けにするような毒蜜の声。

ハニーが、老田の背後に音もなく立ち、その「疲弊」を盾に崩れそうな肩を優しく抱き寄せた。

ハニーの指が老田の耳元をなぞった瞬間、彼女の抑圧されていた本音が、汚泥のように溢れ出した。

(……私は、自由になりたい。もうこれ以上、おむつを替えて、罵倒を浴びて、夜も眠れない生活は嫌だ! ……いっそ、この手で終わらせてしまえば、私も楽になれるの? 誰も私を責めないで。私は十分にやった。私は、もう人間としての形を保てないほど、あの人に吸い尽くされたんだから……!)

それは、ハニーの【脳内補完(シュガー_コート)】によって「究極の献身」へと偽装された、ただの精神的極限と破壊衝動の悲鳴だった。

「いいのよ、老田さん。あなたは『慈愛の殉教者』。あなたの苦しみこそが、血縁という名の尊い絆の証なのよ。……大丈夫、自分を殺して、あの人と一つになりなさい。泥の中で抱き合い、共に呼吸を止めること。それこそが、究極の救済なのよ……?」

ハニーの言葉が、老田の瞳に「暗い光」を宿していく。彼女は恍惚とした表情で、バッグの中から一束の「紐」を弄り始めた。


ゼンは静かに立ち上がり、老田のテーブルに落ちた、彼女自身の涙でふやけた「家計簿」を、重厚な警告のように指で指し示した。

「老田。お前のその『絆』……ただの共倒れ心中への片道切符だぜ」

ゼンはトレンチコートを、あらゆる束縛を拒絶するように全開にした。

そこには、自分の世話すら放棄して「介抱中」と嘘をつく、無責任な男の言葉が刻まれていた。

ハニーが嘲笑う。「『現在、介抱中』? あなたらしい、誰一人救えないまま、自分の殻に引きこもる腰抜けの言い訳ね」

「ああ、腰抜けだ。だが、老田。お前が握っているのは絆じゃない。お前自身を、そしてあの人を窒息させるための『首輪』だ。……いいか、老田。自分を殺してまで捧げる愛なんて、ただの呪いだぜ。お前が沼に沈んだら、あの人だって泥の味しか思い出せなくなる。お前がまず『一人の人間』として呼吸しなきゃ、救いなんてどこにもねえんだよ」

老田の動きが止まる。バッグの中の紐を握る指が、激しく震え始める。

「な、何を……! 私があの人を捨てたら、あの人は死んでしまうわ!」

「お前が死んでからじゃ、遅すぎるんだよ」

ゼンの右手の指が、静かに、そして沼の底を抜くように交差した。

「――お前の泥濘スロットは、ここで強制排水だ。JACKPOT執行。」

パチンッ!!

重苦しい湿気を吹き飛ばすような、鋭い破裂音が店内に響き渡る。

老田の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【個・の・奪還】。

「……あ、あああ……! 苦しい、呼吸ができる! 私は、お母さんのために生きているんじゃない、私のために生きてもよかったんだ! ……ごめんなさい、助けてほしいって、一言言えばよかった! 私は、神様になりたかったんじゃない、ただ、普通の女の子として笑いたかっただけなんだあああ!!」

衝撃波。老田は椅子ごと後方の壁まで吹き飛び、店の裏の公園にある「公衆電話」の前まで一直線に転がっていった。

ハニーの「泥沼の手」が霧散し、老田の顔から、悲劇の聖女という名の疲弊した仮面が剥がれ落ちる。

彼女は、震える指で「外部への助け」を求める番号を押し、泥まみれの魂を、ようやく他者の手に委ねる勇気を得て号泣した。


「……ふん。ようやく、自分という名の『人生』を介抱し始められたようだな」

ゼンはシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。

決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の救命者ジャックポットだった。

「ゼンさん……今の言葉、重すぎる愛の重圧を軽やかに解き放つ、魂のバルーンアートを感じました。感動しました!」

背後から、ミチルの鈴を転がすような、しかし鋭利な刃物のように心を切り裂く声。

彼女は感動で頬を上気させ、ゼンのカーキ色のTシャツを、神聖な救護活動の記録のように拝んでいた。

「そのTシャツ! 『現在、介抱中。』……! つまり、**『まずはボロボロになった自分自身を介抱し、愛でろ。自分を救えない者に、他人を救う資格はない』**という、自己犠牲の美徳への、魂の警笛だったんですね!」

「……え?」

「さすがゼンさん。あえて情けないフリをしてまで、現代人のセルフケアの重要性を説こうとする『心の救急救命士』……! その、あえてドロドロの格好をしてまで、清らかな精神を保とうとする『泥中のはす』……私、ゼンさんの介抱、一生『集中治療室(ICU)』レベルで密着してやり遂げたいです!」

ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(救急搬送モード)」。

それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。


「……ミチル、密着だけはやめてくれ……。ICU(愛の集中治療)は俺には刺激が強すぎるんだ……」

ゼンの裏垢には、昨夜の「自分の洗濯物さえ溜め込んで、カビが生えるのを眺めている俺に、誰かの介護ができるわけがない。俺は、社会の粗大ゴミだ」という、救命士とは程遠い、あまりにも矮小で情けない独白が並んでいる。

そして今、この重いココア一杯で胃もたれを起こし、自分の体調管理すらままならない、ただのひ弱な自分がいるのだ。

ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、公衆電話の前で泣き崩れる老田と同じように、床に丸まって沈没した。

ハニーが隣で、老田の重い家計簿をゴミ箱に蹴り飛ばしながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。

「あはは! あなたの『介抱』、ただの自堕落なセルフ甘やかしね! まるで、風邪も引いていないのに『心の微熱が……』とか言って仕事をサボった、昨夜のあなたみたいに薄汚いわ!」

「……緊急……搬送だ……」

ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『現在、介抱中。』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ