幕間:裏垢の特定者(チェイサー) 〜魂の叫びは、筒抜けの拡声器だったぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
店内の隅で、ゼンはスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。その指先は、極秘任務を遂行するスナイパーのように慎重で、かつ、深刻な震えを伴っている。
(……よし、今日も無事だ。誰も見ていない。誰も、俺のこの惨めな独白には気づいていない……)
画面に映し出されているのは、彼の裏アカウント――ID:@Zero_Bullet_99。
フォロワー数は「1」。そのたった一人のフォロワーが誰なのか、ゼンは深く考えないようにしてきた。それは、広大なネットの海に漂う、名前も知らない孤独な同胞だと信じたかったのだ。
今日のTシャツは、使い古された雑巾のような灰色に、どこか投げやりな明朝体でこう書かれている。
『現在、捜索中。』
自分という存在も、生きる意味も、そしてこの情けない裏垢を肯定してくれる誰かも、すべてを「捜索中」という言葉で濁している。そんな、いつまでも始まらない自分への免罪符だった。
「ゼンさーん。またお顔が『Wi-Fiが切れた瞬間のゲーマー』みたいに絶望してますよ?」
看板娘のミチルが、毒のない、春の陽光のような笑顔で、今日はなぜか「ハーブティーと一通の封筒」を置いた。
「……ミチル、俺は絶望しているんじゃない。情報の深淵で、自分という名の『真実』をサーチしているだけだ」
「へぇ。ゼンさんって、意外とロマンチスト……いえ、ネットの迷子なんですね。そんなに深刻な顔で画面をスクロールするなんて、まるで失くした財布を探すおじいちゃん!」
「……」
ミチルの悪意なき「追撃」が、ゼンの心に新たなヒビを入れる。彼は沈黙し、スマートフォンを素早くポケットに隠した。
「あら、そんなに慌てて隠さなくてもいいのに。……『妖精さん』」
甘く、脳の判断能力を砂糖漬けにするような毒蜜の声。
ハニーが、いつの間にかゼンの真後ろに立ち、彼の耳元で、心臓を直接握り潰すような囁きを落とした。
「……っ!? ハニー、お前いつから……!」
「昨日、あなたが**『コンビニのレジ袋が有料になってから、俺の心の逃げ場がなくなった。三円で買える幸せさえ失った』**って、涙ぐましいポエムを投稿したあたりからかしら?」
ゼンの顔面が、一瞬でコンクリートのようなグレーに染まった。
「な、なぜそれを……! あのアカウントは、匿名で、暗号化されていて……!」
「匿名? 私の『観測』を舐めないで。あなたの吐き出す汚泥のような本音は、たとえ地獄の底で呟いても、私のタイムラインには特等席で流れてくるのよ。……ねえ、あの『1』のフォロワーが誰か、まだ気づいていなかったの?」
ハニーがスマートフォンの画面をゼンに突きつける。そこには、ゼンの最新の投稿『靴下に穴が開いた、神は死んだ』に対して、即座に「いいね」を押している、紅い唇のアイコンが表示されていた。
「……ハ、ハニー……お前、俺の唯一の『理解者』のフリをして……監視していたのか……!」
「理解なんてしてないわよ。ただ、あなたの情けなさを肴に飲むワインが、最高に美味しいだけ」
ハニーの不敵な笑みが、ゼンのプライバシーを粉々に粉砕した。
「ゼンさん、ゼンさん! 見てください、これ!」
ミチルが、先ほど置いた封筒を勢いよく開封した。中から出てきたのは、何らかの「調査報告書」のような束だった。
「私、最近SNSで、とっても切なくて、とっても情けない……でも、放っておけない『迷子の妖精さん』を見つけたんです! その人の魂を救いたくて、私なりに特定作業をしてみたんですよ!」
ゼンの背筋に、氷柱が突き刺さるような戦慄が走った。
「その妖精さん、昨日の夜に**『トイレットペーパーの芯を替える勇気がない。誰か、俺の人生の芯も替えてくれ』**って呟いてたんです。私、その健気さに感動して……。投稿時間、付近の天候、そして文体から滲み出る『圧倒的な豆腐メンタル』を解析した結果……!」
ミチルが、キラキラとした瞳でゼンを指差した。
「このお店の半径五メートル以内に、その妖精さんが潜伏していることが判明しました! つまり、このお店の常連さんか、あるいは……ゼンさん、あなたの近くに、あなた以上に情けない人がいるってことなんです! 探しましょう、その人を! 私が一生、芯を替えてあげます!」
(……ミチル。その妖精は、今、お前の目の前で死にかけているぞ)
ゼンの視界が、モノクロームの「観測モード」へと切り替わる。
ミチルの背後には、**「巨大なルーペを持つ聖母」**がそびえ立っていた。
彼女の純粋な善意は、意図せずして、この世で最も精密な「特定班」と化していたのだ。逃げ場はない。
「……ふふ、あははは! 面白いわ、ミチル! ほら、その報告書の『文体の特徴』をゼンに見せてあげなさいよ」
ハニーが、ゼンの限界を知りながら、愉悦の引き金を引く。
ミチルが嬉々として、報告書の一部を読み上げた。
「はい! 『語尾に漂う微かなハードボイルドへの未練』、『現実に勝てない自分を、なぜか三点リーダー(……)で美化しようとする悪癖』、そして……『たまにTシャツの文字と連動した嘆きを漏らす、致命的なうっかりミス』!」
ミチルが、ゼンの胸元の**『現在、捜索中。』**という文字と、報告書のスクショを照らし合わせる。
「……あれ? 妖精さんの昨日の投稿……『俺の尊厳、現在捜索中』……。ゼンさんのTシャツと……完全一致……?」
「……あ」
ミチルの瞳に、衝撃と、理解と、そしてそれらをすべて飲み込む「巨大な慈愛」が宿っていく。
「ゼンさん……。あなたが……あなたが、あの芯も替えられない、三円の幸せに泣く、孤独な妖精さんだったんですね……!」
「……違う。これは、高度な情報戦の結果、たまたま……」
「ゼンさーん!!」
ミチルが、泣きながらゼンに抱きつこうとした。
「そんなに辛かったんですね! 靴下に穴が開いただけで神の死を悟るほど、繊細な魂を持っていたなんて! 私、もうゼンさんを一人になんてさせません! 裏垢なんて消しちゃってください! 私がゼンさんの本音を、二十四時間体制で『生』で受信し続けますから!」
「……ミチル、生で受信はやめてくれ……。サーバー(心)がパンクする……」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(特定完了モード)」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。
唯一の逃げ場だった裏垢が、今、ミチルという名の「公式アカウント」に強制統合されてしまった。
ハニーが隣で、ゼンのスマートフォンを指先で弄びながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。
「あはは! これからは私が、あなたの投稿を全部『引用リポスト』で全世界に晒してあげるわ。……あ、でもフォロワーは私一人だから、あなたの羞恥心を私一人で独占できるわけね。最高のご馳走だわ、ゼン」
ハニーの指が、ゼンのスマートフォンの「投稿ボタン」を勝手に押す。
【悲報:特定されました。俺の人生、これにて捜索打ち切り。】
「……リタイア……チェックアウトだ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『現在、捜索中。』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。
「……さあ、ゼンさん! 次の投稿は『今日のコーヒーは少しぬるい、でもそれが俺の体温に似ている』ですね! さあ、大きな声で復唱してください!」
ミチルが、ゼンの本音を強制的に「実演」させようと、メモ帳を構えて待ち構えている。
もはや、裏垢に逃げることさえ許されない。ゼンは、自分の人生という名の広場で、全裸でスポットライトを浴びているような絶望感に包まれ、カウンターの下で石像のように固まった。
「……ふん。これでようやく、あなたにプライバシーなんて贅沢なものはないって自覚できたかしら」
ハニーがワインを飲み干し、不敵に微笑む。
ゼンの裏垢の通知音が鳴る。
【@Honey_Queenがあなたの投稿をいいねしました】
【@Mitchy_Angelがあなたをフォローしました】
ゼンの「捜索」は、最悪の形で見つかることで、強制終了を迎えたのだった。




