第2話:純愛の定義(その赤い糸、ただのしめ縄だぜ)
愛とは、美しい誤解のことだ。
誰かが言ったその言葉を、俺はシガレットチョコの箱を叩きながら思い出していた。
この街の夜には、愛という名の泥沼が至る所に口を開けている。
他人に認められたいという飢え、自分一人では立てないという怯え。そんな不格好な感情に「純愛」というリボンをかけて、人は化け物へと変貌する。
俺の視界の中で、一人の男の背中が真っ赤に脈打っていた。
場所は、深夜の住宅街にある静かな公園。男の名は田村。手に持ったスマホの画面には、ある女性のSNSプロフィールが聖遺物のように映し出されている。
「彼女、また僕の好きなカフェの写真を上げてる……。これはメッセージだ。僕に来てほしいっていう、運命の招待状なんだ……!」
田村の『痛点』は、彼の背後で真っ赤なトサカのように逆立っていた。
それは「愛」ではない。ただの「執着」と、鏡合わせの「自己愛」だ。
「そうよ、田村さん。あなたの想いは奇跡に近いわ。彼女もきっと、あなたの視線という名の『守護』を感じているはずよ」
ブランコに揺られながら、ハニーが不敵に笑っていた。
彼女の指先から放たれる虹色の粒子が、田村の視界をバラ色に染め上げていく。ハニーの『脳内補完』。ストーカーという醜い現実を、「騎士」という輝かしい幻覚へと塗り替える禁忌の魔術だ。
「ハニー。その男を『騎士』にするには、少しばかり馬が足りないんじゃないか?」
俺は街灯の影からゆっくりと姿を現した。
トレンチコートの襟を立て、俺は右手の指をポケットの中で重ねる。
「あらゼン。野良犬の次は、恋の邪魔をする無粋な悪役かしら? あなたには『愛』という甘い果実を味わう資格なんてないのに」
「フン、愛だか何だか知らねえが、その果実はとっくに腐って中から虫が湧いてるぜ」
俺は田村の背後に回った。
奴の視界はハニーによって完全にジャックされている。目の前の現実――彼女が恐怖で鍵垢にし、引っ越しを検討しているという事実――から、必死に目を背けているのだ。
「田村。お前が彼女に尽くしているのは、彼女のためじゃない。……お前はただ、自分の人生が空っぽなのを認めるのが怖くて、他人の人生を『自分の居場所』にしようとしてるだけだ。……図星だろ?」
「う、うるさい! これは……運命なんだ! 運命の赤い糸が、僕たちを繋いでいるんだ!」
「赤い糸? ――いいや、それはお前が自分に巻き付けた『しめ縄』だ。自縛して勝手に苦しんでろ」
俺は右手の指を力強く弾いた。
――スナップ(撃)。
闇夜を、無慈悲なスロットの回転音が引き裂いた。
田村の頭上に現れたのは、真っ黒な錆びたリール。
【自】【己】【満足】
「――が、はぁぁぁぁぁ!!」
衝撃が田村の背中を貫いた。
彼はまるで大型犬に背後からタックルされたかのように地面を転がり、公園の砂場に頭から突っ込んだ。口の中から砂を吐き出しながら、彼は震える声で絶叫した。
「あああああ! そうだよ! 俺の生活には何もない! 彼女を監視してないと、自分が消えてしまいそうなんだよぉぉぉ!」
「……不味い。不味いわ、ゼン。あなたのせいで、最高の『純愛劇』がただの『喜劇』になっちゃった」
ハニーは不機嫌そうにブランコを降りると、夜の霧へと消えていった。
俺は砂場に突っ伏して泣きじゃくる男を一瞥し、鼻を鳴らした。
「……JACKPOTだ。……安心しろ、空っぽならこれから詰め込めばいい。砂以外のものをな」
今夜も完璧だ。
俺はトレンチコートをバサリと翻し、誰にも見られない勝利のポーズを決めて公園を去った。
翌朝。喫茶『ジャックポット』。
俺は昨夜の余韻に浸りながら、自作のポエムをメモ帳にしたためていた。
「……愛とは、己を映す鏡。だがその鏡は、時に凶器となる。……フッ、悪くない」
「ゼンさん、おはようございます!」
ミチルの元気な声が、俺の「世界」を現実へと引き戻す。
彼女は今日、いつになく真剣な表情で俺の前に立った。
「ゼンさん! 私、感動しちゃいました! 昨日の夜、公園でボランティア活動をしていたって聞きましたよ!」
「……ボランティア? まあ、街のゴミを掃除していたと言えなくもないが……」
俺はコーヒーを優雅に啜りながら、余裕の笑みを浮かべた。どうやら俺の活躍が、どこかで善行として伝わったらしい。
「やっぱり! さっき、警察の方が『不審者を見守ってくれていた人がいた』って言ってたんです。ゼンさん、その……」
ミチルの目が、俺がトレンチコートの下に着ていた「本日の勝負服」に釘付けになる。
今日俺が選んだのは、これだ。
『愛の守護神』
(※背中には巨大な金色の翼のイラスト入り)
「そのTシャツ! 昨日の活動にぴったりです! まさに『地域の見守り隊』の鑑ですね! ゼンさんの背中、なんだか神々しくて……ちょっと近寄りがたいくらいです!」
――ゴフッ。
俺はコーヒーを盛大に気管に詰まらせた。
違う。このTシャツは、もっとこう、孤独なヒーロー的な、アウトサイダーな守護者をイメージしたものであって、決して「PTAの見守り隊」的な文脈ではない。
「あ、ゼンさん、顔が真っ赤! 照れてるんですか? 謙遜しなくていいんですよ、その翼、すごく……こう、商店街の福引きの景品みたいでアットホームです!」
――JACKPOT!!
俺の脳内で、真っ白なお花の図柄が揃った。
ミチルの「善意の狙撃」が、俺のハードボイルドな自意識を、商店街の安っぽい多幸感で塗りつぶしていく。
「……ふん。……これは……地域密着型の……カモフラージュだ……」
「わあ、プロの意見ですね! 勉強になります!」
笑顔で去っていくミチルの後ろ姿を見ながら、俺はカウンターに額をぶつけた。
「……ハニー。……頼むから、俺に『お前は最悪のクズだ』って嘘をついてくれ……。この真っ当な称賛に……俺の心臓が耐えられない……」
俺はシガレットチョコを握りしめ、朝の光の中で、今日何度目かの自爆を遂げた。




