幕間:ハニーの「脳内砂糖漬け」クッキング 〜猛毒のスイーツは、純真(ピュア)には通用しねえんだぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
店内のテーブルには、今、この世のものとは思えないほど美しく、そして禍々しい輝きを放つ一皿のパフェが鎮座していた。
幾層にも重なるクリームは、まるで思考を麻痺させる真綿のようで、頂点に鎮座する真っ赤なチェリーは、誘惑する悪魔の瞳のように怪しく光っている。
ハニーが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、カウンターに肘をついた。
「さあ、新作の試食タイムよ。名付けて**『忘却のシュガー・ハイ』**。一口食べれば、現実の辛さも、自分の情けなさも、すべてが甘い多幸感の中に溶けて消えてしまう……。魂を甘やかし、堕落させるためだけの、究極の『毒菓子』よ」
ゼンは、そのパフェから漂う「理性を溶かす香り」に、本能的な危機感を覚えていた。
今日のTシャツは、泥水のような茶色の生地に、弱々しい筆致でこう書かれている。
『明日から、本気出す。』
(……危ねえ。今の俺がそのパフェを食ったら、二度とこの椅子から立ち上がれなくなる……。そのまま一生、甘い夢の中で腐っていく自信があるぞ)
ゼンは、パフェを「精神的な地雷原」として認識し、トレンチコートの襟を立てて距離を取った。だが、その背後から、一切の躊躇なく死地へ踏み込む影があった。
「わあ! ハニーさん、とってもキラキラして美味しそうなパフェですね! 私、試食してもいいですか?」
ミチルが、春の嵐のような勢いでパフェに詰め寄った。
「ええ、もちろんよ、ミチル。……たっぷり召し上がれ」
ハニーの瞳に、残酷な悦びが宿る。
このパフェには、ハニー特製の「脳内補完」を誘発する特殊な香料と、自己愛を暴走させる糖分が限界まで濃縮されている。これを食べれば、どれほど純粋な人間でも「自分は選ばれし特別な存在だ」「苦労なんてしなくていい」という、甘い増長と慢心の奴隷になるはずだった。
ミチルが、大きなスプーンをパフェの深淵へと突き立てる。
「いただきまーす!」
パクッ、と。
一切の警戒心を持たず、ミチルはその「精神の毒薬」を口に含んだ。
「……」
ゼンは息を呑んだ。
ハニーは、ミチルの表情が「全能感」で歪むのを、今か今かと待ち構えていた。
沈黙が流れる。店内のジャズが、処刑を待つドラムロールのように聞こえた。
「……ふふ、どうかしら? 自分が世界の中心になったような、甘い万能感が押し寄せてくるでしょう? もう、辛い仕事も、ゼンのお世話も、何もかも放り出してしまいたくなるはずよ……」
ハニーが勝利を確信して囁いた、その時。
「……あ、これ! 中に隠れてる**『梅干しの種』**、すっごく酸っぱくて美味しいです!」
「……は?」
ハニーの動きが、物理的にフリーズした。
「違いますよハニーさん! この甘すぎるクリームの中に、あえてこの『現実の厳しさ』を象徴するような塩辛い梅干しを仕込むなんて……! まさに、**『人生は甘いだけじゃない、その芯にある酸いも甘いも噛み分けてこそ、真の幸せに到達できる』**という、魂のスパルタ・クッキングだったんですね!」
ミチルが、頬を赤らめてパフェを頬張り続ける。
「ハニーさんって、やっぱり凄いです! 私、この『叱咤激励の味』に感動しました! もっともっと頑張って、ゼンさんを立派な人間に育てなきゃって、逆にやる気が漲ってきました!」
「違う……そんな健康的な隠し味、入れた覚えはないわよ……! それは私の悪意が凝縮された『絶望の核』のはず……!」
ハニーが絶叫するが、ミチルの「超解釈」は、すでにパフェ全体を浄化し始めていた。
ゼンの視界が、モノクロームの「観測モード」へと切り替わる。
ハニーが仕掛けた「脳内砂糖漬け」の幻影……すなわち、人々を怠惰へと誘う甘い霧は、ミチルの口に入った瞬間に、なぜか**「高濃度プロテインと根性の結晶」**へと変換され、彼女の体内で健康的なエネルギーへと昇華されていた。
(……ミチル。お前の胃袋は、悪意を燃料に変える『永久機関』かよ)
ハニーの背後で、彼女の誇り高き「悪女の断頭台」が、ミチルの放つ眩しすぎるポジティブ光線によって、まるでおもちゃのチョコのように溶け始めていた。
「っ……! 認めないわ、こんなの! 私の傑作が、ただの健康食品扱いされるなんて……!」
ハニーが狼狽し、カウンターから身を乗り出す。その拍子に、彼女が懐に隠し持っていた「デコレーション用の食用ペン」が、ゼンの座るテーブルに転がった。
「あ、ゼンさんも食べてください! ほら、元気が出ますよ!」
ミチルが、あろうことかパフェの「残骸(すでに浄化済みのエネルギー体)」をゼンに差し出す。
「いや、俺はいい……。俺は明日から本気を出す予定なんだ……」
ゼンが必死に拒絶し、椅子を引いたその瞬間。
ハニーの転がした食用ペンが、ゼンの胸元に接触した。ハニーのペンは、触れたものの「表面」ではなく「本質」を書き換えるという、彼女のイタズラ用の特殊な品だった。
一瞬にして、ゼンのTシャツの文字が上書きされる。
『一生、準備中。』
「……あ」
ゼンは、自分の人生の真理を突かれたような衝撃に、膝から崩れ落ちそうになった。ハニーの悪意が、ミチルに跳ね返された反動で、最も脆弱なゼンの急所に突き刺さったのだ。
「あら、こっちの方があなたらしいじゃない。一生準備して、一生開店しない……。あなたの人生、その一言で完全要約完了ね」
ハニーが、ミチルへの敗北感を紛らわすように、ゼンを冷酷に狙撃した。
「ゼンさん、凄いです! Tシャツが、さらに深みのある『哲学的な待機状態』へと進化しました!」
ミチルが再び、ゼンの胸元を拝むように見つめた。
「『一生、準備中。』……! つまり、**『完成された人間などいない。死ぬその瞬間まで、自分を磨き、高め続けるプロセスの尊さを忘れるな』**という、向上心の極致を現した言葉だったんですね!」
「……え?」
「さすがゼンさん。あえて『準備中』と名乗ることで、傲慢さを捨て、常に学び続ける姿勢を見せているんですね……! 私、ゼンさんの『永遠の予備校生活』、一生月謝を払い続けて支えたいです!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(過剰融資モード)」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。
彼は、別に自分を高めているわけではない。ただ、決断を先延ばしにして、温かいココアを飲んでいたいだけの男だ。
「……ミチル、月謝はやめてくれ……。その金で、せめて普通のTシャツを買ってくれ……」
ゼンは、二人の女性の「過剰な悪意」と「過剰な善意」の板挟みに遭い、カウンターの下で胎児のように丸まって沈没した。
「……チェック……アウトだ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツに刻まれた**『一生、準備中。』**という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。
ハニーは、自分のパフェが「梅干し入りの根性スイーツ」としてミチルに完食された屈辱に耐えかね、自棄になって残った生クリームをゼンに投げつけた。
「ふ、ふん。今日のところは引き分けてあげるわよ! でもゼン、あなたのその『準備期間』、私が一生かけて終わらせないようにしてあげるから!」
「ゼンさーん! 大丈夫ですよ、次のパフェにはもっと大きな梅干しを入れてきますからねー!」
ミチルの声が、希望に満ちて響き渡る。
ゼンの裏垢には、今、震える指でこう投稿されていた。
『悪意は甘く、善意は酸っぱい。俺の心は、もう胃もたれで限界だ。……誰か、ただの白湯をくれ』
そしてその投稿には、即座に「1」のいいねが付いた。
……通知欄には、ハニーの不敵なアイコンが点滅していた。




