幕間:ファッション・チェックの惨劇 〜着せ替え人形(マリオネット)に明日はねえんだぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
午後の淀んだ光が差し込む店内で、ゼンはカウンターの隅に座り、自分の胸元に刻まれた「文字」を呪わしげに凝視していた。
今日の彼が纏っているのは、洗うほどに「不吉な紫」が滲み出すような、形容しがたい毒々しい色味のTシャツだ。そしてそこには、力強い極太の寄席文字で、逃げ場のない事実のようにこう書かれている。
『実家が太い。』
「……これ、外に着ていっていい言葉じゃないだろ。社会的な死刑宣告だぜ」
独白が、虚しく店内のジャズに溶け込む。
三十路を超えた男が、トレンチコートの下に「私は親の資産という名の生命維持装置に依存して生きています」と高らかに宣言する布を纏う。それはハードボイルドな狙撃手としてのプライドを、根底から破壊する行為だった。
ゼンの脳裏に、今朝の出来事が呪いのようにフラッシュバックする。
「ゼンさーん! 今日はこれを着てください! ゼンさんの持つ『溢れ出る大物感』にぴったりだと思って、商店街の裏通りで買ってきたんです!」
ミチルの、後光が差すほどの純粋な笑顔。その「全肯定」に晒された瞬間、ゼンの思考回路はショートし、気づけばこの紫の悪魔に袖を通していた。
「……はぁ。俺、いつからミチルの着せ替え人形になったんだ?」
溜息は、トレンチコートの襟元に虚しく吸い込まれた。
「あら、今日のファッションも一段と『救いようがない』わね」
甘く、鼓膜を砂糖の針で刺すような毒蜜の声。
いつの間にかカウンターの隣席に座っていたハニーが、ゼンの胸元の文字を指先でなぞりながら、腹の底から楽しそうに喉を鳴らした。
「『実家が太い』? あなたのその、薄っぺらで今にも破けそうなプライドにぴったりの言葉じゃない。……ねえ、ミチル。よくこんな素敵な『羞恥心の塊』を見つけてきたわね」
ミチルが、トレイを抱えて誇らしげに胸を張る。
「ええ! ゼンさんがこれを着た瞬間、店内の空気が『無償の愛』に包まれた安心感に満ちましたよね!」
ハニーが笑いすぎて、テーブルを小さく叩いた。
「あはは! 安心感っていうか、ただの『自立を諦めた男の加齢臭』よ。……でも、面白いわ。ゼン、あなた、本当は嬉しいんじゃないの? 親という名の巨大な繭に包まれていたいっていう、その幼児的な本音が暴かれて」
「……黙れ。これは、ミチルの好意を無下にしないための、大人の配慮だ」
ゼンは必死にトレンチコートの襟を合わせるが、不吉な紫色は、襟元から不敵に覗き込んでいた。
(……ミチル。あそこは、服を売る場所じゃない。……呪いを売る場所だぞ)
露店の不気味な記憶を反芻するゼンに、ミチルが追い打ちをかける。
「あ、ゼンさん。明日の分も買ってあるんですよ! 明日はこれ、『まだ、本気出してないだけ。』です!」
(……殺してくれ。俺を、今すぐこの場で高精度に狙撃してくれ)
ゼンの精神的な「死」を察知したのか、ハニーがさらに火に油を注ぐ。
「いいじゃない。でも、ミチル。もっと彼に似合う言葉を『用意』してきたわ」
ハニーが不敵に微笑み、ゼンの胸元にパッと手のひらを押し当てた。その手には、透明なシール状の**「感熱式特殊転写デカール」**が隠されていた。体温に反応して浮き上がる、ハニーお手製の悪質極まりない不思議トリックだ。
一瞬のうちに、ゼンのTシャツの文字は、彼の隠したい私生活を抉り出すような言葉に上書きされた。
『靴下に穴。』
「あ……」
ゼンは、昨日から右足の親指に風通しの良い、あまりにも身軽な「自由」を感じていたことを思い出し、顔面を土気色に変えた。文字が変わっただけではない。ハニーの仕掛けたトリックによって、今の彼は「歩く恥晒し」へと物理的に改造されたのだ。
ゼンは、二人の女性の視線に晒されながら、ふと、窓の外を眺めた。
そこには、買い物袋を下げた母親と、その手を握って歩く小さな子供の姿があった。
ゼンは、胸元に物理的に刻み込まれた屈辱的な**『靴下に穴。』**の文字を隠すことも忘れ、ポツリと、無自覚に呟いた。
「……なぁ。結局さ、実家が太かろうが、靴下に穴が開いてようが……。男ってのは、一生誰かの手のひらの上で転がされて、その温もりに安心してたいだけなのかもしれないな」
その瞬間、店内の空気が濃密な「熱」に包まれた。
ハニーの、常に嘲笑を浮かべていた紅い瞳が、一瞬だけ少女のように丸くなった。彼女の胸の奥にある、決して表に出さない「支配欲」が、ゼンの「安心したい」という無防備な告白によって、純粋な『母性』の形へと無理やり矯正されてしまったのだ。
「……っ。な、何を……そんな、捨てられた子犬みたいなこと言ってんのよ……。……でも、そうね。あなたのその『穴』、塞いであげないこともないわよ?」
ハニーの頬が朱色に染まり、彼女は狼狽して顔を逸らした。
一方、ミチルの目は、もはや神々しい光を放っていた。
「ゼンさん……! 今、分かりました! ゼンさんは、全人類を『お母さん』にするために、あえて隙を見せていたんですね……!」
ミチルの背後に、巨大な乳母車の幻影が見えた。
「私、ゼンさんの靴下の穴を、一生かけて刺繍で埋め尽くします! ずっと子守唄を歌い続けますね!」
「……え? いや、ちょっと待て。二人とも、顔が怖いんだが……」
ゼンの本能が、最大級の警報を発令した。
一瞬の弱音で二人の怪物の「母性」という名の暴走機関を起動させてしまったのだ。
「いいわ、ゼン。今日からあなたのことは、私が管理してあげる。……全部、私の手のひらの中でね」
ハニーの指先が、震えながらゼンの顎をクイと持ち上げる。その瞳には、獲物を愛でる捕食者と、世話を焼きたくてたまらない姉が同居していた。
「ハニーさん、抜け駆けは禁止です! ゼンさんの『実家』は私なんですから! さあゼンさん、まずはお靴を脱いでください。愛のガーゼで包んであげます!」
ミチルが除菌スプレーを手に、猛然と距離を詰めてくる。
「……ひっ! 助けてくれ! 俺はただ、靴下を買いに行くのが面倒なだけなんだ!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定(暴走モード)」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。
「……ミチル、ガーゼはいい……。ハニー、その目はもっと怖い……。俺の尊厳が、母性という名のブラックホールに吸い込まれていく……」
ゼンは、二人の女性の「過剰な愛」という名の蹂躙に耐えかね、カウンターの下に潜り込むようにして沈没した。
「……リタイア……チェックアウトだ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツにハニーの悪質な仕掛けで刻まれた**『靴下に穴。』**という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。
ハニーは、顔を赤らめたまま、ゼンの胸元の文字と脱ぎ捨てられそうになった靴下をスマホで連写し続けている。
「ふ、ふん。これを弱点にして、一生あなたを私の『おもちゃ』にしてあげるんだから……」
「ゼンさーん! 大丈夫ですよ、私が今すぐ世界で一番温かいミルクを持ってきますからねー!」
ミチルの声が、店内に響き渡る。
ゼンの裏垢には、今、震える指でこう投稿されていた。
『女性の優しさは、時にどんな銃弾よりも深く魂を貫く。……俺、もう帰りたい』
そしてその投稿には、即座に「1」のいいねが付いた。
……フォロワーは、相変わらずハニー一人だけだった。




