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第17話:無関心の防壁(アパシー・シティ) 〜冷めてるってのは、生きてるって言わねえんだぜ〜


喫茶店『ジャックポット』。

店外の通りでは、救急車のサイレンが遠くで鳴り響き、誰かの日常が悲鳴を上げている。しかし、店内に座るゼンには、それがまるで水槽の外側の出来事のように、ひどく現実味を欠いた音に聞こえていた。彼はカウンターの隅で、微動だにせず冷めきったエスプレッソを眺めていた。

(……救急車か。大変だな。……いや、俺には関係ない。俺のコーヒーが苦いことの方が、今の俺には重要な問題だ……)

脳の奥底では、自分自身の冷酷さに薄ら寒い恐怖を感じている。だが、その恐怖すらも「面倒な感情」として、心の奥のゴミ箱へと放り投げた。他人の不幸に関われば、自分の平穏が乱される。感情を揺さぶられれば、エネルギーを消費する。

その「心の節電モード」が、彼の世界を灰色に染め抜いていた。

「……はぁ。何を見ても、何も感じない。……これが大人になるってことか?」

独白は、冷たいエスプレッソの湯気すら立てられず、虚空に沈んだ。

今日のTシャツは、無機質なコンクリートのようなグレーの生地に、事務的なフォントでこう書かれている。

『本日の営業は、終了しました。』

心のシャッターを下ろし、他者からの干渉を一切受け付けない。そんな「精神的閉店状態」が、彼の唯一の安息地となっていた。

「ゼンさーん。またお顔が『三日間放置された石鹸の泡』みたいにカサカサですよ?」

看板娘のミチルが、毒のない、春の陽光のような笑顔で、熱いおしぼりを置く。

「……ミチル、俺はカサカサなんじゃない。感情の蒸発を防ぐために、表面を硬化させているだけだ」

「へぇ。ゼンさんって、意外と省エネ……いえ、不動明王みたいに落ち着いてるんですね。隣の席で大喧嘩が始まっても、瞬き一つしないなんて、まるで彫刻!」

「……」

ミチルの悪意なき「追撃」が、ゼンの心に新たなヒビを入れる。彼は沈黙し、店内で繰り広げられる他人の人生の断片を、ただの「背景」として処理し続けた。


その時、店の扉が、凍り付くような無機質な音を立てて開いた。

現れたのは、仕立てのいいスーツを着こなし、耳には常に最新のノイズキャンセリングイヤホンを装着した男、冷水ひやみず

彼は席に着くなり、隣の席で赤ん坊が泣き出しても、不快感すら示さずにイヤホンの音量を上げた。

「……ノイズだ。世界はノイズに満ちている。……僕は自分の半径一メートルだけを愛していればいい。他人の悲劇も、社会の歪みも、僕のデバイスに表示されない限り存在しないのと同じだ……。効率的に、静かに、僕は僕だけの完成された空虚を維持するんだ……」

冷水の指が、滑らかにタブレットの画面をなぞる。彼にとって、他者は「自分の景観を損ねる物体」か「自分に利益をもたらすリソース」の二種類にしか分類されていなかった。

ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。

冷水の背後には、**「分厚い防弾ガラスの城壁」**がそびえ立っていた。

それは、他者の感情という名の弾丸をすべて弾き返し、自分だけを守るための、絶対的な断絶の象徴だ。彼は自分が洗練された知性を持つ現代人であると信じ込んでいるが、その城壁の内側では、自分自身の「心」という名の臓器が、血の通わない石灰石へと変わっているのが見えた。


「 Sweetest Dream... 」

甘く、脳の判断能力を砂糖漬けにするような毒蜜の声。

ハニーが、冷水の背後に音もなく立ち、その「防壁」を盾に強張った肩を優しく抱き寄せた。

ハニーの指が冷水の耳元をなぞった瞬間、彼の抑圧されていた内心の叫びが、汚泥のように溢れ出した。

(……僕は、傷つきたくないんだ。誰かの痛みに共感したら、僕まで壊れてしまう。あの泣いている赤ん坊も、テレビで流れる紛争も、すべて僕の平穏を脅かす敵だ。……本当は、寂しくて死にそうだ。誰かに、僕のこの静かな絶望に気づいてほしい。でも、自分から壁を壊す勇気なんてない。だから、僕はイヤホンのボリュームを上げて、自分すらもノイズとして消し去るしかないんだ……!)

それは、ハニーの【脳内補完(シュガー_コート)】によって「高潔な静寂」へと偽装された、ただの臆病な孤独の悲鳴だった。

「いいのよ、冷水さん。あなたは『静寂の守護者』。騒がしい世界から自分を隔離する、知的な隠者なのよ。……大丈夫、他人の痛みなんて、あなたの洗練された人生には必要ないわ。このまま、誰の声も届かない透明なひつぎの中で、美しく眠り続けなさい……?」

ハニーの言葉が、冷水の瞳に「凍り付いた虚無」を宿していく。彼は恍惚とした表情で、再びノイズキャンセリングのスイッチを深々と押し込んだ。


ゼンは静かに立ち上がり、冷水のテーブルにある、微動だにしないコーヒーカップを、重厚な警告のように指で指し示した。

「冷水。お前のその『静寂』……ただの精神的な死体安置所だぜ」

ゼンはトレンチコートを、あらゆる遮断を無効化するように全開にした。

そこには、自分自身の感情さえ「本日終了」として葬り去った、空虚な告白が刻まれていた。

ハニーが嘲笑う。「『本日の営業は、終了しました』? あなたらしい、自分から世界を捨てた、臆病な敗北宣言ね」

「ああ、敗北だ。だが、冷水。お前がやっているのは自衛じゃない。自分という人間を、少しずつ磨り潰して消していく『緩やかな自殺』だ。……いいか、冷水。ノイズを排除した先に待っているのは、自分の心臓の音さえ聞こえなくなった、絶対的な零度の孤独なんだよ」

冷水の動きが止まる。その指が、イヤホンを外すことへの恐怖で激しく震え始める。

「な、何を……! 僕は、自分の時間を大切にしているだけだ! 無駄な感情に振り回されたくないんだ!」

「その『無駄』な感情こそが、お前が生きている唯一の証拠だったんだぜ」

ゼンの右手の指が、静かに、そして防弾ガラスにヒビを入れるように交差した。

「――お前の隔離スロットは、ここで強制解除だ。JACKPOT執行。」

パチンッ!!

絶対的な静寂を粉砕するような、激しい破裂音が店内に響き渡る。

冷水の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【感情・氾濫】。

「……あ、あああ……! うるさい、世界がうるさすぎる! 誰かの話し声、車の音、誰かのすすり泣き……全部、僕の心の中に直接流れ込んでくる! ……痛い、誰かが傷ついているのが、自分のことみたいに痛いんだ! 僕は、ずっとこの痛みが怖くて、耳を塞いでいたのか……。僕は、独りぼっちで死ぬのが怖かっただけなんだあああ!!」

衝撃波。冷水は椅子ごと後方の壁まで吹き飛び、店の裏の公園にある「誰かが置き忘れた古びたラジオ」の前まで一直線に転がっていった。

ハニーの「ガラスの城壁」が木っ端微塵に砕け散り、冷水の顔から、洗練された隠者という名の無機質な仮面が剥がれ落ちる。

彼は、古いラジオから流れるノイズ混じりの音楽に聞き入り、その「不完全な音」に涙し、そして剥き出しの心で世界を抱きしめるように号泣した。


「……ふん。ようやく、自分という名の店のシャッターを上げられたようだな」

ゼンはシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。

決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の媒介者ジャックポットだった。

「ゼンさん……今の言葉、冷え切った大地を溶かすような、力強い生命の脈動を感じました。感動しました!」

背後から、ミチルの鈴を転がすような、しかし鋭利な刃物のように心を切り裂く声。

彼女は感動で頬を上気させ、ゼンのグレーのTシャツを、神聖な開店告知のように拝んでいた。

「そのTシャツ! 『本日の営業は、終了しました。』……! つまり、**『これまでの無関心な自分は今日で終わりだ。明日からは、他者の痛みを分かち合い、共に生きる新しい自分として開店するのだ』**という、冷徹な都市への、魂の再生宣言だったんですね!」

「……え?」

「さすがゼンさん。あえて閉店を装うことで、自分を一度リセットし、より深い共感を手に入れようとする『精神の錬金術師』……! その、あえて冷たく見える格好をしてまで、誰よりも熱い情熱を隠そうとする『ツンデレの極地』……私、ゼンさんのリニューアルオープン、一生一番乗りで並び続けたいです!」

ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定」。

それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。


「……ミチル、一番乗りだけはやめてくれ……プレッシャーで一生開店休業のままだ……」

ゼンの裏垢には、昨夜の「近所で火事があったらしいけど、正直『野次馬が多くて邪魔だな』としか思わなかった。俺、人間として終わってるかもしれない」という、錬金術師とは程遠い、あまりにも矮小で情けない独白が並んでいる。

そして今、この「おしぼり」が少し熱すぎると言うことさえ、他者との関わりを恐れて黙っている、ただの臆病な自分がいるのだ。

ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、古いラジオの前の冷水と同じように、床に丸まって沈没した。

ハニーが隣で、冷水のノイズキャンセリングイヤホンをゴミ箱に蹴り飛ばしながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。

「あはは! あなたの『お店』、在庫は情けなさだけで、客は私一人ね! まるで、他人の不幸を対岸の火事だと思い込んでる、昨夜のあなたみたいに醜いわ!」

「……シャット……ダウンだ……」

ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『本日の営業は、終了しました。』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。


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