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第15話:共感の亡霊(ポライト・ディストピア) 〜優しさってのは、誰かの口を塞ぐ道具じゃねえんだぜ〜


喫茶店『ジャックポット』。

窓外の街並みはいつもと変わらないはずだが、今日のゼンには、世界全体が薄氷の上にあるような、危うい静寂に包まれているように見えた。彼はカウンターの隅で、石像のように固まり、スマートフォンの画面をスクロールする指さえも躊躇ためらわせていた。

(……不用意なことは言えない。この一言が、誰を傷つけ、どの『正義』に触れるか分からない……)

昨日、彼が何気なく呟いた「今日のコーヒーは、少し苦みが強くて男性的だ」という感想。それが「味覚にジェンダーを持ち込むべきではない」「苦手を公言することで、苦いコーヒーを愛する人の尊厳を傷つけている」という、微細な不快感の集積によって、じわじわと包囲されていた。

「……はぁ。もう、何を言っても間違いな気がする」

独白は、声になる前に喉元で検閲され、飲み込まれた。

今日のTシャツは、毒を抜かれたような力ないパステルカラーの生地に、丸っこいフォントでこう書かれている。

『苦情は、お母さんまで。』

自分の言葉に責任を持つことが怖くなり、すべてを他者(あるいは原罪)に丸投げしてしまいたい。そんな幼児的な逃避が、彼の「孤高」を無残に塗り潰していた。

「ゼンさーん。またお顔が『漂白されすぎた雑巾』みたいに真っ白ですよ?」

看板娘のミチルが、一点の曇りもない笑顔で、香りの立たないハーブティーを置く。

「……ミチル、俺は真っ白なんじゃない。色を付けることを禁じられているだけだ」

「へぇ。ゼンさんって、意外と臆病……いえ、配慮の塊なんですね。誰にも嫌われないように息をするなんて、まるで透明人間みたい!」

「……」

ミチルの悪意なき「追撃」が、ゼンの心に新たなヒビを入れる。彼は沈黙し、無色透明なハーブティーを、味のしない沈黙と共にすすった。


その時、店の扉が、羽毛が落ちるような静かさで開いた。

現れたのは、落ち着いたベージュの服に身を包み、常に周囲を「査定」するような鋭くも穏やかな瞳をした女性、清川きよかわ

彼女は席に着くなり、隣のテーブルの客が発した些細な冗談に対し、深く、憐れむような溜息を吐いた。

「……今のは適切ではありませんね。その表現で傷つく人が世界に何万人いると思っているのかしら。……私は許せません。不快な思いをする人が一人もいない世界。それが私の理想。そのために、私はすべての『不適切な言葉』を是正しなければならないの……」

清川の指が、スマートフォンの画面を優しく、しかし執念深く叩く。彼女が「通報」や「是正勧告」を行うたび、ネットの海では一つの自由な表現が、沈黙という名の墓場へと送られていく。

ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。

清川の背後には、**「透明な巨大なまゆ」**がそびえ立っていた。

それは、他者の痛みを代弁するという大義名分で世界を包み込み、窒息させる、優しさという名の支配の象徴だ。彼女は自分が慈愛に満ちた聖女であると信じ込んでいるが、その繭の内側では、自分と異なる価値観を持つ者への「不寛容」という毒液が、どろどろと渦巻いているのが見えた。


「 Sweetest Dream... 」

甘く、脳の判断能力を砂糖漬けにするような毒蜜の声。

ハニーが、清川の背後に音もなく立ち、その「共感」を盾に強張った肩を優しく抱き寄せた。

ハニーの指が清川の耳元をなぞった瞬間、彼女の抑圧されていた内心の叫びが、汚泥のように溢れ出した。

(……私は、正しくありたい。正しくあることでしか、自分の価値を証明できない。誰かの間違いを指摘している時だけ、私は『道徳的に上位』の存在になれる。傷つく人の味方をするふりをしていれば、誰も私を攻撃できない。……本当は、他人の自由が妬ましい。本音を叫んでいる奴らが羨ましい。だから、私は『優しさ』という鎖で、全員の口を縫い合わせてやるの。私と同じように、息苦しい聖域で震えればいいのよ……!)

それは、ハニーの【脳内補完(シュガー_コート)】によって「高潔な倫理観」へと偽装された、ただの嫉妬と支配欲の悲鳴だった。

「いいのよ、清川さん。あなたは『世界の調律師』。あなたの監視のおかげで、不浄な言葉は消え去るわ。……大丈夫、誰にも何も言わせなければ、世界は鏡のように美しく、死んだように静かになる。それこそが、究極の優しさなのよ……?」

ハニーの言葉が、清川の瞳に「無菌状態の狂気」を宿していく。彼女は恍惚とした表情で、再びSNSの「不適切投稿」を検閲し始めた。


ゼンは静かに立ち上がり、清川のテーブルにある、一滴も手を付けられていないハーブティーを、重厚な警告のように指で指し示した。

「清川。お前のその『優しさ』……ただの言葉の去勢スナイプだぜ」

ゼンはトレンチコートを、あらゆる抑圧を跳ね返すように全開にした。

そこには、責任から逃げ出した情けない「親への丸投げ」が刻まれていた。

ハニーが嘲笑う。「『苦情はお母さんまで』? あなたらしい、批判を恐れて隠れる子供のような態度ね」

「ああ、情けないさ。だが、清川。お前がやっているのは救済じゃない。自分が傷つきたくないがために、世界中を柔らかい真綿でくるんで、誰の心も動かない『退屈な地獄』を作っているだけだ。……いいか、清川。不快なものを排除した先に待っているのは、正しさで窒息した『魂の死体安置所』なんだよ」

清川の動きが止まる。その指が、正論の重みに耐えかねたように震え始める。

「な、何がおかしいの……! 私は、誰も傷つかない世界を……!」

「お前が一番傷つけているのは、不完全なまま必死に生きている『人間』そのものだ」

ゼンの右手の指が、静かに、そして繭を切り裂くように交差した。

「――お前の聖域スロットは、ここで強制解禁だ。JACKPOT執行。」

パチンッ!!

清冽せいれつで、冷や水を浴びせるような音が店内に響き渡る。

清川の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【本・音・確定】。

「……あ、あああ……! 苦しい、正しいフリをするのはもう限界! 私はただ、自分より自由に喋る奴らを黙らせたかっただけなの! 誰かの言葉に過剰に反応することで、自分の空っぽな人生から目を逸らしていただけなのよ! 私、本当は……下品な冗談で笑いたかった! 誰かを本気で罵りたかった! 正しさなんて、もう、くそくらえだああああ!!」

衝撃波。清川は椅子ごと後方の壁まで吹き飛び、店の裏の公園にある「落書きだらけの壁」の前まで一直線に転がっていった。

ハニーの「巨大な繭」がズタズタに引き裂かれ、清川の顔から、高潔な倫理観という名の透明な仮面が剥がれ落ちる。

彼女は、壁に描かれた不器用で生命力に溢れる落書きを見て、その「不適切さ」に安堵し、そして汚い言葉を叫びながら、泥だらけになって号泣した。


「……ふん。ようやく、自分という名の検閲官を解雇できたようだな」

ゼンはシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。

決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の開放者ジャックポットだった。

「ゼンさん……今の言葉、全宇宙を肯定するような、野生的で深遠な慈悲を感じました。感動しました!」

背後から、ミチルの鈴を転がすような、しかし鋭利な刃物のように心を切り裂く声。

彼女は感動で頬を上気させ、ゼンのパステルカラーのTシャツを、神秘的な教典のように拝んでいた。

「そのTシャツ! 『苦情は、お母さんまで。』……! つまり、**『現代人よ、母なる大地のようにすべてを包み込め。小さな正義で互いを裁き合うのではなく、未熟な自分も、不快な他者も、すべてを原初の混沌(母性)へと委ねてしまえ』**という、ポリティカル・コレクトネスへの、魂の宣戦布告だったんですね!」

「……え?」

「さすがゼンさん。あえてマザコンのような格好をしてまで、人類の多様性を守ろうとする『真の自由主義者』……! その、あえて責任能力がないフリをしてまで、言葉の自由を取り戻そうとする『混沌の聖者』……私、ゼンさんの甘えん坊な聖域、一生保護観察し続けたいです!」

ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定」。

それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。


「……ミチル、保護観察だけはやめてくれ……プライバシーが検閲されるより辛い……」

ゼンの裏垢には、昨夜の「誰からも批判されたくない。でも、誰かに『面白いね』って言ってほしい。俺はただの、救いようのない構ってちゃんだ」という、聖者とは程遠い、あまりにも矮小で情けない独白が並んでいる。

そして今、このハーブティーが「味が薄すぎる」と苦情を言う勇気さえ持てず、笑顔で飲み干そうとしている、ただの弱虫な自分がいるのだ。

ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、落書きだらけの壁の清川と同じように、床に丸まって沈没した。

ハニーが隣で、清川のスマートフォンをゴミ箱に蹴り飛ばしながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。

「あはは! あなたの『聖域』、誰にも踏み込まれない代わりに、自分一人の情けなさが充満して腐っているわね! まるで、昨夜のあなたみたいに臆病で醜いわ!」

「……チェック……アウトだ……」

ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『苦情は、お母さんまで。』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。


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