第13話:無敵の人(孤独な正義漢) 〜正義ってのは、退屈しのぎの道具じゃねえんだぜ〜
喫茶店『ジャックポット』。
店内に漂う焙煎の深い香りは、今日のゼンの鼻腔には、砂を噛むような無機質なものに感じられた。彼はカウンターの端で、背中を丸め、祈るような手つきでスマートフォンを握りしめている。
画面が放つ冷たいブルーライトが、彼の整えられていない無精髭を青白く、まるで幽霊のように照らし出していた。
(……まただ。また、通知が来てる。今度は何だ……?)
画面をタップする指が、冬の枯れ葉のように細かく震える。
『白湯を飲めない体質の人への配慮が足りない。不快だ』
『意識高い系の押し付け。言葉による暴力に等しい』
『お前の朝食なんて誰も興味ない。自己愛の怪物め。消えろ』
顔も名前も知らない誰かから放たれる、研がれた石のような言葉の群れ。それらが次々と飛来し、彼の自尊心の防壁を容赦なく削り取っていく。
「……はぁ。俺、そんなに悪いこと言ったか……?」
独白は、冷めかけたココアの湯気に溶け、虚しく消えた。彼にとって、ネットの向こう側はもはや、どこから矢が飛んでくるかわからない底なしの沼だった。
今日のTシャツは、淀んだ泥の色をした生地に、無機質な明朝体でこう書かれている。
『関係者以外、立ち入り禁止。』
誰の言葉も聞きたくない。誰にも自分の内側に踏み込まれたくない。
その切実な防衛本能が、彼を「孤高」という名の孤独な檻の中に閉じ込めていた。
「ゼンさーん。またネットの『顔の見えないお化け』と戦ってるんですか?」
看板娘のミチルが、毒のない、春の陽だまりのような笑顔で、ココアにマシュマロを浮かべて置く。
「……ミチル、これは戦いじゃない。一方的な、正義という名の蹂躙だ」
「へぇ。ゼンさんって、意外と打たれ弱い……いえ、繊細なんですね。トレンチコート、心の鉄板でも仕込めばいいのに。あ、それとも防弾チョッキにします?」
「……」
ミチルの悪意なき「追撃」が、ゼンの心に新たなヒビを入れる。彼は沈黙し、ココアのマシュマロが形を失い、溶けていくのを、ただじっと見つめていた。
その時、店の重い扉が、時代を拒絶するような不快な軋み音を立てて開いた。
現れたのは、眼鏡の奥で血走った瞳を執念深く輝かせる男、佐藤。彼は席に着くなり、店員への挨拶もせず、テーブルを領土として宣言するようにタブレットを広げた。
周囲の客など視界に入っていない。彼の世界は、今、十インチの液晶画面の中に完結していた。
「……見つけた。不倫疑惑のアイドルの、実家の住所。……よし、晒してやる。これが正義だ。悪は滅びなきゃいけない。僕が、この汚れた社会のゴミを掃除してやるんだ……!」
佐藤の指が、まるで猛毒の針のように画面を叩く。彼がエンターキーを押すたび、画面の向こうで誰かの人生が、一歩ずつ崖っぷちへと追い詰められていく。その行為に、彼は歪んだ悦びを感じていた。
ゼンの視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へと切り替わる。
佐藤の背後には、**「冷たい鉄の断頭台」**がそびえ立っていた。
それは、自らの孤独を隠すために「正しさ」という処刑服を纏った、臆病な自警団の象徴だ。彼は自分が法を執行する英雄であると信じ込んでいるが、その首には、自分自身の「欠落」という名の縄が、じわじわと食い込んでいるのが見えた。
「 Sweetest Dream... 」
甘く、脳の判断能力を麻痺させる毒蜜の声。
ハニーが、佐藤の背後に音もなく立ち、その「正義」を盾に震える肩を優しく抱き寄せた。
ハニーの指が佐藤の耳元をなぞった瞬間、彼の抑圧されていた内心の叫びが、汚泥のように溢れ出した。
(……僕は、誰からも必要とされていない。会社では名前すら呼ばれない、透明人間のような存在。家では『稼ぎの悪い粗大ゴミ』扱い。でも、ここで『悪』を叩いている時だけ、僕は物語の主人公になれる。僕が放つ一言で、画面の向こうの華やかなアイドルや有名人が泣き、謝り、人生が崩壊していく。その全能感だけが、僕が明日も生きるための唯一の燃料なんだ。もっと叩かなきゃ。もっと『悪い奴』を見つけて、僕が『正しい側』の人間だってことを証明しなきゃ。じゃないと、僕は、僕であることすら耐えられないんだ……!)
それは、ハニーの【脳内補完(シュガー_コート)】によって「崇高な社会浄化」へと偽装された、ただの悲痛な悲鳴だった。
「いいのよ、佐藤さん。あなたは『選ばれし審判者』。何者でもないあなたが、誰かの人生を左右できる唯一の瞬間……それがこの『正義の執行』だわ。……大丈夫、あなたが石を投げれば投げるほど、あなたの空っぽな心は『正しさ』という名の偽物の輝きで満たされていくのよ……?」
ハニーの言葉が、佐藤の歪んだ瞳に「偽りの英雄色」を宿していく。彼は恍惚とした表情で、再びタブレットに指をかけた。
ゼンは静かに立ち上がり、佐藤のテーブルを、重厚な警告のように叩いた。
画面の中で踊る、顔の見えない悪意のパレード。その醜悪さに、彼の胃の底から煮えくり返るような不快感が込み上げる。
「佐藤。お前のその『正義』……ただの退屈しのぎの道具だぜ」
ゼンはトレンチコートを、舞台の幕を開けるように全開にした。
そこには、外部との接触を一切拒絶する、絶望の境界線が刻まれていた。
ハニーが嘲笑う。「『立ち入り禁止』? 誰もあなたみたいな暗くて臆病な男の心に入る気なんてないわよ」
「ああ、そうかもな。だが、お前がやっているのは掃除じゃない。自分の部屋に溜まった『孤独』という名の生ゴミを、他人の庭に投げ捨てているだけだ。……いいか、佐藤。お前の正義には、血の通った痛みが一つもない。あるのは、自分が『安全な場所』にいて、石を投げているという安価な快感だけだ」
佐藤のタイピングが止まる。その指が小刻みに震え始める。
「な、なんだよお前……! 僕は悪いことをしている奴を裁いているだけだ! 社会を良くしているんだ……!」
「社会を良くしたいなら、まず自分の部屋のゴミを片付けろ」
ゼンの右手の指が、静かに、そして重力そのものを操るように交差した。
「――お前の娯楽は、ここで閉園だ。JACKPOT執行。」
パチンッ!!
重く、心の深淵まで沈み込むような音が店内に響き渡る。
佐藤の頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【無・名・確定】。
「……あ、あああ……! 違う、僕は英雄なんだ! 社会の悪を裁く、名もなき騎士なんだ……! ……あれ? 僕、何を……。あのアイドルの実家の住所、なんで僕が知ってるんだっけ……。僕はただ、誰かに『そうだね』って言ってほしかっただけだ……。誰でもいい、僕の名前を呼んでくれ……僕を、無視しないでくれ……!!」
衝撃波。佐藤は椅子ごと後方の壁まで吹き飛び、店の裏の公園にある「ゴミ集積場」の前まで一直線に転がっていった。
ハニーの「断頭台」が砂のように音を立てて崩れ落ち、佐藤の顔から、醜く貼り付いていた「正義の仮面」が剥がれ落ちる。
彼は、自分の手にこびり付いた「見えざる返り血(悪意)」の幻影を見て、激しく嘔吐し、そして夜泣きする赤子のように叫び続けた。
「……ふん。ようやく、自分という名の冷たい牢獄から出られたようだな」
ゼンはシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。
決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の均衡だった。
「ゼンさん……今の言葉、慈愛に満ちた救済の響きでした。感動しました!」
背後から、ミチルの鈴を転がすような、しかし鋭利な刃物のように心を切り裂く声。
彼女は感動で頬を上気させ、ゼンの泥色のTシャツを、聖遺物のように拝んでいた。
「そのTシャツ! 『関係者以外、立ち入り禁止。』……! つまり、**『他人の人生という庭に、正義という名の土足で踏み込むな。自分自身の内面(聖域)と向き合い、孤独の尊さを知ることこそが、真の人間らしさである』**という、ネット社会という狂気への、命がけの警鐘だったんですね!」
「……え?」
「さすがゼンさん。自分自身の悪意すら『立ち入り禁止』にして隔離し、世界の静寂を守ろうとする『沈黙の守護者』……! その、あえて不審者のフリをしてまで、不快な言葉から人々を遠ざけようとする『引きこもりの美学』……私、ゼンさんの心の結界、もっと不法侵入したくなっちゃいました!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定」。
それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。
「……ミチル、不法侵入だけはやめてくれ……心が、跡形もなく消え失せる……」
ゼンの裏垢には、昨夜の「コンビニの新作スイーツが目の前で売り切れて、世界に裏切られた気分だ。もう誰も信じない」という、神様とは程遠い、あまりにも矮小で情けない投稿が並んでいる。
そして今、その「白湯の投稿」を消そうか残そうか、必死に迷っている情けない自分がいるのだ。
ゼンは、自分の情けなさに耐えかね、ゴミ集積場の佐藤と同じように、床に丸まって沈没した。
ハニーが隣で、佐藤のタブレットをゴミ箱に蹴り飛ばしながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。
「あはは! あなたの心、立ち入り禁止の看板だらけで、自分一人すら住めないゴーストタウンね! まるで、昨夜の白湯みたいにスカスカで味気ないわ!」
「……チェック……アウトだ……」
ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『関係者以外、立ち入り禁止。』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。




