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第12話:セルフ・プロデュースの牢獄(プリズン) 〜「見せ方」は、生き方じゃねえんだぜ〜


喫茶店『ジャックポット』。

午後の湿った光が、古いリノリウムの床に溜まった埃を、まるで舞台上の不備を指摘するスポットライトのように無情に照らし出している。ゼンはカウンターの隅で、微動だにせずスマートフォンを凝視していた。

画面には、昨日彼が投稿した「孤高のスナイパーの朝食ただのトースト」の写真。

構図にこだわり、わざわざ影が長く伸びる時間を待ち、トレンチコートの袖口が絶妙にフレームインするように、三十回は撮り直した渾身の一枚だ。

(……20分経過。……『いいね』、ゼロ。閲覧数だけが虚しく増えていく……)

指先がわずかに震える。世界という巨大な沈黙が、自分という存在を、歴史の余白にさえ残さず消し去ろうとしている恐怖。

「……はぁ。俺、何やってんだろ。こんなことに命を懸けて」

独白が、冷めきったコーヒーの表面に重い波紋を作った。

今日のTシャツは、湿り気を帯びたグレーの生地に、力ない筆致でこう書かれている。

『裏垢が本尊。』

だが、彼はまだ、この文字が孕む真の絶望に気づいていなかった。

「ゼンさーん。そんなに画面をこすっても、お友達は地面から湧いてきませんよ?」

看板娘のミチルが、ゴミを見るような……ではなく、春の陽光のような純粋な笑顔で、新しいコーヒーを置く。

「……ミチル、俺は友達が欲しいんじゃない。承認という名の酸素が、この店には足りないだけだ」

「へぇ。ゼンさんって、意外と窒息しやすいんですね。もっと肺を鍛えて、自分一人で息を吸えるようになればいいのに」

「……」

ミチルのズレた、しかし核心を穿つ励ましが、ゼンの心に「無自覚なナイフ」として突き刺さる。彼は沈黙し、再びスマホの闇へと逃げ込んだ。


その時、店の重い扉が、高級ブランドの靴音をこれ見よがしに響かせて開いた。

現れたのは、派手なブランドバッグを、まるで自分を守る防具のように抱えた女性、エリカ。

彼女は席に着くなり、メニューも見ずに「この店で一番SNS映えするスイーツ」を注文した。

運ばれてきたのは、宝石のように飾り立てられた、色彩過剰なパフェ。

だが、エリカはスプーンを持とうとしなかった。代わりに、最新式のスマートフォンを、獲物を狙う猟師のような鋭い手つきで構える。

彼女は椅子の上に立ち上がり、ライトを調整し、あらゆる角度から「幸福な私」の証拠を切り取っていく。パフェの上のクリームが重力に負けて沈み始めても、彼女のシャッター音は止まらない。

ゼンの視界が、不意にモノクロームの「観測モード」へと反転した。

エリカの背後には、**「冷徹な鏡の檻」**がそびえ立っている。

それは数万の「他人の目」を反射して増幅させる、逃げ場のないプリズムだ。

「他人からどう見られているか」という鏡の乱反射の中で、彼女は生身の肉体を透明なものへと変え、レンズの中にしか存在しない「理想の自分」に魂を売り渡していた。


「 Sweetest Dream... 」

甘く、脳の判断能力を砂糖漬けにするような毒蜜の声。

ハニーが、エリカの背後に音もなく立ち、その「加工」で塗り固められた肩を優しく抱き寄せた。

ハニーの指が触れた瞬間、エリカの抑圧されていた内心の叫びが、店内に重く溢れ出した。

(……もっとキラキラさせなきゃ。フォロワーが減っちゃう。じゃないと、私はただの派遣社員の、地味で、平凡で、誰の記憶にも残らない惨めな女に戻っちゃう……。あのブランドバッグもレンタル。今夜の夕食は、もやし一袋。それでもいいの。画面の中の私が愛されていれば、それが本当の私なんだから。お願い、本当の私を見ないで。現実の私に触れないで。私が作り上げた、この『最高の私』だけを見て愛して……!)

それは、ハニーの【脳内補完(シュガー_コート)】によって「自己プロデュース」という名のドレスに着せ替えられた、ただの消え入りそうな悲鳴だった。

「いいのよ、エリカさん。本当のあなたなんて、不完全で不細工で、誰も興味を持たないわ。あなたが丹精込めて作り上げた『最高の作品』だけが、この残酷な世界に愛される唯一の価値なのよ。……さあ、本当の自分なんてゴミ箱に捨てて、光り輝くデータになりなさい」

ハニーの言葉が、エリカの瞳から生身の人間らしい潤いを奪い、加工アプリのフィルターを通したような、不自然に鮮やかで無機質な光を宿していく。


ゼンは静かに立ち上がり、エリカのテーブルを重厚に叩いた。

スマホに映る「完璧な自撮り」と、目の前に座る、目の下に深い隈を張り付かせた「青白い残骸」。その致命的なギャップが、彼の胃を不快に逆撫でする。

「エリカ。お前のその『檻』……もう限界だぜ」

ゼンはトレンチコートを、真実を暴くカーテンのように全開にした。

そこには、SNSの闇を煮詰めたような一言が、血を吐くような文字で刻まれている。

ハニーが嘲笑う。「『裏垢が本尊』? あなたらしい、卑屈で惨めな告白ね。そんな暗い井戸の底、誰が覗き込むと思うの?」

「ああ、惨めだ。だが、自分を偽って一万人に愛されるより、裏垢で一人に『死にたい』と吐き出す方が、まだ生きてる実感がする」

ゼンは、震えるエリカの瞳を真っ直ぐに射貫いた。

「お前のフォロワーは『お前』を見ていない。お前が演じる、都合のいい『幸福という名の記号』を消費して、自分の空虚さを紛らわせているだけだ。お前は、他人の娯楽のために自分を切り売りしている、ただの奴隷なんだよ」

もはや、余計な言葉はいらない。

「――お前の虚飾スロットは、ここでフリーズだ。JACKPOT執行。」

パチンッ!!

短い、乾いた音が店内に響き渡る。

エリカの頭上に現れたスロットが、高速回転の末に揃った図柄は――【加・工・OFF】。

「……あ、あああ……嫌だ、見ないで! 本当の私は、こんなにボロボロで、服もレンタルで、部屋は三ヶ月掃除してないゴミ屋敷で……! 誰も、本当の私を見ないでええええ!!」

衝撃波が奔り、エリカは窓を突き抜け、裏の公園にある「古びた水飲み場」へと吹き飛んだ。

ハニーが展開していた「鏡の檻」が、強化ガラスが粉々に砕け散るような音を立てて消滅する。

エリカの顔から、塗り固められた魔法が剥がれ落ちていく。

彼女は水溜まりに映る、髪は乱れ、肌は荒れ、泣き腫らした顔の「加工なしの自分」を見つめた。

そして一瞬の絶叫の後、胎児のように丸まって、静かに、しかし、人生で初めて「自分のため」の涙を流し始めた。


「……ふん。ようやく、自分という名のOSが素に戻ったようだな」

ゼンはシガレットチョコを奥歯で噛み砕く。

決まった。今この瞬間、彼は間違いなく世界の中心ジャックポットだった。

「ゼンさん……今の言葉、魂の深淵まで痺れました。これこそが真の救済です!」

背後から、ミチルの鈴を転がすような、しかし鋭利な刃物のように心を切り裂く声。

彼女は感動で頬を上気させ、ゼンのグレーのTシャツを、神秘的な教典のように拝んでいた。

「そのTシャツ! 『裏垢が本尊』……! つまり、**『表層の偽り(自分)を殺し、魂の深淵にある、誰にも冒されない、誰からも理解されない聖域(真実)を神として祀れ』**という、現代の偶像崇拝に対する、究極の自己覚醒の儀式だったんですね!」

「……え?」

「さすがゼンさん。SNSという偽りの宗教から、人々を強制的に脱会させる『真理の狙撃手』。……私、ゼンさんの本尊(裏垢)、意地でも見つけ出して、毎日欠かさずお参りしちゃいますね!」

ミチルの、一点の曇りもない「聖母なる全肯定」。

それが、ゼンの豆腐メンタルを原子レベルで粉砕し、不毛な更地へと変える。


「……ミチル、それだけはやめてくれ……物理的にも社会的にも死ぬ……」

ゼンの裏垢には、昨夜の「コンビニの新作スイーツが目の前で売り切れて、世界に裏切られた気分だ。もう誰も信じない」という、神様とは程遠い、あまりにも矮小で情けない投稿が並んでいるのだ。

ゼンは、糸の切れた人形のように床に沈没した。

ハニーが隣で、泥まみれになったエリカのスマホを拾い上げながら、勝利の凱歌をあげるように笑っていた。

「あはは! あなたの『本尊』、フォロワー1人ね。……これ、三年前から私よ。あなたの愚痴、一文字残らずチェック済みなんだから。昨日の『トーストのいいねが少なくて泣いた』っていうのも、可愛かったわよ?」

「……最悪だ……」

ゼンの視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『裏垢が本尊』という文字が、虚しく宙を舞う幻影だけが残った。


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