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第1話:図星(ジャックポット)は甘くない


 夜の帳が下りる頃、街は色とりどりの嘘で化粧を始める。

 ネオンの光は卑屈な顔を隠し、車の喧騒は心の悲鳴をかき消す。誰もが何者かになりすまし、自分に都合の良い物語を演じていた。

 俺は、その舞台装置の裏側を歩く清掃員だ。

 使い古されたトレンチコートの襟を立て、俺は一本のシガレットチョコを指に挟んだ。火はつかない。だが、このほろ苦いカカオの香りが、俺という男の輪郭をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。

「……今夜も、不味そうな嘘が充満してやがる」

 俺の視界には、普通の人には見えないものが映る。

 通りすがる人々の胸元、あるいは鳩尾のあたり。そこには小さな、だが拍動する「赤い点」がある。

 それは彼らが一生をかけて隠し通そうとする、最も脆く、最も醜い真実。――『痛点』だ。

 今回の現場は、街外れにそびえ立つ高級タワーマンション『エデン・プレイス』の最上階だった。

 

 リビングの重厚なドアを押し開けると、そこには「地獄」があった。

 もちろん、血が流れているわけでも、炎が燃えているわけでもない。ただ、吐き気がするほど甘ったるい、砂糖細工のような地獄だ。

「佐藤さん、あなたは本当に素晴らしいわ。あなたの投資理論は、世界を救う新しいパラダイムなの」

 部屋の中央、ベルベットのソファーで、一人の男が放心したように座っていた。

 佐藤という名のその男は、寝癖のついた髪を高級そうなスーツで無理やり抑え込み、目の前に並んだ七つのモニターを見つめている。モニターには暴落し続ける仮想通貨のチャートが、真っ赤な傷口のように並んでいた。

 その肩を抱くようにして寄り添っているのが、ハニーだ。

 彼女は、街の光をすべて吸い込んだような極彩色のドレスを纏い、キャンディを転がしながら笑っている。

「ほら、見て。このチャートの形は、新しい時代の幕開けを予兆しているの。あなたが親御さんから受け継いだあの十億も、今はただの『蛹』の状態。明日には輝かしい蝶となって戻ってくるわ」

「蝶……。ああ、蝶だ。俺の十億は、蝶になるんだ……」

 佐藤の瞳は、ハニーの能力『脳内補完シュガー・コート』によって虹色に濁っていた。

 現実には、彼の口座残高はすでにマイナスに近い。だが、ハニーの囁きを耳に受けている間だけ、彼は絶望から解放され、選ばれし勇者になれるのだ。

「悪いがハニー、その男がさなぎなら、中身はとっくに腐ってるぜ」

 俺の声に、ハニーがゆっくりと振り返った。彼女は面倒そうに前髪をかき上げ、俺を上から下まで値踏みする。

「あら。また来たのね、野良犬のスナイパーさん。……相変わらず、そのコート、ゴミ捨て場の保護色みたいで素敵よ?」

「フン、褒め言葉として受け取っておく。だが、そのキャンディは早めに噛み砕いておけ。虫歯になる前に現実を見せてやる」

 俺は一歩前へ出た。

 佐藤の胸元を見る。そこには、肥大化した痛点が脈打っていた。

 ただの『無職』という事実を認められないがゆえに、自分を『投資家』という幻想で塗り固めた末路だ。その痛点は今にも破裂しそうで、酷く不格好だった。

「佐藤、お前。その十億を使い切った本当の理由はなんだ?」

 俺は右手の親指と中指を重ねた。指先から熱が伝わっていく。

 

「『時代の先を読みすぎた』? 笑わせるな。お前はただ、スマホ一台で世界を支配できるフリをして、自分に嘘をつき続けただけだ。……お前が本当に求めていたのは、成功じゃない」

 佐藤の体がびくりと跳ねた。ハニーが焦ったように彼の耳を塞ごうとする。

「言わせないわ! 彼は今、幸せなのよ!」

「幸せ? 違う。……こいつが求めていたのは、『働かなくていい正当な理由』だ。……図星ジャックポットだろ?」

 俺は、指を力強く弾いた。

 ――スナップ(撃)。

 一瞬、部屋の彩度が消失した。

 佐藤の背後に、巨大な、そして無慈悲なスロットマシーンの残像が浮上する。

 リールが高速で回転し、真っ赤な数字が三つ並んだ。

 【無】【職】【確定】

「――が、あああああああ!!」

 佐藤の鳩尾を、目に見えない衝撃波が直撃した。

 彼はソファーから跳ね起き、まるで重力の向きが変わったかのように後方の壁へと吹き飛んだ。

 壁に掛かっていた「真実を愛せ」という金文字の額縁を頭で割り、彼はリビングの端でエビのように丸まった。

「……あ、ああ……。俺は、俺は……本当は、履歴書の書き方がわからなくて……ハロワに行くのが怖かっただけなんだ……!」

 佐藤が、鼻水を垂らしながら子供のように泣き叫ぶ。

 ハニーはそれを見て、ひどく不快そうにキャンディを吐き出した。

「……あーあ。不味くなっちゃった。せっかくいい夢を見ていたのに、あなたの『真実』って、本当にデリカシーがないわね」

 彼女は夜の闇に溶けるようにして、ベランダから消えていった。

 残されたのは、泣きじゃくる無職の男と、静まり返ったリビング。

 俺は、震える佐藤の背中を冷たく見下ろし、シガレットチョコの最後の一片を噛み砕いた。

 

「……JACKPOT(大当たり)だ。……安心しろ、現実はいつだって最悪だ。だが、少なくとも嘘よりは地に足がついてる」

 決まった。

 俺はトレンチコートをバサリと翻し、誰に見られることもなく、エレベーターへと向かった。

 背中を向けているからわからないが、俺の顔には「してやったり」という満足げな笑みが浮かんでいたはずだ。

 ――だが、俺は忘れていた。

 本当の地獄は、この後の『朝』に待っているのだということを。


 夜が明け、街から嘘の化粧が剥がれ落ちる。

 俺の主戦場は、夜のタワーマンションから、路地裏の片隅にある喫茶『ジャックポット』へと移る。

 カランコロン、と乾いたドアベルの音が響く。

 店内に漂うのは、安物の豆を丁寧に挽いた、どこか懐かしいコーヒーの香りだ。俺はカウンターの隅、いつもの定位置に腰を下ろした。

「……フン。昨夜の佐藤、今頃はハローワークの門門の前で震えてやがるだろうよ」

 俺は誰に聞かせるでもなく独りモノローグを溢した。

 トレンチコートを脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける。これでようやく、俺というハードボイルドな舞台装置を一旦休止させることができる。

「ゼンさん! おはようございます!」

 カウンターの向こう側から、弾けるような声が飛んできた。

 看板娘のミチルだ。彼女が通るだけで、店内の埃っぽい空気が浄化されていくような錯覚に陥る。彼女は盆に載せたモーニングセットを、俺の前に軽やかに置いた。

「お疲れ様です、ゼンさん。昨日の夜もお仕事だったんですか?」

「……まあな。この街の垢を一つ、洗い流してきたところだ」

 俺はカップを手に取り、コーヒーの表面に浮かぶ自分の顔を見つめた。

 クマの浮いた目、無精髭。だが、その瞳には仕事を終えた男特有の鋭い光が宿っている――はずだった。

「わあ、やっぱり! ゼンさんって、本当にストイックですよね。……あ!」

 ミチルが、俺の胸元を見て声を上げた。

 その瞳が、キラキラと純粋な好奇心で輝き始める。

「そのTシャツ! 素敵です! 昨日の夜の決意が形になったみたい!」

 俺は一瞬、心臓が止まるかと思った。

 しまった。コートを脱いだことを失念していた。

 俺が今日、勝負服として選んでいたのは、昨日ドン・キホーテのワゴンセールで手に入れた一品。胸元には太い明朝体で、こうプリントされている。

『本気出すのは明日から』

 俺は反射的に、コーヒーを吹き出しそうになるのを喉元で止めた。

 違う。これは、逆説的な美学だ。あえて「明日から」と宣言することで、今日という日の重みを――。

「ゼンさん、自分を追い込まないそのスタイル、とっても現代的だと思います! 私、なんだか元気をもらっちゃいました。無理して『本気』を出さなくても、ゼンさんはゼンさんのままでいいんだよ、ってTシャツが言ってるみたいで……!」

 ミチルの眼差しは、一点の曇りもなく、俺を直視していた。

 彼女の目には、俺を嘲笑う意図も、憐れむ色も、一欠片も存在しない。ただ、剥き出しの、凶器のような「善意の肯定」があるだけだった。

 その瞬間、俺の脳内に警報が鳴り響いた。

 視界が白黒に反転する。だが、今回のターゲットは俺自身だ。

 俺の胸の奥底、分厚いトレンチコートと、スカした独白で守り固めていた『痛点』が、ミチルの笑顔によって無防備に曝け出される。

「……あ、が……」

 脳内のリールが、目にも止まらぬ速さで回転を始める。

 

 【ダ】【サ】【い】

 図柄が揃った。

「――JACKPOT!!」

 俺は心の中で、自分自身の決め台詞を叫んだ。

 目に見えない衝撃波が、俺の自尊心を木っ端微塵に粉砕する。

 椅子から転げ落ちそうになるのを必死に堪え、俺は真っ赤になった顔を隠すように、冷めかけたコーヒーを無理やり喉に流し込んだ。

「……ふん。……気づいたか。……これは、一種の、デコンストラクション(脱構築)だ」

「でこんすとらく……? よくわからないですけど、ゼンさんって本当にお洒落ですね!」

 ミチルが屈託なく笑いながら、隣のテーブルを拭きに去っていく。

 残されたのは、指先まで震え、額から嫌な汗を流している「痛点狙撃手」だけだった。

「……ハニー。お前の甘い嘘の方が……よっぽど、慈悲があったぜ……」

 俺はカウンターに突っ伏した。

 トレンチコートにくるまって眠りにつくまでの間、俺の脳内ではミチルの「素敵です!」という言葉が、最強の弾丸となってリピートし続けていた。

 街は今日も嘘で溢れている。

 だが、俺を最も深く撃ち抜くのは、いつだってこの残酷なまでに真っ白な、真実の光だった。


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