第5話① もし……(愛花)
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ドンッ――。
机を叩いた音が、まだ耳に残っている。
落ち着かせようと湯呑みに手を伸ばそうとするが、いつもの場所にはなかった。
そうだ倒れた後、転がって落ちたんだ。
テーブルにはお茶が広がっていた。
端の方は渇き始めていて、緑の染みになっている。
目を閉じれば和朗の涙。
つつと頬を伝って落ちていった。
私はなんてことをしてしまったんだろう。
もう取り返しのつかない状況なのはわかっている。
どうにかならないか、手がかりがないかと目線を泳がせるが、そんな都合のよいものはなかった。
「今夜はホテルに泊まる。明日、弁護士を入れる」
それだけ言い、私を見ずに出ていった。
玄関のドアが閉まる。
金具の噛み合う音が一度短く響いて、部屋はひどく広くなった。
力が入らなかった。
呼吸が浅い。
唇が震えていた。
それだけではない、全身が震えていた。
寒気を感じ、ぶるっと身体が震える。
寒い。
ひどく寒い。
二の腕を握りしめると爪が皮膚に食い込む。
下を向くと涙が溢れてきた。
椅子に座ったまま動けなかった。
時計の針だけが、規則正しく音を刻んでいる。
(弁護士……離婚……本当に、終わるんだ)
頭では理解しても、心は追いつかなかった。
数時間前までは、いつもと同じだったのに。
ご飯を食べて、「味どうかな」なんて他愛もない会話をしていたのに。
さっきどんな話をしていたか。
思い出そうとしても、はっきり出てこない。
私の言い訳に冷たく返された。
どれもが真っ当なものだった。
一つ一つ思い出して、唇を噛んだ。
「ごめんなさい……」
声に出した瞬間、情けなくなった。
反射で出た言葉にどんな価値があるのだろうか。
和朗にはちゃんと謝れていない。
謝るくらいなら最初からしなければいい。
もっともだ。
けれど、言い訳を探してしまう。
言い訳すれば和朗は受け入れてくれるんじゃないか?
あるはずのない希望に縋りつきたくなる。
「寂し……」
また同じ言葉が出そうになった。
それがどれほど愚かな言葉か、分かっているのに。
あの日、偶然の出会い。
LINEのやり取り。
ランチ。
褒め言葉。
自転車の音と、引き寄せられた腕。
思い返せば、お手本のように流され、深みにはまっていった。
「でも、本当に欲しかったのは……」
誰もいない部屋に呟いた。
和朗に届かないことは分かっている。
届いたとしても、もう何の意味もないことも。
ふと視界の端に湯呑みが映った。
壁際の湯呑み。
あんなところまで転がっていた。
顔を上げると明るい。
いつの間にか夜が明けていた。
テーブルに広がったお茶はすっかり乾いて、緑の染みになっている。
指で触ると、ざらっとして指先に緑の粉が付いた。
綺麗にしなきゃ。
これを片付けたら和朗は帰ってくるだろうか。
布巾は……と立ち上がろうとするが、身体が強張って動かない。
動かすと関節が軋む音がして痛みが襲ってくる。
キッチンにはまだ洗っていない食器。
時間が止まったままだった。
リネンの引き出しを開けて新しい布巾を出した。
カウンター越しに部屋を見るが和朗の姿はない。
日常はそのままなのに、そこには幻しかない。
茶染みは布巾で拭き取ってもうっすらと染みが残った。
私がしたことも、同じだ。
(戻れない)
戻れないんだ。
落ちていた湯呑みを手にすると、また音がする。
考えると力が抜けて、床に座り込んでしまう。
けれど、思考は止まらない。
もし、あの時、断っていたら。
もし……、もし……、もし……。
――全部、もし、ばかり。
今も未来も一つも動かないのに、過去ばかりをなぞっている。
無意味だと分かっていても、止まらない。
部屋に残っているのは、私のため息と、消えない染み。
和朗はいない。
湯呑みをよく見ると、大きく縦にヒビが入っている。
涙が止まらない。
湯呑みを抱きしめて、声を上げて泣いた。
玄関に和朗の靴はない。
寝室にもいない。
布団は綺麗に整っていて、和朗が寝た痕跡もない。
リビングの椅子も、彼の席だけが妙に空虚に見える。
「本当に……いないんだ」
独り言は掠れ声だった。
(嫌だ)
別れたくない。
和朗と一緒にいたい。
ホントなの。
でもどんどん部屋の色が薄くなっていく。
「ただ認めてほしかっただけなのに……」
「間違っただけなのに、どうしてこんな……」
言葉を重ねれば重ねるほど、薄っぺらい。
けれど黙ってしまえば、押し潰されそうで、声に出すしかなかった。
自分が悪いと分かっていても、誰かに押し付けたかった。
その時、低い振動音が響いた。




