第4話 誠実さ
テーブルの上に置かれたスマホの画面。
そこに映るのは、肩を寄せ合ってホテルへ消えていく愛花と──桐嶋。
愛花は沈黙を続けている。
椅子に座り込んだまま固まっていた。
両手を膝に置き、指先が小刻みに震えている。
俺は低く問いかけた。
「……いつからだ」
愛花は顔を上げられずに押し黙る。
「答えろ」
声が自然と冷たくなった。
「……ごめんなさい」
掠れた声で漏れたのは、それだけ。
俺は目を細め、静かに吐き捨てた。
「謝るなら、最初からしなければいいだろ」
愛花は顔を覆い、震える息を漏らした。
「……本当に……ごめんなさい」
「それしか言えないのか」
俺の声は淡々としていた。
だが内心は、胸の奥に鉛を流し込まれたように重く沈んでいた。
「どうしてだ」
「……」
「俺じゃなくて、あいつじゃなきゃならなかった理由は、何だ」
愛花は唇を噛み、ようやく声を絞り出す。
「……寂しかったから」
心臓を素手で握り潰されたような感覚だった。
俺は深く目を閉じ、一呼吸置いてから答える。
「寂しいから……他の男にいくのか?」
「ち、違う……違うの!」
愛花は慌てて首を振り、涙を零した。
「そんなつもりじゃなかった。本当に……!」
「じゃあどういうつもりだった」
「……」
「言ってみろ」
愛花は視線を落とし、唇を震わせるだけ。
言葉は続かなかった。
俺は深く息を吸い、押し殺した声で告げる。
「……お前は、俺が信じていたものを全部壊した」
愛花は泣きながら必死に首を振った。
「違うの……私はあなたを愛してる。愛してるのよ」
「愛してる?」
冷ややかに繰り返す。
「……なら、この写真はなんだ?」
愛花はテーブルの上のスマホを見て、顔を覆った。
嗚咽が漏れた。
俺は背を伸ばし、テーブルに両肘を置いた。
「座っていろ。まだ話は終わってない」
愛花はうなずきもせず、ただ涙を落とし続けていた。
部屋の空気は張り詰め、時計の音すら耳障りに響いていた。
「……本気じゃなかったの」
愛花は顔を覆ったまま、搾り出すように言った。
「遊びでもない……でも、本気でもないの。ただ……あなたが好きなの。本当に」
「好きなのは俺?」
俺は静かに繰り返す。
「……好きでもない男と寝るのか?」
「ち、違う……違うのよ!」
愛花は慌てて首を振った。
「あなたを傷つけるつもりなんて、本当に……!」
「傷つけるつもりはなかった?」
声が自然と低くなる。
「俺の顔が浮かばなかったのか?」
「やめて……!」
愛花は耳を塞ぐように頭を抱えた。
「そんなつもりじゃなかった……どうかしてたの。私、本当に……」
俺はゆっくり息を吐いた。
「……そうだな。俺もどうかしてたんだろうな」
「え……」
「こんな女に惚れて、信じて、生涯を預けようと思った俺がな」
愛花の瞳が大きく揺れた。
「……ちがう、違うの。私はあなたが必要なの」
「必要?」
「そうよ。あなたがいなきゃ生きていけないの。あなたとじゃなきゃ嫌なの!」
「へえ」
俺は短く返した。
「じゃあ、なんで桐嶋なんだ」
愛花は言葉を失った。
唇を開きかけては閉じ、視線を落とす。
「俺は……」
静かに言葉を紡ぐ。
「俺の知ってる人間に、お前を抱かせるために毎日残業してたのか?」
「そ、そんなこと考えてない! 本当に……違うの……」
「じゃあ何だ。答えてみろ」
「……」
愛花はただ泣きじゃくるだけだった。
俺はテーブルに置いたスマホを指で軽く叩いた。
そこに映る笑顔。
「ここに全部、答えがある」
愛花は涙で顔を歪めながら、必死に言葉を探した。
「私は……あなたと子どもが欲しかったの。ずっと。でも、怖かったの」
「……」
「できなかったらどうしようって。不安で……女として見てもらえてないんじゃないかって……」
声が震え、嗚咽が混じる。
それでも必死に言葉を並べる姿に、胸の奥に冷たい重さが積もっていった。
「それで、逃げ場に桐嶋を選んだってわけか」
淡々と返す。
「……言い訳にすらなってない」
愛花はテーブルに額をつけるようにして泣き崩れた。
愛花は嗚咽を漏らしながら顔を覆っていた。
やがて、震える声で言葉を吐き出す。
「……最初は、ほんの軽い気持ちだったの。偶然会って……話して……」
「……」
「でも……褒められて、笑わせてもらって……あなたにはもう言ってもらえない言葉を、聞いてしまって……」
俺は黙っていた。
心臓の奥に氷の針を一本一本刺されるような感覚が広がっていく。
「昼に……食事をしたあと、歩いていたら……自転車が飛び込んできそうになって……」
愛花の声は途切れ途切れだった。
「彼が、私を抱き寄せて……守ってくれたの。それが……もう、どうしようもなくて……」
目を覆う手の隙間から、涙が零れ落ちてテーブルに落ちた。
「……そのまま、流されるように……ホテルに入って……気づいたら……」
愛花は震える唇で最後の言葉を吐き出した。
「裏切ってたの」
俺は拳を握りしめた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ドンッ――。
力任せに机を叩いた。
湯呑みが倒れ、冷めた茶が広がる。
視界が滲み、熱いものが頬を伝った。
「……俺は」
声が震える。
「お前と未来を作るために、必死で働いてた。子どもが欲しいって願って、全部をかけてた」
愛花は顔を上げ、涙で濡れた目で俺を見た。
「違うの……私だって、本当は……!」
「黙れ」
冷たい声で遮った。
「俺が欲しかったのは言い訳じゃない。誠実さだ。……それを一度でも裏切った時点で……」
愛花は崩れるように椅子に沈み、声にならない嗚咽を洩らした。
俺は涙も拭えない。
歯を食いしばって、言葉を噛み殺す。
見上げた照明がやけに眩しかった。




