第3話 沈黙
「ごちそうさま」
力なく置いた箸が小さく音を立てた。
はっきりと愛花の不貞が分かって以来、味なんてしなかった。
愛花は、いつも通り。
優しくたおやかに微笑んでいる。
「ちょっと味濃かったかな」
「ん?」
「うん。肉じゃが残ったから濃かったかな?って」
「……いや、ちょうどいいよ。疲れてるのかな……」
もっと動揺するかと思ってたから、自分の優しい声色に驚いた。
「あら。あとはゆっくりしててね」
肉じゃがが残っているのも気にならなかった。
それにしても、疲れてる……か。
最近は残業もできる限り抑えてきた。
一緒にとる夕食に愛花は、嬉しそうな雰囲気で笑顔を作っている。
愛花はいつから?
俺が放っておいたから?
たらればに何の意味もないのに囚われてしまう。
証拠はあがってる。
それでも嘘をついてほしくなかった。
例え嘘でも、それを信じられればまだ……。
緑茶を少し口に含んで、切り出した。
「……今日は、出かけてた?」
愛花は一瞬、ほんの一瞬、箸を止めた。
そしてゆっくり俺を見る。
「ううん。家にいたよ」
柔らかい笑顔。
少しだけ首を傾げて、わざと軽い口調で言ったように見える。
頭の中で箸をへし折った。
ゆっくりと湯呑みを置き、視線を落とす。
テーブルクロスの花柄がやけに鮮明に見える。
目を閉じれば、興信所の写真が瞼に浮かぶ。
ホテルへ入っていく彼女の姿。
隣には桐嶋。
今日も会っていたと報告は受けていた。
深く息を吐く。
「……そうか」
「……お前を、見かけたって……聞いたんだ」
愛花の笑顔が固まり、空気が変わった。
時計の音が、やけに大きく響く。
「え……? どういうこと?」
かすれた声。
笑顔を取り繕おうとするが、目が泳いでいる。
俺は答えなかった。
ただ、じっと視線を向けたまま沈黙を続けた。
愛花の呼吸が荒くなっていくのが分かる。
やがて、彼女は笑顔を消し、視線を逸らした。
何も言わない。
いや言えないのだろう、すでに答えはでている。
手を伸ばし、ポケットからスマホを取り出す。
指先が震えていた。
画面を開き、興信所から送られてきた写真を呼び出す。
テーブルに置いて愛花に向けた。
「っ」小さく息を飲むと顔から血の気が引いていく。
写真には、肩を寄せ合ってホテルへ入る愛花と、桐嶋の姿が映っている。
お気に入りと言っていた服装。
ごまかしようのない決定的な証拠。
愛花は震える唇で口を開いた。
「……これ、どうして……」
かすれた声。
逃げ出そうとしたのか、愛花は椅子から立ち上がりかけた。
「座れ」
俺は低く、短く言った。
愛花の動きが止まる。
視線を逸らしたまま、膝が力なく折れた。
再び腰を下ろすと、沈黙が部屋を満たした。
時計の針の音だけが響いていた。
愛花は俯いたまま、両手を膝の上で握りしめている。
手の色が変わるくらい強く、そして全身も小刻みに震えている。
俺は言葉を発さなかった。
ただ黙って、テーブルの上のスマホに視線を落とした。
画面にはあの写真。
笑顔で男と並ぶ愛花の姿が、光を反射して冷たく浮かび上がっている。
「……これは……」
愛花が掠れた声を出す。
「……ただの、偶然……で……」
最後まで言い切ることはできなかった。
自分でも、言い訳だと分かっているのだろう。
俺は表情を変えず、ただ視線を愛花に向ける。
愛花は口を開いては閉じ、何度も呼吸を整えようとする。
「ねえ……あの……」
言葉を探すように、膝の上で指を絡める。
「私……」
また沈黙。
俺はゆっくりと湯呑みに手を伸ばし、冷めたお茶を口に含んだ。
喉を通る液体は味がしなかった。
「……いつから知ってたの?」
愛花が小さな声で聞いた。
ため息しか出ない。
認めた……のか?
「……」
俺は答えなかった。
答える必要がなかった。
愛花は俯き、肩を震わせている。
目の前の光景は、どこか他人事のように見えた。
長年一緒に過ごしてきたはずなのに。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声。
怒りも悲しみも湧かなかった。
ただ、心だけが底の無いどこかに沈んでいくようだった。
「……俺は」
声を出した瞬間、喉がひどく乾いているのに気づいた。
愛花は顔を上げなかった。
ただ、両手を握りしめたまま、小刻みに揺れていた。
部屋の空気は重く、時計の音が規則正しく響いている。
テーブルを挟んで向かい合う俺と愛花。
沈黙は、言葉で罵るよりも棘を含んでいた。
次の言葉を投げれば、もう後戻りはできない。
分かっていても言わなければいけない。
俺は深く息を吸った。
荒くなりそうな喉元を整えて言葉を出す。
「……信じてたんだ」
愛花は俯いたまま固まっている。
また重い沈黙が流れる。
寒い。
時計の秒針が一つ進むたびに、身体が冷えていく。
「仕事で遅くなる俺を、いつも支えてくれてると思ってた」
「……」
「笑顔で送り出してくれてると、本気で信じてた」
愛花の肩がわずかに震えた。
俯いた顔のまま、絞り出すように言葉を漏らす。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
謝罪の言葉が出るが、もう遅い。
バレてからの謝罪に何の価値があるのだろう。
まずは謝ればいいと思っているのか。
その言葉で何か取り返せるとでも思っているのか。
「……どうしてだ」
俺の声は自分でも驚くほど低かった。
「どうして……俺じゃなくて、あいつなんだ」
声が震える。
「わ、私……さびしくて」
愛花は小さい声で答えた。
肩を震わせ、視線を落としたまま。
こみ上げるものを抑えきれなかった。
ドンッ――。
机を叩く音が部屋に響く。
湯呑みが揺れ、冷めた緑茶がわずかにこぼれた。
視界が滲む。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「お前は……!」
声が掠れて途切れた。
怒鳴ることはできなかった。
ただ、悔しかった。
一つ涙が溢れ出すと止まらなかった。
頬を雫が流れる。
愛花は顔を上げる。
青ざめた表情で、唇が震わせるだけだった。
「違うの……」
「……じゃあ、お前は誰と妊活していたんだ?」
「あっ」
俺たちの未来は?
どうやって二人の未来を築いていくんだ?
こんな状況になってどうやって。




