第12話① 本物と(愛花)
今回は2話投稿します
(ああ)
予約の名前を見た瞬間、頭が真っ白になった。
鈴木でも、佐藤でも、田中でもない。
指先が震えてスマホが滑り落ちる。
ゴトンと音を立てたが、拾う気が起きなかった。
あれは偶然だと思いたかった。
もう会うこともないと思っていた。
『赤塚』
あの赤塚君か?
実際に会うまでは分からないとはいえ、赤塚君としか思えなくなっていた。
前回、ほとんど会話もなかった。
触れたのは手だけ、最後抱きしめられたけどあってないようなものだ。
右手の感触がまざまざと甦って熱くなる。
大きく深呼吸をして冷静になれと念じる。
せめて、今度は楽しんでもらわないと……。
落ちたスマホを拾い上げて、割れていないことにホッと息を吐いた。
◆ ◆ ◆
チャイムを鳴らすと、しばらくして部屋のドアが薄く開いた。
恐る恐る入る。
出迎えたのは、やはり――赤塚君だった。
「……先輩」
真剣な眼差しで見つめている。
一瞬、喉が詰まった。
頭の中で「よし」と喝を入れて笑顔を作る。
「……呼んでくれてありがとう」
これが精一杯。
前回ほどの衝撃はなかった。
しかし、頭の中はほとんど真っ白で、何も言葉が思い浮かばない。
赤塚君はスタイリッシュなラインのブラウンのスーツ、チェックのネクタイがよく似合っている。
好青年っぷりは変わりがない。
そういえば前回は服装を見る余裕もなかった。
ソファに腰を下ろす。
赤塚君は落ち着いた仕草で隣に座った。
バッグが入るくらいの間が空いている。
今回も安易に触れるつもりはないようで、ただ視線だけが、まっすぐだった。
「先輩……」
「?」
「俺のところにきませんか?」
「えっ?」
「昼の仕事をしませんか? 俺が紹介します」
「そんな」
「無理にとはいいません」
「……どうして」
思わず口にすると、彼はほんの一瞬だけ息を整えてから言った。
「俺、本当はずっと……先輩に憧れていました」
世界が止まった気がした。
冗談でも、同情でもない。
彼の眼差しは揺れていなかった。
「明るくて優しくて、小谷さんという素敵な旦那さんがいて」
「……」
「憧れていたんです」
過去形。
「偶然知って、がっかりしました。でも、会ってみたら違う」
「助ける……なんてえらそうなことは言えません」
頬が熱くなる。
指先が震える。
羞恥と戸惑いと、どうしようもない嬉しさが胸に入り乱れる。
「でも……私なんか……」
言葉を紡ごうとすると、彼は首を横に振った。
「ううん。過去がどうとかじゃないです。俺は今の先輩がいい……力になりたいんだ」
息が止まった。
「そんなんじゃないの」
経緯をすべて話した。
ためらいながら、詰まりながら。
赤塚君は黙って聞いてくれる。
眼差しは真剣で、優しい。
「だから、私は流されてるの、きっとだめ」
続けて彼は、少しだけ笑って右手を握った。
熱い手の温度に思わずびくっとなる。
しばらく見つめあった後、彼は深く息を吐いた。
「愛花さんをもっと知りたい」
「……え?」
頭が追いつかなかった。
心がぐちゃぐちゃになる。
でも、彼の声は真剣で、ふざけた響きは一つもなかった。
「もちろん、無理にとは言わない。ただ……ここにいる先輩を見るのは、俺には辛いんだ」
「……あなたの笑顔が欲しい」
俯いたまま、息を呑んだ。
温かいものが溢れそうになるが、それを認めたら全部が壊れそうで。
(……どうすればいいの)
心臓は痛いくらいに脈打っているのに、声が出なかった。
ただ、赤塚君の真っ直ぐな瞳を前にして、こぼれそうになるのを必死に堪えていた。
今回も赤塚君とは話をしただけだった。
最後に連絡先を渡される。
前回のことがよぎったが、抱きしめられることはなく、ただ悲しそうな表情が記憶に残った。
帰り道、遠くでクラクションが鳴っている。
街灯の光がモザイクのように揺れて、私の影も揺れている。
上を見ると半月。
周囲に星もなく、月が一つだけ光っていた。
自宅に帰っても震えは止まらない。
抑え込むように膝を抱えて座り込んだ。
彼の言葉が何度も何度も反芻する。
まるで夢みたいだった。
不倫で全てを壊して、風俗まで落ちて、それでも――。
事情を知っても、求めてくれる人がいるなんて。
(……本当に? 本当に、私なんかでいいの?)
自嘲が込み上げる。
不倫で夫を裏切り、家庭を失った女。
客の求めるままに身体を開いて、笑顔を貼り付けてきた。
現状と提示されたものが噛み合わない。
汚れてるのに……。
涙がじわりと滲み頬を伝った。
慌てて手で拭う。
でも、止まらなかった。
翌日。
身支度を整えながら鏡を見る。
化粧ののりがよくないからか、目の奥に陰りが見え隠れしている。
衣装を手に取って合わせても、なんかしっくりこない。
不安も吐き気もない。
それはいいことなのか?
(……赤塚君)
思い出すと顔から火が出そうだった。
恥ずかしさと悔しさと、どうしようもない惨めさがごちゃ混ぜになった。
誘われるまま進んだら、赤塚君までを汚してしまうようで悔しかった。
「どうして……どうして、あのとき止まれなかったの」
呟いた声が鏡の私に問いかける。
真一との不倫はなくならないのだ。
今日も仕事が終わり、街を歩く。
(赤塚君を頼ったら?)
過去を全部知っていて、それでも受け入れるって言ってくれた。
でも、頼ったら、そしてまた裏切ったら――私は。
一番信じられないのは自分なのだ。
「……怖い」
小さな声が漏れる。
手のひらが汗でじっとりと湿っていた。
布団に横になっても眠れなかった。
閉じた瞼の裏に、和朗の顔が浮かぶ。
机を叩いて、涙を流したあの夜。
あの瞬間の表情は、今でも焼き付いて離れない。
「……あんなふうに泣かせて、赤塚君も泣かせるの?」
声が震えた。
もう二度と誰かを裏切りたくない。
でも、このまま夜の仕事を続ければ、もっと壊れそうだ。
(赤塚君の手を取ったら)
答えは出なかったが、変わりたかった。
手にした標を消したくなかった。
「……頼ってみよう」
ぽつりと呟くと眩暈がした。
まだ怖い。
けれど、前に進みたい気持ちが勝っている。
スマホを手に赤塚君の表示をタップした。




