第10話 引継ぎ
今年の初夏も暑い。
取引先に向かう道中では、上着を脱いだサラリーマンの姿も散見されていた。
同行者は三人。
自分を先頭で、半歩後ろに異動する三浦。
少し間を空けて西野と、新任の佐伯が続いている。
立ち位置と距離は、そのまま自分たちの関係性に見えた。
三人を確認する。
服装や髪型、メイクなど、ざっと見るが違和感はない。
「身だしなみは……大丈夫だな」
小さく呟いて頷くと、気が付いた三浦が頷き返した。
ビルのエントランスを抜けると、ガラスに映る自分たちの並びが目に入る。
受付を済ませると、会議室へ案内される。
すでに的矢次長とプロジェクトを回している二人、佐藤と笠井が席に着いていた。
三人が立ち上がって出迎えてくれる。
「本日はお時間ありがとうございます」
頭を下げる。
続く三浦たちも動作が揃う。
三浦と西野は、何度も通っていて、もうこの場に慣れている。
「こちらこそ。今日は引継ぎと伺っております。よろしくお願いいたします」
的矢が穏やかに返す。
視線が一瞬、三浦に向き、それから佐伯へ移る。
「はい。三浦が九月付で異動になります。後任はこちらの佐伯です。本日は顔合わせを兼ねてご挨拶から――では、佐伯」
佐伯が一歩前に出る。
「佐伯です。どうぞよろしくお願いいたします」
少し高めの声で名乗った。
緊張が背筋に出ている。
西野は軽く会釈し、控えめに名乗った。
名刺交換をして席に落ち着く。
「三浦さんには、ずいぶん助けてもらいました」
佐藤が言う。
惜しいなと顔に書いてある。
「いえ、こちらこそ勉強させていただきました」
三浦はいい声で笑う。
思わずつられ笑いをしそうになった。
視界の端に佐伯が目に入る。
緊張をほぐすためか資料を念入りに整えている。
「今後は西野と佐伯が中心になりますが、当面は私も同席します。移行期間は三浦もフォローに入ります」
「承知しました。密に共有して頂けると助かります」
的矢のこちらの出方を測るように承諾した。
「進行管理は、これまで通り週次で。修正点はその都度」
「はい。まずは現行案件のスケジュールを確認させてください」
佐伯が口を開く。
三浦がうなずき、資料を配った。
ペラと紙をめくる音が続く。
「ではよろしいでしょうか。現状、来月頭が山です。こちらで一次案をまとめ、御社にご確認いただく流れです」
「了解です。では、そのタイミングで、全体会をお願いいたします」
会話がテンポよく進むのを見て、ふぅと小さい息を吐く。
横で聞きながら、机上の資料から的矢へと視線を移す。
すると、的矢と視線が合う。
「小谷さん、最近はお忙しいのでは?」
「ええ、おかげさまで」
短く返す。
以前、的矢から四季谷を紹介されていた。
当時は女性不信が進んでいて、余計なおせっかいを、としか思えなかった。
しかし、話してみれば思いのほか、新鮮で――気持ちも随分と変わったものだ。
あの、おせっかい焼きよろしく切り出してきたとき。
似たような声色だとぼんやり気付く。
「この辺りも再開発が進みましてね。前にご案内した店も、少し様子が変わりました」
「そうなんですね」
あのイタリアンかな?
改装でもしたのだろうか?
舞い散る桜に気が付いたのは、景色が分かるようになったのはあの夜からだった。
思考が思い出に移りそうになったのを戻す。
佐伯がこちらを見る。
何かを測る目ではなく、ただ反応を伺っているようだ。
「三浦さん、異動先はどちらへ?」
「海外支店へ。環境は変わりますが、やることは似ています。御社に育ててもらったようなものなのに申し訳ありません」
「こちらこそ笠井を育てて頂きました、三浦さんには感謝ばかりです。小谷さんも頼もしかったことでしょう」
笠井が照れたように笑う。
引継ぎの顔合わせは予定通りにまとまった。
最後に今後の連絡窓口を確認し、佐伯は名刺をしまい込む。
的矢たちも佐伯の名刺をしまうと、笠井がドアを開けるために移動した。
一斉に立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が重なる。
「改めまして、よろしくお願いいたします」
的矢が手を差し出す。
「こちらこそ」
厚い手だ。
厚く熱い。
握手だけでも、的矢の個性が滲みている。
会議室を出る前、的矢が小声で言った。
「何かあれば、直接ご連絡ください」
「ありがとうございます」
四季谷のことかな?
廊下に出ると、三浦が小さく息を吐いた。
「無事、終わりましたね」
「ああ。ここからだ」
自分の声が思いのほか低い。
佐藤がエレベーターを開けて待っていた。
エレベーターの表示灯がゆっくり降りてくる。
佐伯は手帳に何かを書き込んでいる。
西野は静かにその横に立って様子を見ている。
これから進むプロジェクトは彼女たちが動かしていく。
無粋なアドバイスは不要だ。
顎を撫でて、頷いた。
会議室の扉が閉まるのを見届ける。
胸に残ったわずかな不安を押し込め、的矢の後に続く。
エレベーターを降りると、エントランスには明るい日差しが差し込んでいる。
最後の挨拶に振り返ろうとすると、背後から声がかかった。
「小谷さん、少しお時間よろしいですか」
的矢が廊下の奥を示した。
「ええ」
「じゃ、みんな的矢さんと話があるから先に帰ってくれ」
三浦達を帰らせ、的矢に歩幅を合わせる。
小さめの応接室に通される。
ドアが閉まる音が、さきほどより近い。
「引継ぎ、滞りなく進みそうですね」
「的矢さんと、皆さんのおかげです」
向かいに腰を下ろす。
「今日は、それとは別で」
的矢はゆっくり呼吸をして、穏やかな表情になる。
「お引き留めして話すことではないかとは思うのですが、どうも機械的なメッセージでは違う気がしまして」
「四季谷のことなんですが」
わずかに肩に力が入る。
「最近、社内での評価が上がっていましてね」
的矢は続ける。
「案件を任せると、きちんと形にしてくる。以前よりも踏み込みが強くなりました」
「そうですか」
「紹介した頃は、どこか遠慮がちでしたが、今は違います。自分から案を出すし、押し切ることもある」
その様子が目に浮かぶ。
資料に書き込むペン。
言葉を探しながら話す横顔。
きっとエネルギーの溢れる表情をしているのだろう。
「小谷さんとお会いしてから、変わったように見えます」
すぐに否定も肯定もしない、
ただ曖昧に頷いた。
「本人は多くを語りませんが、表情が違う。仕事に向かう顔が、前よりも真っ直ぐだ」
「そう感じられるなら、何よりです」
的矢は小さく笑った。
「直接は聞きませんよ。野暮ですから」
「助かります」
「ただ、感謝は伝えたくて」
少しだけ声を落とす。
「あのとき、紹介してよかったと思っています」
互いに距離を測るような会話。
あれが始まりだった。
最初の大人しめな、相手に合わせそうな印象、今の彼女は表情がよく変わる。
「彼女、来期の新規案件にも手を挙げています。正直、少し無理をしている。まるで何かを必死に追いかけているようだ」
「ええ。無理は……誰でもします」
「でも」
的矢の視線が一瞬こちらに向く。
「今は支えがあるのだろうと」
踏み込まないまま、踏み込んでくる。
「いい刺激を得ている……と。私は想像するのです」
「ええ」
目をつぶって、彼女を思い浮かべる。
仕事の姿というより、目まぐるしく変わる表情が出てくる。
先日、落としそうになったスマホを掴もうとしてアワアワとした姿が思い浮かんだ。
口元をゆるめて軽い息を吐く。
「今後も、彼女をよろしくお願いします」
的矢の誠実な声に目を開く。
「こちらこそ。いえ。私の方がお世話になっています」
視線が合って立ち上がる。
タイミングは自然に重なった。
足取りは軽い。
心なしか靴音も踊っているように聞こえた。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ」
的矢にエントランスまで見送られ、別れの挨拶を交わした。
自動扉を過ぎるともわっとした空気が肌を撫で、強いくらいの日差しにチリチリと焼ける音がする。
カバンの中の携帯がわずかに震えた気がした。
取り出しかけたが、カバンの口を開いて閉じる。
的矢が伝えたか?
最寄り駅まではすぐだ。
けれど味気ない。
一つ隣の駅へ行く途中には桜並木がある。
葉桜というには時期は過ぎたが、桜並木を見たくなった。
「少し……歩くか」




