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誰と妊活してるんだ?――裏切りの果ては  作者: てとてと


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第1話 揺れた心(愛花)

 妊活を始めて、一年が過ぎた。


 最初は希望に満ちていた。

 子どもができたらどんな名前にしようか、どんな部屋を用意しようか。


 夫・和朗と一緒に夢を語り合っていた。


 基礎体温を毎朝測って、排卵日を一緒に確認し合って、薬やサプリも真面目に続けていた。

 検査薬に薄い線が浮かぶ日を思い描くだけで、毎日が少し楽しくて仕方なかった。


 でも、繰り返し陰性が続く。

 洗面所で「またダメか」と小さく漏らすたび、こぼれた吐息が白いタイルに吸い込まれていった。


 ブライダルチェックは正常で、夫婦ともに問題はない。

 授かるのを待つしかなかった。


 和朗は優しい。


「冷えないようにな」


「無理はしなくていい」


 気遣った言葉をくれる。

 それが愛情だと分かっている。


 けれど――夜のことは変わってしまった。


 一番切なくなったのは行為のあと。


 抱きしめてくれなくなった。


 まるで作業のよう。

 余韻を楽しむこともなく終わり、眠ってしまう。

 横を向いて寝息を立てる背中は近いのに、触れれば温かいのに全然温かくならない。


 それが続くと、妊活のための行為はほんとに作業になった。

 愛の温もりよりも、義務感のほうが勝っていく。


「私……愛されてるのかな……」


 そんな言葉が、ふと浮かんでしまう。

 愛しているはずなのに、愛されている確信が持てない。

 そのことが、何よりも寂しかった。


 ――そんなときだった。


 スーパーの前で買い物袋を抱えていたとき、不意に名前を呼ばれた。


「……あれ? 田知花さん?」


 振り返ると、和朗の同期でライバル、桐嶋真一が立っていた。

 何度か会社の飲み会で顔を見たことはある。

 言葉を交わしたのは数えるほど。

 彼はスーツのネクタイを少し緩め、気さくに手を振ってきた。


「あ、こんにちは……桐嶋さん」


 どう返すべきか分からず、思わず会釈を返す。


「重そうだね、その荷物。手伝おうか?」


「いえ、大丈夫です」


 そう言うと、彼は軽く笑った。


「さすが小谷くんの奥さんだな。しっかりしてる」


 何がしっかりしてるのか?

 妙に胸に残った。


 ほんの少しの立ち話だったが、帰宅しても違和感が消えなかった。


 ――二度目の偶然は、その一週間後だった。


 駅前のカフェで休んでいると、ガラス越しに彼がこちらを見つけて手を振った。


「また会ったね!」


 驚いて固まっている私に、彼は気軽に声をかけてくる。


「一人? じゃあ、少しだけご一緒してもいい?」


 断る理由が思いつかず、曖昧に笑って頷いてしまった。


 彼はよく喋る人だった。

 営業職だからか、場の空気を柔らかくするのが上手い。

 軽い冗談で笑わせてくれて、久しぶりに声を出して笑った気がした。


「小谷くん、最近すごく忙しそうだよな。家も大変なんじゃない?」


「ええ、まあ……」


 言葉を濁すと、彼は少し真顔になった。


「でも、田知花さんが支えてくれるなら、あいつは本当に幸せ者だよ」


 よく知りもしない一言だけど、褒められて悪い気はしない。

 最近、和朗から褒められてないなとぼんやり考えた。


 別れ際、彼はさらりと言った。


「LINE、交換しておこうか? 同期の奥さんなら、連絡ついた方が安心でしょ」


 一瞬迷った。

 でも、ただの(・・・)連絡先交換と自分に言い訳して、スマホを出してしまった。


 その夜。


『今日は突然ごめん。困ったことがあったら相談のるよ』


 短いメッセージが届いた。


 三十分ほどスマホを握りしめて迷った末に、指が勝手に動いていた。


『こちらこそ』


 その一文を送っただけで、心臓がドクドクとうるさいほど鳴っていた。


 それからときどき何気ないLINEが届くようになった。


『お疲れさま。今日も暑いね』


『最近、何か楽しみ見つけてる?』


 ほんの短いやり取りが始まった。

 毎回、ちょっとした言葉のやり取りをする。

 だけど、返信を考えている自分がいて、その時間は妙に楽しかった。


 反対に和朗とLINEをするときは、生活の連絡が増えるばかり。


『今日は遅くなるよ』

『牛乳ある?買って帰ろうか?』


 必要な情報だけで、感情のやりとりがない。


 でも……。


『夕焼けきれいだな。見えてる?』


 そんな一言で、外を見ようとベランダに行ってみる。

 真っ赤に染まっている空に夕焼けは綺麗だったんだと、感嘆のため息が出た。


 既読をつけるかどうか迷うのも、いつしか楽しみに変わっていった。


 ――数日後。


『たまには外でランチでもどう? 気分転換になるし』


 スマホを握りしめたまま考え込んだ。

 食事だけなら――大丈夫だろう。


『いいですね』と送信したあと、胸が高鳴っていた。


 待ち合わせたレストランは、駅前の小さなイタリアン。

 彼は先に来ていて、手を挙げて笑った。


「お、来た来た。似合ってるじゃん、そのワンピ」


「えっ……」


 思わず赤くなる。

 和朗は服装をほめない。

 いや、褒めてくれたこともあった。

 いつから聞かなくなったんだろう。


 席に着くと、彼は楽しそうに話し続けてくれた。


「小谷くん、最近ほんと忙しいよな。飲み会も仕事の延長みたいな会話だし。家でも仕事の会話しかしていないんじゃない?」


「ええ……まあ」


 最近はろくに会話もできていない。


「真面目だから切り替え難しいのかな」


「そうかもしれませんね」


「ほっとかれたら寂しいだろ?」


 冗談めかして笑いながらも、視線はまっすぐで、くすぐったい。


 食事を終えて店を出たとき、足取りは軽くなっていた。


「また行こうよ。美味しい店、他にも知ってるから」


「……はい」


 罪悪感よりも、次の約束を楽しみにしている自分に気付いてしまった。


 それから、LINEのやりとりはますます増えた。


「今日はどんな一日だった?」


「写真送るよ、この店のケーキ美味しかった」


 和朗には話さないようなことを、彼には自然に打ち明けられた。

 既読がつくたびに、胸が温かくなった。


 ――何度目かの食事。


 今度は昼食。


『ランチしよう、近くで美味しいところ見つけたんだ』


 断れなかった。


 また?と頭では思っているのに、指先は自然に『行きます』と打ち込んでいた。


 食事中、彼はまた軽口を叩いた。


「君って、笑うと雰囲気変わるよな。」


「そ、そんなこと……」


「ほんとだよ。小谷くんもよくほめるでしょ?」


 グラスを傾けながら、真顔でそう言われたとき、心臓が強く跳ねた。

 和朗は褒めない。

 ははと笑って「ええ」と流した。


 不安になっていた……女としての自分を思い出させる言葉。


 食後、店を出て並んで歩いた。

 駅へ向かう途中、何気ない会話をしていた、そのとき。


「危ない!」


 強く腕を引かれ、気づけば抱きしめられるように引き寄せられていた。

 痛いくらいの力――でも、不思議と嫌じゃなかった。


「ちっ……やろうが」


 低い声をだして、自転車を睨みつける横顔が怖いくらいに真剣で……。

 私なんかのために、こんな顔をするんだ。


「ひったくりかと思った。つい力入っちゃったな。ごめん」


 そう言って笑う彼の顔に、心臓が踊る。


「……ありがとう」


 口から勝手に言葉が出る。

 守られた安心と、甘い鼓動が重なって、何も考えられなくなる。


 胸の鼓動が収まらなかった。

 抱き寄せられた感触に息が浅くなる。


 一瞬の真剣な眼差しと、その後の柔らかな笑顔。

 ギャップに揺さぶられ、頭が真っ白になっていた。


「大丈夫? 怖かったろ」


「……ううん。ありがとう、本当に……」


 気づけばそう口にしていた。


 彼は軽く笑って、私の後頭部に手を添え、私を優しく抱きしめた。


 心臓が大きく跳ねる。

 こんな風に触れてもらったのはいつだったか。


 二人で駅まで歩くはずだったのに、気づけば違う道を進んでいた。


「ちょっと休んで行こうか」


 軽く言うその口調は、まるでコンビニにでも寄ろうとするかのようだった。


「えっ……それって」


 和朗の幻の指先が首筋からつつと焦らすように下がった。

 息を深く吸い込んで、立ち止まろうと…。


「だめ」

「帰らなきゃ」


 そう言って帰らなきゃ。

 急いで――頭では分かっている。

 でも、彼の温もりと笑顔に縋りつきたくて、拒絶の言葉が出なかった。


「無理しなくていいから。でも、俺は君と一緒にいたい」


 そう囁かれて、芯がキュッとなる。


 気づけば、目の前にホテルの看板が見えていた。

 鼓動が早くなって、思わず地面を見る。

 でも、甘い錯覚がかき消していく。


「行こう」


 差し出された手。

 迷う時間は数秒もなかった。


 ガラス扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 ロビーを歩く足音が重くて、逃げ道はもうないと分かった。

 それでも、引き返さなかった。


 ――部屋の中。


 背中を壁に押しつけられ、熱い息が首筋をかすめる。


「愛花――」


 名前を呼ばれ一瞬我に返る。


「待って……」


 と、声を出そうとしたのに、言葉にならなかった。

 気づけば瞳を閉じて、彼を受け入れていた。


 愛しているのは和朗のはずなのに。

 本当に欲しかったのは和朗の温もりのはずなのに。


「か……ず……」


 名前が出かかって止まり奔流に飲み込まれた。


 行為のあと、天井を見つめながら涙が滲んだ。

 罪悪感で胸が押し潰されそうなのに、同時に不思議な安堵があった。


 私の手を握り、耳元で囁く。


「すまない。でも俺は後悔なんてしない」


「あっ」


「愛花……君がほしい」


 和朗の背中を見て眠れなかった夜。

 愛されてるのかなと震えていた心。

 その空白を、この人は埋めてしまった。


 ――私は、和朗を裏切った。


 瞼を閉じて、手を握り返した。



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