律儀な年賀状
取り留めのない話だった。
生家のあった村で私の住まいを聞いた、という。
「定年退職して、時間を持て余し、父の遺品を整理しました。住所録に見も知らないものがあったのです。気になって調べてみると、四国の山村だったものですから、ますます興味が湧き、ついに訪ねることにしたのです」
住所録にあったという名前は確かに私の父親、住所も昭和の大合併前のものだった。
「何か手掛かりになるものはないでしょうかねえ」
男は途方に暮れている。
「古くから秘境に通じる街道が抜かれていて、人の往来は多かったと思いますよ。お父さんはどんな仕事をされていましたか」
「小さな食料品店を営んでいました。だけど、四国とは関係がないと思います」
私の生家は村の最奥部にあった。街道はすでに崩れ、鬱蒼とした杉木立に覆われていた。行き交う人もなく、外部との交流が途絶える中にあって、郵便は格別な意味を持った。
忘れられない光景がある。
「まあ、この人は今年も年賀状をくれとる。律儀な人やなあ。お茶を一杯さしあげただけなのに」
と母親がしきりに感心していた。
ただ、その話はできなかった。差出人は元囚人だったからだ。
戦前、北海道の開拓、九州の炭鉱採掘などに受刑者が駆り出されたことは知る人ぞ知る史実だ。こうした囚人労働は四国でも行われ、木材の伐採・搬出などに従事させたのである。
辺境の地に建てられた囚人小屋へ、青い囚人服に腰縄の男たちが移送される。麓の村では一行の世話をした。その時の恩を忘れない人がいたのである。
「大正初期、川沿いに自動車道が抜け、人の流れは変わりました。村を通るのは山仕事に行く人か囚人小屋に送られる受刑者くらいになったと聞きましたよ」
私の話が終わらないうちに、男は反応した。
「囚人、ですか。実は父から、若い頃、治安維持法で捕まり、服役したと打ち明けられたことがあります」
事の成り行き上、私は年賀状のことを話した。
「分かる、気がします。私の父に間違いないでしょう。お世話になったのですね。ありがとうございました」
男は深々と頭を下げた。
多くの死者を出した北海道や九州ほど労働は苛酷ではなかったにしても、小屋から脱走する囚人もいた。村じゅう総出で山狩りをした話が伝わる。捕らえられ、父親によると「足腰が立たなくなるほどぶっ叩かれた」らしい。
秘史である。政治犯と言えば、なおさら風当たりは強かったはず。私は余計なことは言わないでいた。




