祈りと誓いの夜
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「すごい、すごい、すごい! 何今の、煙? どうやったの!? ねー!」
まるでマジックを初めて見た子どものように、エリィは興奮を抑えきれず、顔をキスできるほどの距離まで近づけてきた。
両手で俺の手を握りしめ、呼吸の音が聞こえるほどの接近。俺は思わずヤカンのように顔を真っ赤にして後ろに逃げようとしたが、エリィに握られた手がそれを許してくれなかった。
手の温もりが、心臓の鼓動をさらに速くする。
「ゴブリンは武器で戦う種族。こんな能力を持ったゴブリンなんて、聞いたこともないわ。幻術やまやかしでもなさそう……。本当にあなたは異世界の……いや、そんなことはどうでもいい。この煙、どんなことができるの?」
呆気に取られていたリーリスがようやく正気を取り戻す。声音こそ冷静だったが、目は明らかに動揺していた。
俺は少し考えた。
煙はさっきのように物体を掴める。応用すれば、相手を絡め取ったり、武器を仕込んだり、囲ったりもできるだろう。
女神の言葉を信じるなら、攻撃を透かすこともできるらしい。つまり、防御も可能。
煙を使った移動もできれば――戦いの幅は一気に広がる。確証はないが、見かけ倒しではないはずだ。
「色々できるさ。ここでは試せないけど、きっと役に立つと思う」
「そう……。エリィ、この男の名前は?」
「ノアス君だよ」
「ノアスは、信頼できるの?」
リーリスはすっかり冷静さを取り戻し、真剣な眼差しでエリィに問う。
絶滅の危機にある種族を背負う族長として、未知の存在を迎え入れるのだから当然だ。
その慎重さに、俺は逆に安心感を覚える。少なくとも、彼女は感情で動くタイプではない。
「リーリス、大丈夫。私を信じて。ノアス君は悪い人じゃないと思うよ」
エリィはニシっと笑顔を見せ、少し大げさに笑って見せた。
その姿に、リーリスの目がわずかに柔らぐ。
「口を挟むようで悪いが、なんでお前はそこまで俺を信じるんだ? 森で出会って、まだ数十分しか経ってないんだぞ。俺は未知の能力を持つ異分子だろうに」
当然の疑問だ。
俺は何もしていない。信頼を勝ち取る理由もない。
「信じるよ。だって私たちは多くを失った。無力な私は祈ることしかできなかった。そんな時、君と出会ったんだ。
もしかしたら君は悪魔の化けた姿かもしれない。あるいは、破滅をもたらす堕天使かもしれない。
でも、もしかしたら――魔物を救う英雄かもしれない。私はそこに賭けてみたいの。私の祈りと、君との出会いに。それじゃダメかな」
覗き込むような瞳に、俺の心臓が一瞬止まった。
その瞳には迷いがなかった。
「まったく……あんたの希望的観測に私たちの運命を賭けるなんて、正気じゃないわね。でも……そうね。変化が必要なのも事実だわ。
ノアス、私たちと一緒に戦ってほしい。明日、人類との決戦がある。きっと最後の戦いになる。力を貸して」
「わかった。力になれるか分からないけど、全力でやってみるよ」
俺に必要なのは、まず情報だ。ゴブリンに転生した以上、文化や生活を知っておく必要がある。
「とりあえず食事をどうぞ。質の悪い木の実ばかりだけどね。それと、食後は村の外れの水場で体を流してきなさい。正直……臭いわ」
「す、すみません……」
ストレートな言葉に、心が軽く刺さった。
泥まみれの身体を冷水で洗い流す。水は濁っていて、汚れが浮かんでいたが、それでも少しはマシだ。
リーリスの家に戻ると、木の実が並んでいた。どれも傷んでいるが、これがゴブリンたちの現実なのだろう。
壁には多くの写真――仲間、そしてエリィとのツーショット。
族長という立場を超えた深い絆が感じられた。
木の実をかじりながら、リーリスから話を聞く。
昔はもっと多くの部族が存在した。お祭りもあり、笑いもあった。
だが人間の王国が領土を拡大するにつれ、魔物たちは住処を失い、次々と敵対心を砕かれ、今やこの部族だけが残ったという。
それでもリーリスとエリィは、奴隷にされた仲間を救いたいと願っている。
話を終え、外へ出る。夜はすっかり更けていた。
闇の中、ランタンの灯が揺れている。
「なんとか信頼されてよかったね」
エリィが隣で微笑む。俺は苦笑いを返した。
「ああ。でも、あまり期待しないでくれ。俺は戦ったことがない。ただの素人だ」
「大丈夫だよ。ねぇ、ノアス君。前の世界では何をしていたの?」
その問いに、言葉が詰まる。
俺は前世、ただの人間だった。誰にも理解されず、孤独のまま――自ら命を絶った。
「それは、今度話すよ」
奥歯を噛みしめてそう答えると、エリィは一瞬黙り、「うん」とだけ返した。
「明日は……人類に勝とうね」
「そういえば、他の魔物たちはどうなんだ? 協力できないのか」
「んー……スライム、オーガ、ドワーフ、エルフ。皆、人間を恨んではいるけど余裕がないの。最弱の私たちゴブリンが声を上げても、説得できる力がないんだ。
でも、ノアス君みたいな特別な力を持つ存在がいれば……もしかしたら」
なるほど。どの種族も人間に追い詰められているのか。
俺は胸の奥で、女神の言葉――「破滅の置時計」――を思い出した。
三日後、魔物は滅びる。
この事実は、今はまだ口にしないでおこう。
「ところで、今どこに向かってるんだ?」
「え? 私の家だよ」
「……は?」
「だってノアス君、寝る場所ないでしょ。一緒に寝るしかなくない?」
「なっ……な、なに言ってんだお前っ!」
俺は十歩ほど後退り、顔を真っ赤にする。
童貞には刺激が強すぎる展開だ。だが、当の本人は首を傾げているだけ。
「どうしたの? おかしいこと言ったかな?」
純粋そのものの瞳に、下心の欠片もない。
俺は深呼吸を十回ほどして、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……何でもない、ごめん」
「うん。じゃあ、ここが私の家ね」
リーリスの建屋よりも小さく、他の家と変わらないボロ家。
中には古い写真――リーリスと、もう一人の少女。
「この子は?」
「私の幼馴染。リン。少し前の戦争で人間たちに連れて行かれたの。私はリンを助けたい。そのために戦うんだ」
「……そうか」
「うん。だから、明日はよろしくね」
ベッドは硬く、軋む音がする。
隣では、もうエリィが静かな寝息を立てていた。
見知らぬ男を隣に寝かせながら、何の警戒もなく眠る彼女を見て、俺は苦笑する。
緊張も、不安も、次第に薄れていく。
天井を見つめながら、転生の現実と明日の戦いを思う。
そして――静かに、意識が闇に沈んでいった。




