ヒドラの仮面
敵対心を砕いたのは、これが初めてだ。
俺は倒されたことはあっても、きちんと倒したことはない。この先どうなるのか、女神からも聞いていない。正直、困惑していた。
俺があわあわしていると、ライの心臓がふたたび光を放つ。
光はふわりと空中へと昇り、やがて蛍の群れのような輝きに変わる。その光はやがて形を持ち、舞踏会で使うような目元だけを覆う仮面となった。片目だけに蛇のような目が描かれている、不気味で美しい仮面だ。
『案外、お主も戦闘センスがあるものだのう。最低限の知識は与えたが、ライを倒すとは思わなんだ。よっ、天才!』
『あ、出てきたな、女神』
突然現れた女神に、もはや驚きはない。どうせ、勝手に説明を始める。
『質問しないとは、よく調教された豚だ。ほれ、ぶひーぶひー鳴いてみろ』
やれやれ、また面倒くさい絡みだ。口を強く結び、黙ってやり過ごす。
『ふむ。つまらん奴だが、私をよく理解しておるな。お前に与えた能力は覚えておるか? 煙、タイムリープ、そして仮面の力じゃ。
種族の強者を倒すと、その能力を宿す仮面を得られる。お前はヒドラのライを倒したゆえ、ヒドラの能力が使えるようになったのじゃ。さあ、仮面を手にしてみよ』
女神は尻を蹴り飛ばして急かしてくる。
俺は空中に浮かぶ仮面を手に取った。冷たく、まるで蛇の鱗を撫でているような感触だ。
『ほれ、早う付けるのじゃ』
女神の顎がクイっと上がる。
舌打ちを飲み込み、恐る恐る仮面を顔へ。
「うわっ!」
皮膚に触れた瞬間、仮面は生き物のように絡みついた。外そうとしても離れない。
『そう焦るな。大丈夫じゃ』
女神の声に体の力が抜ける。
仮面は馴染むように蠢き、やがて静かに落ち着いた――瞬間、頭の奥に閃光が走った。
「――こうして……すげぇ!」
指を動かすと、目には見えにくい細い糸がビームのように飛び出す。蜘蛛の糸のようだが、俺だけにはその軌跡がはっきり見える。複数の糸を操ることもできる。
『よし、外すのじゃ』
『お、おう』
仮面に触れると、あれほど張り付いていたのが嘘のようにスッと外れた。
『その仮面は意識すれば現れる。新しい能力に――かんぱーい!』
女神はどこからかグラスを出し、一人で飲み干す。
『この力を駆使して人間に勝て、ということか?』
『お主もだいぶ察しがよくなったのう。その通りじゃ』
『そういえば、蛇なのに糸? 蜘蛛の方がしっくりくる気が――』
『はあ……。お前の世界の常識が通用すると思うな。ここは私の世界じゃ。オッケー? あーゆー、オッケー?』
『す、すいません』
『パードゥン?』
『すいませんでしたっ!』
『よろしい。では私は帰る。時間が無いぞ、走れ馬鹿者! アッハッハッハ!』
去り際までうるさい女神だった。
不愉快な笑い声が消え、静寂が戻る。
「とにかく仮面は手に入れた。……便利なもんだな」
俺はヒドラの仮面を意識で出し入れしながら呟く。
目の前では、まだライが倒れたままだ。
敵対心を砕いた後、どうすればいいのかは知らない。女神の説明にもなかった。
気まずい沈黙の中、頭を掻いて唸る。
「うぅ……」
「あ、起きた」
ライが頭を押さえながらゆっくりと起き上がる。傷は跡形もない。
「ノアスと言ったね」
「え、うん」
身構える俺に、ライは穏やかに微笑む。
「僕は君に負けた。敵対心が砕けた今、戦う意思もない。これからは君に付いていきたい。――いいかな?」
その声音に敵意は感じられない。安堵とともに、胸の力が抜ける。
「人間たちが兵器を使おうとしてる。あと二日で、ここらの魔物を一掃するつもりだ。ゴブリンだけじゃ勝てない。だからドワーフに協力を頼んでる。
でも、この鉱山を住処にしてるライがいたから、鉄が掘れなかった。……だから、戦うことになったんだ」
俺は説明を終えると、真剣に問いかける。
「この場所をドワーフに渡してもいいのか?」
「うん。いいさ。この静けさは好きだったけど、君が必要とするなら譲るよ」
「え、いいのか? 本当に?」
ライは辺りを懐かしむように見回し、微笑んだ。
「大丈夫。僕は君に従うよ」
爽やかな笑み。疑いようのない真っ直ぐさ。
「じゃあ――行こう。これからは仲間、でいいんだな?」
「そうだね。そのつもりだよ。よろしく、ノアス」
「ああ、こちらこそ」
握手を交わし、互いに微笑む。
そして俺たちは、鉱山を後にした。ドワーフの村へ向かうために。




