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変わりゆくもの、残るもの


 クラスメイトの冷たい視線……

 母の狂気……

(僕は……おかしいのか? 加奈は……本当に……妄想なのか?)


 気づけば僕は、ただ公園のブランコに座っていた。

 夕暮れの街の雑踏も、車の音も、人の話し声も、遠い世界の出来事みたいに耳を素通りしていく。

 胸の奥に、鉛の塊みたいなものを抱えたまま、呆然としていた。


 その時――

『ウーーー……ウーーー……』


 耳をつんざくような消防車サイレンが聞こえた。

 最初は遠くで鳴っていた音が、少しずつ近づいてくる。

 胸がざわつく。(どこだ……? どこで火事が……?)


 だが、赤く瞬く光が、よりによって家の方向だと気づいた瞬間、胃の底がひっくり返るような感覚が走った。

 ブランコから立ちあがると走り出す。

 嫌な予感が、全身を締めつける。

 喉が、からからに渇き、息が浅くなる。


「……嘘だ……そんな……」


 角を曲がるたび、鼓動が乱れていく。

 足がもつれそうになりながらも、さらに速度を上げた。

 遠くに人だかりが見えてくる。

 鼻を刺す焦げ臭さが、風に乗って届いた。


 そして――目の前に広がった光景に、思わず立ち尽くした。


 ……燃えている。

 僕の家が、炎に包まれている。


 夜空を裂くように立ち上る黒煙。

 屋根を舐めるように広がる真っ赤な炎。

 火の粉が風に煽られ、ちらちらと舞っていた。

 耳鳴りのような轟音と、消防士たちの怒号。

 近所の人たちが遠巻きに見守り、誰かが悲鳴をあげている。


 加奈が中に――でも、妄想なら加奈はいない入っても無駄だ。

 その時、隣のおばちゃんが近づいてくる。


「大変よ蒼太くん! さっきお母さんが中に!!」


 先に帰って来た母さんが家の中にいるらしい

 頭が真っ白になった。

 足が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。


 でも――


「……母さん!!!」


 気がつけば叫んでいた。

 誰かが腕を掴んで止めようとした気がする。

 けれど振り払って、僕は炎の渦へと駆け込んでいた。


 熱気と煙で息ができない。

「おーい! 母さんどこだ! 加奈、返事してくれ!」


  念のため、加奈の姿も探していくが姿は見当たらない。

 一階にはいない。

 二階に駆け上がり、部屋のドアを開けていく。


 いた。僕の部屋の片隅でうずくまった母を見つける。

 側に駆けつけ、抱き起こす。


「母さん!!」

「そ、蒼太…どうして……」 煤けた顔で、弱々しい笑みを浮かべる。


「大丈夫! すぐ助けるから!」


 近くの毛布を掴むと、火傷をしないように、母に被せて抱え込む。


 階段に向かうが、炎がうねりを上げて通せんぼする。

 ゴウゴウと燃え盛る音が耳を打ち、視界は赤と黒に染まっている。

 空気が熱で歪み、喉の奥に煙がまとわりついて咳が止まらない。


「ゴボッゴボ……し、寝室に……」


 母の零した言葉にハッとする。

 寝室の外には倉庫がある。母を抱えたまま倉庫の屋根に飛び降りれば――まだ助かる。

 肺が焼けるようだが、足を止めるわけにはいかない。


 母を抱えたまま反転し、炎の中を突き進む。

 じゅう、と焼けるカーペットの音、パチパチと木がはじける音。

 肌にまとわりつく熱気が、服の上からでも容赦なく刺す。


 寝室のドアを蹴破るように開けると、熱風が吹きつけて顔をしかめた。

「もう少し……! 絶対に、絶対に助けるから……!」

 母の体を強く抱きしめ、窓へ向かって走る。


 その瞬間――ギシッ、と低い悲鳴を上げるように天井が軋む音がした。

「――っ!」

 咄嗟に母をかばって横へ飛び込む。

次の刹那、ゴウゴウと崩れ落ちる天井。

焼けた梁と瓦礫が目の前に叩きつけられ、激しい衝撃とともに埃と火の粉が舞い上がった。


「うっ……! くそ……っ!」

 瓦礫が塞ぎ、窓までの道は消えた。

立ち上がろうとするたび、靴の裏に焼けた破片がくっついて焦げる匂いが鼻を突く。

 熱い。視界が揺れる。時間がない。


「……母さん……!」

 腕の中で、母がかすれた声で「蒼太……」と呼んだ。

 煤で汚れた頬に、涙の跡が一筋。

 それを見て、心臓が締めつけられる。


(母さんだけでも……窓まで投げれば……!

 いや、でもそんなことをしたら――)


 理性が選択肢を並べ、感情がそれを打ち消す。

 火柱が近づく。頬に焼けつくような痛み。

 鼓動が耳の奥でドクンドクンと鳴り響き、汗なのか涙なのかもわからないものが顔を流れた。


「……どうすれば……僕は……!」


 母を抱く腕に、思わず力がこもる。

(絶対に、守る……! けど……このままじゃ……!)


 ――その時。


 ぽつり、と頬に冷たいものが触れた。


「……え……?」

 もう一度、ぽつり。今度は首筋。

 見上げると、崩れた天井の隙間から黒い煙の向こうに、灰色の雲が見えた。


「………雨」

 

 そう呟いた瞬間、雲の間を縫うように、細い糸のように雨が降り注いできた。


 ……ポツ、ポツ、ポツ。

 炎を叩く水の音が、かすかに、だが確かに耳に届いた。


 僕は目を見開く。

 そして視界の端に、小さな影が――

 宙にふわりと浮かび、金色の光を帯びた羽をゆっくりと広げていた。


 加奈だった。

 いや、違う。


 徐々に雨足が強くなっていく。

 羽が淡く揺れ、降りしきる雨粒が炎を鎮めていく。


「「……あめ、ふらし……?」」


 毛布から顔を出した母の声と重なる。

 彼女が降らす雨が、すべてを洗い流すように、脳裏から忘れた記憶がよみがえる。



 ――あの日も、こんな激しい雨だった。



 連日響いていた両親の罵り合いが、ついに終わりを迎えた。父の車が、加奈を乗せて雨に向こうに連れ去っていったのだ。

 静寂が訪れた家から、僕は逃げるように外へ飛び出した。

 雨は夜の街を容赦なく叩き、アスファルトは鏡のように光っていた。

 冷たい水が首筋を伝い、シャツの裾は泥で重くなっていく。

 胸の奥は空っぽで、呼吸をするたびに胸がひゅうひゅうと痛んだ。


(加奈……どうして、あんな別れ方をしなきゃいけなかったんだよ)

 堪えきれずに足元を蹴りつけると、跳ねた水飛沫が頬に当たった。


 そのとき、視界の隅に何かが倒れているのが見えた。

 街灯の下、小さな体。

 雨に濡れた髪が頬に張りつき、肩は小刻みに震えている。

 近づくと、少女は泥まみれの膝を抱え込み、力なく瞬きをした。


「……大丈夫?」

 僕は思わず声をかけ、しゃがみこんだ。

 少女はかすかに首を横に振る。指先は冷たく、体温をほとんど感じない。


「待ってて、今すぐ……!」


 僕は震える体を抱き起こした。小さな体は羽毛のように軽く、でも妙に胸の奥に重くのしかかる。

 肩に少女の髪が触れ、濡れた温度が肌にじんわりと伝わる。

 雨粒が二人の頬を何度も打ち、僕は歯を食いしばって歩いた。


 家に戻ると、すぐにタオルと薬箱を引っ張り出し、少女を布団に寝かせた。

 じっとりと濡れた服を脱がせ、傷だらけの膝を消毒すると、少女は苦痛を堪えるように眉を寄せた。

「痛いよね……でも、これで大丈夫だから」

 優しくガーゼを当てると、少女の睫毛の先から小さな雫が落ちた。それが雨のしずくなのか、涙なのかは分からない。


 手当てを続けるうち、少女はか細い声でつぶやいた。

「……あなたも……傷ついてるのね……」

「え?」

 少女の瞳は夜の雨のような色をしていて、僕の胸を見透かすようにじっと覗き込んでいた。


 その瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ溶けていくのを感じた。

(なんでだろ……少しだけ、楽になった気がする……)


 ――けれど、あの日、少女はそっと僕の記憶に触れたのだ。


「あなたを、ひとりにしたくない……」

 その願いが、僕の心にそっと仕掛けを作った。

 “自分を、妹だと思い込むように”――

 ほんの少し、ほんの少しだけ、僕を守るために。



 僕は涙で滲む視界の中、宙に浮かぶあめふらしを見上げた。

 胸の奥がずっと痛くて、でもそこに向き合うことを避けてきた自分がいた。


(……僕は……妹がいなくなったことから、逃げてたんだ。)

 あの日、家の事情で加奈と引き離された痛みを、見ないふりをして、あめふらしの優しさに甘えて「まだ妹がいるんだ」と思い込んで、傷を覆い隠していた。



「……僕は、君に……ずっと守られてたんだね」


 あめふらしは小さく首を振り、濡れた睫毛を伏せた。

「違うよ。私こそ……あなたに救われてたの。あの夜、あなたが私を見つけてくれたから……」

 

 唇が震え、言葉が途切れる。

 

「本当は……ずっと一緒にいたかった。でも……私がここにいたら、あなたは前を向けない……」

「そんなことない!」

 

僕は必死に叫ぶ。

 

「僕は……君がいたから、歩けたんだ。だから――」

 

声がかすれ、喉が詰まる。

あめふらしは雨の中、そっと首を横に振る。

 

「……覚えてる? 紫陽花を見た日のこと。

 あなたは言ってたよね……“紫陽花は土の酸度で色を変える。だから変わっていくことを恐れない花なんだ”って」


僕は息をのむ。

あの日の夕暮れと紫陽花の光景が、鮮やかに胸に戻ってくる。

少女は視線を空へ向けた。

 

「私……ずっと怖かったんだ。変わったら、あなたを、そして自分を傷つけるんじゃないかって。

 でもね、紫陽花みたいに、変わることでしか見えない景色があるって……そう思えるようになったんだ」


彼女は小さく肩を震わせながら続けた。

 

「だから私、決めたんだ。……変わるよ。あなたのことを大切に思ったままで、でも“妹”じゃない私になる。そうやって、私は前に進むの」


 僕に彼女は止められない。

 胸が詰まり、こぼれ落ちる言葉を絞り出す。

 

「……そっか……君は……変わるんだね」

「うん」


 二人はしばらく見つめ合い、雨音だけが間を満たす。

 やがて、あめふらしは柔らかな笑みを浮かべ、羽を広げた。


「ありがとう、兄さん……私、行くね」

「正直、どうすればいいのか分からない。君がいない世界で、うまくやれる自信もない。でも、それでも僕は進むよ。君がいた時間を抱えて、ちゃんと前を向いて………だから、ありがとう」


金色の羽が雨粒を弾き、淡い光となって空へ舞い上がっていく。

最後に、彼女の声が微かに届いた。


「――変わること、怖くないよね……だって、あなたがそう教えてくれたから」


 雨音に紛れ、その言葉が胸の奥でそっと灯り続ける。

 

 いつの間にか炎は消え、わずかな煙だけか空に昇っていく。

 毛布に包まった母の寝息が聞こえていた。



個人的にですが、AKIHIDEさんの「RAIN MAN」という曲が好きです。


「ふいに降り出す 春の終わり告げる雨〜♪」という冒頭から始まりますが、この作品のポツ、ポツ雨が振り始めるシーンにピッタリだと思っています。



名探偵コナンのエンディングテーマになっていますのて、YouTube等で聴いてみてください。

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