赤い空
「『ただいまー』」
家に帰ると、夕飯のいい匂いが漂ってきた。
台所では母が、包丁を握って人参を刻んでいる。
トントン……トントン……と規則正しい音が鳴り、かすかに鼻歌さえ聞こえていた。
「今日は遅かったじゃない、どこか行っていたの?」
「加奈とゲームセンターに寄ってきただけだよ」
――その名前を出した瞬間、音が途切れた。包丁の刃がまな板に押し当てられたまま、動かない。
母の肩がぴくりと跳ね、首をかしげるようにしてこちらを見た。
「……今、なんて?」
低く、かすれた声。
その目は、どこか焦点が合っていない。
眉間のシワがゆっくりと深くなり、口角がわずかにひきつっていく。
「……加奈と……って、言ったの?」
次の瞬間、母の顔がひきつり、目を見開いた。
頬が赤く染まり、震える手から包丁の刃先がカチカチとまな板を叩く。
呼吸が荒く、浅くなる。湯気が立ちこめる台所の空気が、急に冷たく張りつめた気がした。
「どうして……どうしてあなたは、いつもそうなの!!」
叫び声が炸裂した。
味噌汁の匂い、炒めかけの玉ねぎの甘い香りが、むせ返るような緊張の匂いに変わっていく。
母の目は涙で濡れているのに、笑っているようにも見えた。
怒りと悲しみと、何か別のものがぐちゃぐちゃに混ざった表情。
それを見た瞬間、胸の奥が冷えていく。
――昔の優しかった母さんの面影は、もうない。どこか壊れてしまっている。
※
学校にも家にも居場所はない。必然的に加奈と外に出かけることが増えてきた。
「兄さん、この本面白そうだよ」
図書館の児童書コーナーで、加奈が「水玉の冒険」と書かれた薄い本を抱えて走ってきた。カラフルな表紙には、ふわふわした水玉模様の生き物が笑っていた。
「へぇ。どんな話なの?」
「水玉がね、世界の果てまで冒険するの。でも、途中で仲間をどんどん増やしていって、最後は――」
加奈は急に言葉を止めて、表紙を見つめた。
その横顔は、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
「気に入ったなら借りていけばいいよ」
言うと、加奈はパッと笑って、頷いた。
「やっぱり兄さん、子どもっぽいって思ってるでしょ」
「思ってないって。面白そうだし」
小さく膨れた加奈の頬をつつくと、くすぐったそうに身をよじる。その様子がなんだか嬉しくて、つられて僕も笑ってしまった。
借りた本をリュックに入れ、二人で図書館の階段を下りると、空はすっかり茜色だった。蝉の声が弱まり、街はゆっくりと夕方から夜へと移ろっていく。
帰り道。住宅街を通ると、洗濯物を取り込むおばちゃんたちの声が、風に乗って聞こえてきた。
「まだ捕まってないんでしょ? あの放火魔」
「うちの裏の空き家も、危ないっておじいちゃんが言ってた」
「三丁目、四丁目って続いてるから、今度はこの辺かもねぇ……」
その言葉に、ふと足が止まる。
加奈は、まだ何も気にしていない様子で、スキップするように僕の前を歩いていた。白いワンピースの裾が、ふわりと揺れる。
けれど、なぜか心の奥に、冷たいものが流れ込むような感覚があった。
空には、黒々とした雲がゆっくりと流れていた。西陽の残光が雲の隙間から漏れ、空全体が不気味な赤と灰色のグラデーションに染まっていた。




