悔しいでしょう?
「セリーヌ。済まないが、君を愛することはできない」
どこかで聞いたようなそのセリフに、眩暈と脱力感を覚える。
だって……待ちに待った結婚式を終え、今まさに初夜を迎える所だったのよ?あれやこれやと期待に胸を膨らませた状態でそんな言葉を聞かされた、私の身にもなってみて欲しい。
「それは、メロディ様を想っておられるからでしょうか?」
「そうだ。俺は今でも彼女を愛している」
メロディ・ダルトワ元男爵令嬢。それは王国を騒がせた廃太子事件の首謀者の名だ。
見目麗しい少女であったメロディは貴族学院に入学してからというもの、男子生徒を次々と籠絡。さらにはジュスト王太子殿下の側近へ近づき、最終的には殿下の寵愛すら受けるようになった。
しかし王太子には、既に婚約者であるマリエット・ベランジェ侯爵令嬢がいる。
そこでメロディはマリエット様の悪口を王太子へ吹き込む。既に骨抜きにされていたジュスト王太子殿下や側近たちは、その讒言を信じ込んでしまった。そして彼らは愚かにも卒業パーティの場でマリエット様を断罪し、婚約破棄を突きつけたのだ。
その後どうなったかといえば。
国王陛下の命を受けた騎士たちにより、メロディと王太子一派は速やかに捕縛された。当然である。
マリエット様は王太子の乱行について前々から国王夫妻へ相談していたらしい。王太子殿下やメロディには監視が付けられており、彼らの動向は陛下へ筒抜けだったのである。
結婚前の火遊びくらいはと黙認していた陛下も、婚約破棄騒動を起こすつもりであることを知って放置できなくなったというわけだ。
捕らえられたメロディは「テンセイシャ」とか「ヒロイン」とか、訳の分からないことを叫んでいた。結局ダルトワ男爵家は取り潰しとなり、親子共々、北の果てにある鉱山で終身労働の刑に処せられたそうだ。
ジュスト王太子殿下は廃太子となり、断種の上、一代限りの伯爵として辺境の小さな領地が与えられた。
側近たちもそれぞれ処罰を受けた。騎士団長の息子は騎士の資格を剥奪、宰相の息子は内定していた官吏の職を取消し。王太子の側近として前途有望だったはずの者たちは、未来を閉ざされたのだ。そして、その中に私の夫――当時は婚約者だったシルヴァン・ロージェル伯爵令息も含まれていたのである。
「君には申し訳ないと思う。だが、心の有り様は自分でどうすることもできない」
呆然とする私へ謝罪を口にしながらも、夫は有無を言わさないつもりらしい。
彼も反省しているだろうし、これからじっくり夫婦になっていけば良い。……そんな期待が泡となって消えていく。
この人は自分の置かれた立場がどれだけ危ういか、理解していないのかしら?
本当にいいのか、他に良い縁談を探すからと何度も諫めてくれた父。
あんなことがあったにも関わらずシルヴァンを支えたいと言った私に、涙を流しながら礼を述べたロージェル伯爵夫妻。
あの事件は社交界どころか国中に知れ渡っている。私を失えば、シルヴァンに結婚相手など見つからないだろう。妻が居なければ当然、次代の跡継ぎをもうけることも出来ない。
ロージェル伯爵夫妻はシルヴァンを廃嫡し養子を迎えることも検討していたらしい。私がいることで、かろうじて跡取りでいられるのだ。
メロディが魅力的な女性だったことは認める。
華奢な身体と野花のような素朴さが絶妙のバランスで拮抗していて、危うい美しさを持つ女性だった。だけどその中身が毒花のように醜悪だったことに、彼は未だに気づいてない。
彼女が近づいた男子生徒は全て高位貴族の令息で、しかも容姿端麗かつ将来有望な者たちばかり。その中で最も地位の高い王太子殿下へ、メロディは狙いを定めただけ。
彼女が見向きもしなかった下位貴族の令息や令嬢たちはとっくにメロディの本性に気づき、冷めた目で見ていたわ。
あれはいつだったか……私は学院の廊下で偶然、彼女に出合わせたことがある。
「シルヴァンはね、私のことを愛しているのですって」
軽く会釈をして立ち去ろうとする私とすれ違い様に、そんな言葉を囁く彼女。
婚約者が彼女の取り巻きの一人になったという噂は耳にしていた。彼がメロディと楽しそうに談笑する様子を、目撃したこともある。だけどシルヴァンに限ってそんな事はないと思っていた。いえ、そう思いたかった。
私が彼と婚約してから十年。少しずつ少しずつ、仲を深めていった。誠実で常に紳士的で、ちょっと照れ屋で。そんなシルヴァンに対して、幼い恋心が愛情へ育つには十分な時間だった。それにメロディと出会うまでの彼は、本当に優しく私を慈しんでくれたのだ。
「それは、嘘でしょう?」
「親が決めた婚約者に愛はない。本当に好きなのは君だけだ、と言ってくれたわ。どう?悔しいでしょ?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、メロディは身を震わせる私を置いて去っていった。
……そんなことを話したところで、今の貴方は信じないでしょうね。
「分かりました。ですが、私たちは夫婦となったのです。夫としての責務は守って下さい」
「ああ、勿論だ。君のことは妻として、きちんと扱うつもりだ。君の要望にはなるたけ応えるつもりだし、予算も俺の出来うる範囲で与えよう」
「予算は必要なだけで結構です。伯爵家の内情がよろしくないことは分かっていますから。でしたら一つだけ、お願いを聞いて下さる?」
「ああ。何でも言ってくれ」
シルヴァンはあからさまにホッとした顔をした。私がごねるとでも思っていたのかしらね。その身勝手さに苛ついた。
だから提案したのよ。使うかどうかは分からない、だけど役に立つかもしれない一手のために。
「もし私に愛する人が出来たら、その方を想うことを許して頂きたいのです」
「浮気を認めろということか?」
「いいえ。貴方の妻として、貞節を守り抜くことはお約束致しますわ。ただ、想うことだけは認めてほしいのです。心の有り様はどうすることもできないと、貴方も仰っていたでしょう?」
「……そうだな。そもそも、俺にとやかく言う資格はない。身体の関係を持たないのであれば、他の男を愛しても構わない」
「ありがとうございます。それでは今後ともよろしくお願い致しますわ、旦那様」
そんな始まりだった結婚生活が、平穏であるわけもなく。
「あら、セリーヌ様。ロージェル伯爵令息はご不在ですの?」
「え、ええ。先ほどまではいたのですが……。席を外しているようですわ」
周囲の好奇心に満ちた視線を感じつつ、私は愛想笑いで誤魔化した。
いつもこうなのだ。夜会では入り口までエスコートしてくれるが、その後夫はするりと離れていく。
私はすっかり癖になってしまった溜息を吐いた。
夜会に女一人で立っているなんて、好奇の的でしかない。夫にとってはこれが『妻としてきちんと扱う』なのかしら?
シルヴァンのやらかしにより、ロージェル伯爵家の評判は地に落ちている。事業の取引は一方的に打ち切られ、財政は破綻寸前。社交界に出れば「あれがロージェル伯爵家のバカ息子か」と囁かれる。
人脈を回復させなければ、ロージェル家に明日はない。だから私は社交に精を出していた。それはもう、必死に。
幸い、夫には厳しい目を向けている貴族たちも私には同情的だ。私の父であるヴァレス子爵も、娘の為ならばと助力してくれた。実家を通して新規の取引先となった貴族もいる。父が頭を下げて頼んでくれたらしい。
ロージェル伯爵夫妻だって、駆けずり回って金策に回っている。それなのにシルヴァンだけが以前のままだ。関係を改善すべく私から距離を近づけようとしても、躱されてしまう。
分かっているのよ。貴方の心にはまだメロディが居座っていること。彼女から貰った手紙を、時折眺めていることも。
それがどれだけ私を苦しめているか、貴方は思い至らないのでしょうね。
「若奥様!シルヴァン様が……!」
そんな日々が二年ほど続いた頃だった。
慌てた執事に連れて来られた私の目に入ったのは、部屋の隅に蹲って頭を抱え「メロディ……済まない……済まない……」とうわ言のように呟く夫の姿。朝になっても部屋から出てこないシルヴァンを心配した執事が私室へ踏み込み、この状態の彼を発見したそうだ。
「いったい何があったの?」と尋ねる私に差し出された新聞には、『王太子廃嫡事件の首謀者が死亡』という文字が大きく躍っている。
厳しい監視の目をどうやってくぐり抜けたかは知らないが、彼女は鉱山から抜け出したらしい。しかし鉱山は魔獣がうろつく危険な森に囲まれている。
森へ入った追っ手は、ほどなく彼女が着ていたであろう服を見つけた。それはビリビリに破け、血だらけだったらしい。身体は魔獣の餌食になったと判断され、捜索は打ち切られた――記事はそこで終わっていた。
護衛がなくば入ることすら躊躇われる森に女一人で飛び込むなど、正気の沙汰ではない。しかし彼女にとっては、それでも抜け出したくなるほどに酷い環境だったのだろう。王都へ向かおうとしたのか、あるいは元王太子殿下の領地へ行こうとしていたのもしれない。
とにかく、シルヴァンを落ち着かせねば。私は執事を退室させて「シルヴァン様?」と手を差し伸べた。
……その後の事はよく覚えていない。気付けば私は服をはぎ取られ、シルヴァンに組み敷かれていた。
私の上で顔を歪めながら「メロディ……」と呟く夫の姿に背筋が寒くなる。しかし男の力に敵うわけもなく、私は彼のなすがままにされた。
「済まない。君にこんな無体を働くつもりは」
事が済んで正気に返ったのか。青褪めながら謝罪するシルヴァンを怒鳴りつけることも、何なら張り倒すことも許されたかもしれない。
けれど私は彼の頭を優しく抱きしめ、「いいのですよ。さぞやお辛かったでしょう。これも妻の役目です。どうぞ、私でよければいくらでも」と囁いた。多分、これが正解だから。
私の胸に顔を埋めて泣き出した夫。赤子をあやすように私は彼の頭を撫で続けた。
「本当に済まなかった。俺は……ずっと後ろめたかったんだ。王太子殿下やメロディや皆が辛い境遇に置かれているのに、俺だけが幸せになることが。だから君にそっけない態度を取ってしまった」
そんな懺悔を聞かされても、「あっそう」という感想しか湧かなかった。
だって、謝罪よりも言い訳の方が多いんだもの。だから俺は悪くないと言いたいのが透けて見えるわ。
後ろめたさがあったとしても、それが貴方へ尽くしてきた妻を遠ざける理由になるとでも?
その夜以来、シルヴァンの態度は変貌した。余所余所しい夫から、妻を溺愛する夫へと。
ロージェル伯爵家は借金を全て返済し、事業も順調。貴族の中でシルヴァンの評価は「やらかした男」から「若気の至りで失敗したが、多少マシになった」くらいには上がったようだ。
ちなみに私は「夫の過ちを許し支えた賢妻」と過大な評判を得ている。二人合わせてプラスマイナスゼロってところかしら。
その後ほどなく私は懐妊し、男児を産んだ。
次代の跡継ぎの誕生に家中が喜びに沸いた。シルヴァンなんて「ありがとう……ありがとう。俺に新しい家族を与えてくれて。……俺を許してくれて」と嬉し泣きをしていたわ。
伯爵夫妻は「ようやく落ち着いて隠居できる」と言ってシルヴァンへ跡目を譲り、今は領地で悠々自適の生活を送っている。
夫は当主として執務に精を出しているが、こっそり抜け出しては子供部屋へ顔を出して乳母に叱られている。息子が可愛くて仕方ないらしい。
子を産んでからというもの、私への溺愛はますます加速した。毎日のように愛を囁く彼へ、私は出来るだけ嬉しそうに微笑んでみせる。
夫は心の底から信じているのでしょうね。真に愛し合っている夫婦だと。
◇ ◇ ◇
セリーヌ・ヴァレス子爵令嬢との婚約には何の不満もなかった。彼女の控えめで慎ましく、それでいて聡いところを好ましく思っていたし、俺を一途に慕ってくれる所も可愛らしいと思う。
だけど俺は、彼女に――メロディ・ダルトワ男爵令嬢に出会ってしまったんだ。
最初は警戒していた。婚約者がいるにも関わらず、メロディを傍に置こうとするジュスト王太子殿下のことは既に学院で噂となりつつあったからだ。
側近として何度も苦言を呈したが、「同じ学院の生徒と親しくして何が悪い?」と返されるだけ。
彼女が高位貴族の令嬢で、かつ妃に相応しい教養を兼ね備えているのであれば、殿下の側室として召し上げることも可能だろう。しかしメロディは男爵家の、しかも庶子だ。それに彼女の言動はとても貴族令嬢に相応しいとは言えない。
「彼女は貴族のしきたりに慣れていないんだ。もう少し寛大な心を持てよ」
「シルヴァンも話してみれば分かるさ。メロディは純真なだけだ」
いつの間にか他の側近もメロディと親しくなっており、彼女の肩を持つ。
俺だけでも、王太子殿下が彼女と親しくなり過ぎないよう見張らねば。そう思っていたのに……いつしか、俺自身も彼女と過ごす時間が嫌ではなくなっていた。いや、むしろ心地良いとすら感じていた。
「いい加減にしろ!そのメロディという令嬢は、王太子殿下の妻となるためにお前を利用しているだけだ。側近のくせに、そんなことも分からないのか?」
学院で広まった噂が耳に届いたらしく、俺は父に呼び出されてこっぴどく叱られた。
「父上といえど、メロディの悪口は許せません。彼女は純粋な子です。そのような悪心を持っているはずがない」
「女狐にすっかり籠絡されおって。男爵令嬢如きが王族へ近づいた時点で、その性根など十二分に察せられるだろうが。それに、例え本当にそのような意図がなくとも『王太子殿下や側近が下位貴族の女を囲っている』という噂が広がっていることが問題なのだ。お前は我がロージェル伯爵家に泥を塗るつもりか?」
「俺は、そんなつもりは」
「こんな噂がヴァレス子爵の耳に届いたら、セリーヌ嬢との婚約にもヒビがはいるかもしれん。とにかく、その男爵令嬢にはこれ以上近づくな」
これは浮心だということは理解している。セリーヌには申し訳ないとも思う。
だけど、どうしようもない。頭では分かってはいても、心が動いてしまうのは止められない。
俺はメロディの誕生会のことを思い出していた。
殿下は宝石を散りばめた髪留めを贈っていたし、他の側近たちも金をかけた贈り物を用意していた。それに比べて俺が用意できたのはハンカチーフ一枚。
俺には自由になる金がない。婚約者との交流へ使うようにと与えられる資金を少しだけ拝借して、ようやく買えたのがそれだった。
そんなみすぼらしい贈り物でも、メロディは喜んで受け取ってくれた。後日渡された手紙には「ハンカチありがとう。大切に使いますね!これからも仲良くしてくれると嬉しいです」と書かれていた。
そんな純朴で心優しい女性なのだ。父の言うような、野心ある女性ではない。
俺は彼女から貰った手紙を大切に仕舞い込んだ。例えその文面が、他の側近たちに配った手紙とほとんど同じだったとしても。俺にとっては宝物のように感じた。
きっと、王太子殿下はメロディを妃の一人として迎え寵愛するだろう。俺はその傍らで二人へ尽くせばいい。それだけで十分だ、と思っていた。
メロディが令嬢たちから嫌がらせを受けているという話を聞いたのは、卒業も真近の頃だった。
王太子殿下の婚約者であるマリエット・ベランジェ侯爵令嬢をはじめ、側近たちの婚約者がメロディを取り囲んで口汚くののしったらしい。さらには教科書を破ったり泥水をかけたり、階段から突き落とそうとしたそうだ。
その中にセリーヌがいたと聞いて、最初は信じられなかった。慎ましく聡い彼女がそんなことに手を染めるとは信じがたい。
「ジュスト殿下は卒業パーティでベランジェ侯爵令嬢へ婚約破棄を宣言するつもりらしい」
「俺も婚約を破棄するぞ。嫌がらせをするような嫉妬深くて陰湿な女、こっちから願い下げだ!」
「俺もだ。シルヴァン、お前も同意するだろ?」
「あ、ああ……」
頭の隅で警鐘が鳴っていた。
例え令嬢たちに非があるとしても、婚約を解消するには順番というものがある。一方的な婚約破棄など、通るのか……?
しかし、愛する少女が泣くほどに訴えるのだ。ならば俺はメロディを、そして仲間たちを信じようと思った。
「マリエット・ベランジェ!お前はメロディに嫉妬し、さんざん虐めていたそうだな。そのように陰湿な女は国母にふさわしくない。お前との婚約は破棄させて貰う!」
「フェリシー・ボルテール、お前もだ。ベランジェ侯爵令嬢と共にメロディを虐めていたんだろう?俺も婚約を破棄する!」
「俺もミラベル・シャリエとの婚約を破棄する!」
卒業パーティの場で、王太子殿下に続き、次々と婚約破棄を宣言する側近たち。次はお前の番だとばかりに殿下が俺を肘でつつく。
俺を見つめるセリーヌと目が合った。不安に揺らぐその瞳に気後れしながらも口を開こうとした、その時――。
「そこまでだ!」
国王陛下と共に王宮騎士が会場へとなだれ込み、俺たちは捕らえられた。
俺たちの行動は監視されていたのだ。卒業パーティで騒ぎを起こすと知り、陛下はベランジェ侯爵家と内密に調整済みだったらしい。
メロディを虐めていたという事実はなく、全て彼女の虚言であること。
王命で定めた婚約を勝手に破棄し、公の場で騒ぎを起こしたこと。
それらの罪で、王太子殿下は王族から除籍。側近たちも廃嫡され、あるいは貴族籍から除籍された。
俺も側近を解雇され、今後王宮へ上がることは一切禁止。学院を卒業した後は父の下で執務手伝いをすることになった。ロージェル家にも累が及んだが、過去の功績を鑑み、一部領地を返還することで処罰を免れた。
それでも廃嫡せずにいてくれたのは、両親の愛情ゆえだろう。
いずれ国王となる殿下へ側近として仕え、家のことは賢妻のセリーヌに任せる……思い描いていた順風満帆な人生は閉ざされてしまったのだ。
「セリーヌ。済まないが、君を愛することはできない」
今なら分かる。それがどれだけ残酷で身勝手で、セリーヌの心を深く傷つける言葉だったことを。
しかしあの時の俺は、これが最善だと信じていた。
メロディを愛する心を押し隠して良い夫のフリをするのは、メロディに対しても妻に対しても不誠実なことだろう、と。
「あれがロージェル伯爵令息か?殿下と共に、あの悪女へ侍っていたそうじゃないか」
「家の金を持ち出して貢いでいたらしいぞ」
「よく顔を出せるものね。恥ずかしくないのかしら」
夜会に出席しても俺に近寄る者は誰もいない。それどころか侮蔑の視線を向けられ、聞えよがしに悪口を囁かれる。それでも招待を受ければ出席しないわけにはいかず、早く終わってくれと願いながら壁の一部になって耐えていた。
一方で、セリーヌはご夫人たちに交じって楽しそうに談笑している。それがまた俺を惨めな気分にさせた。
彼女は我が家のために人脈を繋ごうと懸命だっただけ。ロージェル伯爵家というだけで、彼女を白い目で見るのもいたのに……それでも愚痴一つ言わず努力する妻がどれだけ得難い存在だったか。
頭では分かっていた。両親からも妻を大切に扱うよう、きつく言い含められている。しかしあの時の俺は、彼女へ頭を垂れたくなかったのだ。
そんなある日のことだ。メロディが行方不明になったというニュースを目にしたのは。
魔獣のうろつく森で彷徨ったのだ。生存の可能性はゼロに等しい。
二度と会えなくとも、彼女が生きているのならば。それだけが俺の救いだったのに。
それから俺は、メロディの幻に悩まされるようになった。眠ろうとすると血だらけで恨めしい顔をしたメロディが立っているのだ。昼間でも物陰に彼女がいるような気がする。
メロディだけではない。その後ろには王太子殿下や側近たちの姿もあった。彼らは俺を恨めしそうに、あるいは怒りを込めて見ている。『なぜお前だけが安穏と過ごしているのだ』と言わんばかりに。
「メロディ、ジュスト殿下……済まない……何もしてやれなかった俺を、許してくれ……」
一睡もできない状態が続き、ついに精神が限界に達した。
部屋から出ることも出来ず、俺は頭を抱えて蹲ってしまった。すぐそこに彼らがいて俺をのぞき込んでいる気がして、顔を上げられない。
そうして何時間経ったろうか……。誰かに「シルヴァン様」と呼び掛けられた。先程まで聞こえてきた恨みのこもったものとは明らかに違う、優しい声。
メロディなのか?無事だったんだな。君に、ずっと会いたかった……。
そして正気に戻った時――目の前に広がる光景に茫然とした。俺の下に横たわる妻の乱れた着衣が、手酷く扱われたことを物語っている。
俺は何てことを……。セリーヌには何の罪もないのに。
泣かれることも怒鳴りつけられることも、覚悟していた。だけど妻は慈母の如き優しい微笑みと共に俺を抱きしめてくれたのだ。その温かさは今でも覚えている。
「いいのですよ。さぞやお辛かったでしょう」
俺は彼女へ抱きついて、その胸で幼子のように泣いた。
頭を撫でる慈愛に溢れた手が、俺の傷ついた心を癒してくれる。気づけばメロディの幻は消え失せていた。
「本当に済まなかった。俺は……ずっと後ろめたかったんだ」
これは俺の弱さが招いたこと。本当は、セリーヌを愛し始めていると気づいていた。だけど自分の罪から逃れたくて、目を逸らしていたんだ。
そんな俺を許し、愛し、支え続けてくれたセリーヌ。この女神の如き寛大で素晴らしい女性を、どうして俺は粗略にしてきたのか……。時を戻せるなら、過去の俺を殴り飛ばしたいくらいだ。
そうして俺たちは真に愛し合う夫婦となった。
メロディの事は、もう俺の中では過去のものでしかない。あの手紙は暖炉で燃やした。
父が隠居し俺がロージェル伯爵家の当主となり、ほどなく長男も産まれた。思い描いていた未来とは違うけれど、幸せな毎日。それがこれからも続くと信じていた。
「奥様、お手紙が届いております」
半年くらい前から、妻宛ての手紙が定期的に届くようになった。差出人のロドリグという名前に覚えはない。セリーヌの実家や親戚にそんな名前の者はいなかったはずだ。取引先の相手なら、俺を通すだろう。
手紙を受け取ったセリーヌはいつも顔を綻ばせる。その嬉しそうな表情に、ひどく胸がざわついた。
「その手紙は誰からなんだい?いや、咎めているわけではないのだが……頻繁に届いているようだから気になって」
きっと遠い親戚だろう。あるいは学生時代の友人かもしれない。そうであって欲しい。
そんな願いは「私の愛する方からですわ」という返答に砕け散った。
がつんと頭を殴られたような衝撃に、俺はよろめく。
それが親愛でないことは、妻の顔を見れば分かる。頬を赤らめる妻の顔は……まるで、初めて恋を知った少女のようだ。
「……不貞をしていたのか?」
「いいえ?」
妻はきょとんと首を傾げながら答えた。何を聞かれているか分からない、という顔で。
「誓って不貞行為はしておりません。二人だけで会ったことはありませんもの。手紙のやりとりだけですわ」
「し、しかし。君はその男を愛してると言っただろう。夫以外の男へ愛を向けるのは、浮気ではないのか!?」
「約束したではありませんか。身体の関係を持たなければ、愛する人を想うことは許すと」
「う……」
確かに言った。あの初夜の会話で。
正直、本気にはしていなかったのだ。俺が愛せないなどと言ったから、悔し紛れにあんなことを言い出したのだろうと思っていた。
セリーヌは最初から俺を愛していなかったのか?
いや、手紙が届くようになったのは半年前からだ。どこかの夜会で会った男かもしれない。
不貞はしていないという言葉は信じる。セリーヌは嘘をつくような女性ではない。しかし身体を繋げなくとも、その男とは心を通わせている……。
今日もまた、妻へ手紙が届く。手紙を持っていそいそと部屋へ戻ろうとする妻を、俺は黙って眺めるしかない。
胸が締め付けられるように苦しくなる。
どうして俺はあの時、あんな約束をしてしまったのか。なぜ初夜でセリーヌへ愛せないなどと言ってしまったんだ。いや、そもそも……なぜ一時とはいえ、他の女に心を移してしまったのか。
父の言は正しかった。メロディはジュスト殿下の寵を得るために、俺を含む側近を言葉巧みに籠絡したのだ。俺は利用されただけだった。
あんな売女に騙されなければ……。セリーヌは今でも、俺だけを愛してくれただろうに。
◇ ◇ ◇
私は届いた手紙をそのまま暖炉へと放り込んだ。中身を確認する必要はない。入っているのは白紙なのだから。
ロドリグなどという男性は存在しない。友人に頼んで、定期的にその名で手紙を送って貰っているだけ。
その友人とは、私と同じくジュスト殿下の側近の婚約者だった女性たちだ。ちなみに皆、別の相手と結婚して幸せに暮らしているわ。
シルヴァンの心無い言動を知った彼女たちは憤慨し、喜んで協力を申し出てくれた。そして交代で、私宛てに白紙の封書を送ってくれるのだ。
毎回違ったところから送られるのだから、出所を突き止めるのは難しいでしょうね。
それに、例え分かったとしても差出人は女性だもの。ちょっとした悪戯だと言えば咎められることもないでしょう。
そして私はまるで愛する人から届いたかのように頬を染め、その手紙を受け取るのだ。夫は何も言えず、ただ顔を歪めて苦しみに耐えている。
彼の愛がメロディにあるうちは、こんなことをしても意味がない。だから夫の心が完全にこちらへ向くまで待っていた。
夫から感謝の言葉をもらった日。あれが復讐を始める合図だった。
愛する人に裏切られ続けるのは、さぞ辛いでしょうね。
私は10年近くその苦しみを味わってきた。だから私の気が済むまで、夫には付き合って貰うわ。
私だって、最初からこんな悪戯をするつもりはなかったのよ。
結婚式の日にあんな事を言われなかったら。あるいは彼が私へ、そして自分の罪へきちんと向き合っていたなら、許してあげたのに。
今夜もシルヴァンは私のもとへ来るだろう。
手紙が届くと、彼は決まって私を抱くのだ。
切なげな声で私の名を呼びながら激しく、何度も何度も。まるでこの身体が自分の物だと、知らしめるかのように。
その様子に私はひどく充足感を覚える。
だって、彼の心は私への愛と嫉妬に支配されているのだもの。
ねえ、メロディ様。
貴方がいま天国にいるのか地獄にいるのかは分からないけれど、見ていらっしゃるかしら?
シルヴァンの心は、今や私のことでいっぱい。
メロディ様の事なんてほんの少しも想っていないでしょう。それどころか、貴方のようなタチの悪い女に引っかかったことが口惜しいとも呟いていたかしらね。
どう?悔しいでしょう?