忘れた何か
翌日、ローズ主導のマナー講座を午前に。午後はライルの魔法訓練を眺める予定のグレイは身支度を整えローズの元に向かう。
継母であるローズとは仲が良い訳ではないが険悪という訳でもない。ある程度家族として認めてくれていて、必要最低限の貴族として身に付けるマナーを教えてくれる。
基本不機嫌だが、偶に褒めるローズが根は善人である事をグレイは理解している。
「遅いわよ、グレイ。10分は前に来なさい」
広い部屋に机と椅子、大きな鏡が置かれたローズがライルに教える為の部屋には既にライルとローズが待っていた。リリィが居ないのは身体が弱いのとまだ勉強はしなくて良いと言うアルベルトの判断だ。
『ごめんなさい』
グレイはメモ帳にそう書いて見せ、着席した。
それからは社交界のマナーや気をつける事、付き合う派閥やダメな派閥など領主夫人の主戦場の授業を受けた。
特に魔法が使えないグレイはそれが嘲笑の的にならないくらいに完璧になりなさい、と徹底的に指導された。
ある程度扱かれたところでローズの授業は終わり、家庭教師と交代する。そこからは水を得た魚のように生き生きとするグレイと萎びたライルに分かれた。
「なんでそんな元気なんだ……」
『だって知らない事を知れるのは楽しいでしょ?』
「そうか?」
あまり共感されなかったグレイだがそもそもライルに期待はしていない。そろそろもう一人来るはずなのだ。
家庭教師の授業が終わり、部屋の扉が静かに開く。
「お姉様、授業は終わりましたか?」
『うん、終わったよ』
儚くも溌剌とした様子で飛び込んできたリリィにグレイは姉として優しく対応する。ライルとしては妹を盗られるのが少し癪なのだがそれでリリィが喜ぶのなら、と複雑な心境を心に秘める。
「なら今度はこの本を読んで欲しいです!」
『良いよ、部屋に行こう』
「はい!………ほらお兄様も!」
「わかったわかった、自分で歩くから」
最初に話しかけられたのがグレイだったことには悔しいが、それはそれとして妹に選ばれたのがそこはかとなく嬉しく手を引かれながらついていく。
グレイ達はリリィの部屋に到着し、ベッドに仲良く腰掛ける。グレイとライルの間にリリィが座る形だ。
「珍しいな、リリィが英雄譚なんて」
「偶には良いと思って」
「へぇジークバルドの英雄譚か。相当マイナーな奴だな」
「そうなの?」
「あぁまぁ今言うと面白くないからな、読んでからにしよう」
そう言うとライルは本を読み始める。愛する妹のために読むのだ。それはもう真面目に迫真に読んでいく。
リリィはその語りにハラハラドキドキしながら目を輝かせて聴いている。
そんな中、やはりグレイは何かを忘れているような感覚が気になって仕方ない。特に本を読み始めてからはそれが顕著になってきた。
英雄譚が何かの手がかりなのかそれとも別の要因なのか。ついぞ思い当たらなかったがライルの語りを静かに聴く。
「ジークバルドは少女の加護を得て魔獣に立ち向かう!愛する守るべき街を背に彼は魔獣の懐へと滑り込み一断ち!見事に斬り去ったジークバルドは街の英雄として迎えられたのだった」
「かっこよかったです!魔獣ってすごく強いんですよね?」
「そうだな、これが実話かは知らないけど貴族だって一人で立ち向かったりはしない。もし、一人で倒したのだとすれば偉業だろうな」
リリィとライルが英雄譚の感想を言い合う中、グレイは何か頭の隅をフラッシュバックしたような感覚に陥った。それが何だったのかは夢のように消えてしまったが。
「私も身体が丈夫なら外に出ていろんな場所を見てみたいです」
「うーん、少し難しいなぁ。俺たちは貴族だから他の領地に入るのはちょっと、な。それに危険だってある。魔物に魔獣、それから人。護衛は必須だからそんなに遠くはいけないな」
ライルの判断は尤もでそれはローズも昨日の食卓で言っていた事だ。その渦中にいたリリィだからこそ、その通りだと諦めた。
『でも、見てみたい。海も山もここでは見れない物を自分の目で』
「姉上は特にダメだろう……魔法が使えないんだから自衛出来ないし。遠出なんかしたら護衛の肝は冷えっぱなしだ」
ライルはグレイの発言をを茶化すが本人は本気だった。どんなに本に囲まれてどんなに穴が開くほどに読み込んだとしてもそれはただの知識。記憶には遠く及ばないのだから。
リリィの読み聞かせも終わり、夕食を終えたグレイは再び自身の部屋で心に浮かぶ感情を胸に手を当てて考察する。
(何でこんなに変な気持ちになるんだろう。あともう少しで思い出せそうなのに何かが足りない気がする)
考えすぎて目が冴えてしまったグレイは蝋燭に火をつけて自身の感情が何なのか本の虫になりながら考える。しかし、どんな本を読んだところで答えなど書いてはいない。
(魔法が使えたら、外に行けるのかな……)
グレイは小さく燃える蝋燭の火を眺める。これもわざわざ自分で火を付けているのだ。ライル達ならば魔法で楽々と灯せるというのに。
小さな灯りに手を伸ばす。
たった指一つ分の火ですらグレイの思うようにはいかない。何もかもが充足しているのにも関わらず自分の力では外に出ることすら叶わない。
(まるで鳥籠みたい)
一言溢したその言葉は思いの外ストンと忘れていた何かを少しだけ埋めた気がした。




