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グループ二・大学生


  グループ二・大学生


 私は不幸だった。生まれてすぐ、両親に捨てられたから。        ・・

 私は幸せだった。たった一人の父親が私を拾ってくれたから。

 私には本当の両親と過ごした思い出が無い。特に、私は母親という存在がどういったものなのか、未だ理解できずにいる。優しい父親はいたけど、血は繋がっていない。

 私は生まれながらにして孤児だった。

 あの日の事を、今でも忘れずに覚えている。

         ↓

 中学生になったある日の事。私が学校から帰ってくると、父さんは重苦しい表情で居間のちゃぶ台を前に座っていた。庭とここを挟んだ窓から差し込む夕日が、どこか物悲しげな雰囲気を作り上げている。

「汐莉」

 ひどく疲れたような声で、私の名前を呼んだ。私の返事を待たずに言葉を繋ぐ。

「……お前に話さないといけない事がある」

 父さんは一度口をつぐんだ。どうしても話づらいようだ。

 私は肩から下げていたカバンを放り投げて、父さんの向かい側に滑りこむように座わった。

「私の両親の事だよね……。本当の……」

 図星だったようで、父さんは唇を小さく噛んだ。しばらく返事を待つと、心の中で自問自答をしたかのように数回頷く。

「分かっているなら隠さずに言おう。お前は、俺の本当の娘じゃない。お前はまだ赤ん坊だったから、自分が拾われた事を知らないだろうが」

 そんな事は無かった。中学生にもなって、母親がいない事実に気づかない筈が無い。周りの友達にはいるのに、私には父親だけ。私が小学生ぐらいの時から気付いていたけど、聞くに聞けない感じだった。

 私が首を横に振ると、父さんは驚いたように目を見開く。それも一瞬だけで、どこか納得したように穏やかな目の色に変わる。

「あれは、俺が川原を歩いている時だった。冬にもかかわらず枯れた草が伸び放題で、草の背が膝の高さはあったっけな。丁度その草の陰に隠れるように、お前がいた。まだ赤ん坊だった。温かそうな布に巻きつけられて、そこから顔を覗かせていたよ」

 昔の思い出を懐かしむようにしみじみと語り始める。私と目を合わせようとせず、どこか遠くを見るような目つきで窓の外を眺めていた。

「俺はびっくりした。泣き声一つも上げやしないから、最初は死んでいるかと思ったよ。急いでお前を抱え上げて、生きている事を確認したさ。そんとき、布の中に小さな紙きれを見つけた。何だろうと思ってそれを見て見ると、弱弱しく整った字で、野中と書いてあった。これは赤ん坊の名字なのだと俺は思った」

「そう書いてあったから、私の名字を父さんと合わせなかったの?」

「そうだ。どういう思いでこの名字を残したのかは、俺にも分からない。何か考えがあってそうしたのか、意味も無くそうしたのか。本人にしか分からない事だ」

「…………」

「とにかく。このままにしておくわけにもいかなかった。とりあえず、俺は近くの交番に行って警察に届けた。生まれて初めて交番に入ったのが、赤ん坊を届ける事になるなんてな。あの頃は考えもしなかったよ。警察に相談した結果、親を探している間は赤ん坊を俺ん家で預かる事になった。俺はずっと一人身で、子供の世話なんてした事無いもんだから結構苦労したよ。自分なりに色々調べて、まともな世話が出来るようになったのは一週後ぐらいだったかな」

 自分が苦労していた時の記憶でも蘇ったのか、父さんは静かに笑みをつくっていた。

「……悪い、話がそれたな。それから数週間が経って、警察の方から連絡があってな。どうやら両親は行方不明になっているらしいと。だったら、赤ん坊はどうなるのかと気になってな。俺は聞いた。そうしたら、施設に送られるだろうって言ってきた。俺は無性に心苦しくなって、つい自分が引き取りますと口走ってしまったんだ。俺が長い間一人身だったせいもあるんだろう。その赤ん坊を育てるうちに、妙に愛着が湧いてきてな。お前と過ごすのが楽しくなっていたんだよ。今だってそうさ。毎日が楽しくて仕方が無い。だからこそ、こんな話なんかをして、お前が俺から離れていかないか怖かったんだ。今まで黙っていて、すまない」

 父さんは私に向き直って、深々と土下座をした。床の畳に頭がつきそうなほど深く、頭を下げる。

 私は驚いて立ち上がり、父さんの傍に駆け寄った。肩に手をかけ、頭を上げるように促す。

「止めてよ、父さん。私は別に怒ってなんか無いよ。それに、私は父さんから離れて言ったりなんかしないよ。絶対」

 父さんが頭を上げ、やっと私の目を見てくれた。瞳にほんのり水気を含んでいる。それは自然な状態で、泣いているのかいないのかは分からない。

「本当か?」

「うん。だって、私の父さんだよ。出来る事ならずっと一緒にいたいくらい、大好きな家族だもの」

 私はそっと父さんを抱き締める。父さんの体に触れると、楽しかった沢山の思い出が蘇るようだ。あんな事や、こんな事。辛い事や悲しい事が、父さんの体から私に染み込んでくる。

 庭の塀よりも高く昇った儚げな陽の光が、私と父さんを柔らかく包み込んでくれた。その光は意地悪くも、私の目の潤いを乾かそうとしている。

 その日の夜は、まるで昔話をする同級生のようにして過ごした。

         ↓

 私は満ち足りていた。本当の親がいなくても、父さんのおかげで楽しい毎日を送る事が出来た。平凡なようで、どこの家族よりも幸せである自信があった。

 だからこそ、あんな事が起こるなんて思ってもいなかったんだ。


 私は目を開けると、うっすらと神崎君の姿が見えた。寝起きのせいで視界がぼやけているが、なんとなくそれは神崎君だと分かる。

「……やっと起きたか」

 私の方にちらっと目を配り、そう言った。

「ここは……、どこ?」

 私は体を起して、目元を擦りながら辺りを見回す。少しずつだが、視界がはっきりしてくる。

 細長い通路に私はいた。横長い椅子が向かい合うようにして壁に取り付けられている。私も神崎君もその椅子に座っているようだ。壁には三段に区切られている窓もあり、外は暗くなっているようでよく見えない。というか、壁自体が茶色く塗られているようで、この通路まで薄暗く見えてしまう。

「忘れたのか? 俺達は電車の中にいるのだろう?」

 神崎君は小さな手帳を片手に、ペンを走らせながら言った。そう言われてみると、ここは電車の車内という構造をしている。でも、私達が最初にいた電車とは全然違うような。

「ねえ、なんか車内の雰囲気がさっきと変わってない?」

「……よく気付いたな。この電車は国鉄63系、一九五〇年頃に大量製造された木製の電車だ。自動ドアは幅一メートルの片開き扉で、車両の片側に四つずつ設置されている。カバーなしの照明裸電球が八つで、貫通路の渡り板も省略されている。ある事件をきっかけに、一九五〇年以降は製造されなくなった物だ」

 打てば響くような返答だった。

 神崎君は中々の博学で、様々な分野の知識に長けていると聞いていたけど。まさかそこまで昔の事について知っているとは思わなかった。年代、分野、雑学問わずに神崎君はなんでも知っているのだろうか。一体どこから、どうやってそんな知識を蓄えているのだろう。

「物知りだね、神崎君」

「これくらい常識だと思うが。君に知識が足りていないだけだろう」

 平然とした様子で、さも普通であるかのような口調だった。神崎君は他の人とレベル、いや次元が違う。大学では随分と敵が多かったようだけど、頭の出来が違い過ぎて疎まれていたせいなのだろう。私はそれだけが原因じゃない気がするけど。それは本人に悪気は無いのだろう。

 それと、もう一つ気になっている事がある。

「神崎君。なんで私を名前で呼んでくれないの? 私には野中汐梨という、親からもらった大切な名前があるんだけど」

「赤の他人を名前で呼べる訳無いだろう」

 おっと。そうきたか。ここまで行動を共にし、ある程度会話を交わしてもまだ赤の他人とは。少なくとも、私は友達だと思っていたけれど。

 私は顔を引きつらせながら笑みをつくり、一つ聞いてみた。

「じゃあ。神崎君にとって友達ってのは、どういう関係を言うのかな?」

 神崎君はペンを持つ手を止め、私をじろっと見つめてきた。あまりにも冷たい視線に、私は恐怖にも見た感情を体感する。これは睨みつけられたと言う方が正しいかもしれない。

「…………っ、何? ちょっと怖いよ」

 神崎君は自嘲するように薄く笑った。

「俺に、友達がいると思うか?」

 言われてみると。思い出してみれば、大学で神崎君を見かけるのは庭のベンチ――しかも、一人で読書をしていた。友達と親しげに話している神崎君の姿を一度も見た事が無い。

 私は軽率な発言をしたと思った。嫌味な自分。神崎君がいつも皮肉を言っているとはいえ、自分が言われ慣れているとは限らない。

 私は神崎君に向かって深く腰を折る。

「ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃなかったの! 本当にごめんなさい!」

「…………。別に、気にしていない」

 それでも私は顔を上げなかった。気にしていないと言っただけで、許すとは言ってなかったからだ。私は腰を深く折った体形をそのまま維持し続けた。

「いい加減顔を上げろ。俺が悪い事をしたようで気分が悪い」

「でも!」

 頑固な私に呆れたのか、声の混じった溜め息が聞こえる。そんな反応も辛かったが、これも私に対する罰だと思い耐えるしかない。

「君のような奴は初めてだ……」

 私が顔を上げると、神崎君は片手に持つ手帳をぱたんと閉じる。

 私は驚いた。手帳を閉じた音にではなく、神崎君の言葉に。いつもの刺々しい無感情な声ではなかったからだ。まるで、何かを求めているような――それも温かい何かを。目の前にいる神崎君が、もっと遠くにいるような気がした。

「俺は家族の愛情と言うものを知らない。一緒に過ごした時間が少ないからだ」

「……どうして?」

 聞こうかどうか迷った末に、小さな生唾を飲み込んで私は言った。

 神崎君は見えるはずの無い、移り変わる外の景色を眺めている。

「俺は生まれてすぐに親の親戚の所へ預けられた。そして物心がついた時から、俺は一人暮らしを始めていた。家事のやり方は親戚から教えてもらったが、俺にとっては大して難しい事では無かったからな。親戚が俺の事を薄気味がっていたせいもあるかもしれない」

「親は? 何で神崎君を手放したの?」

「父も母も、将来を有望視される天才科学者だったからな。子育てする暇があるなら、研究や実験に時間を費やす。好奇心の塊である人間なら当然の事だ。俺だってそうする。聞いたこと無いか? 結構有名な科学者だぞ」

 そういえば、確か新聞で見た事あるような。最近ではテレビにも出ていた気がする。

「神崎君の両親って、あの神崎夫妻? 医療から宇宙までの幅広い分野において、新たな可能性を切り開いているあの科学者?」

 神崎君は鼻を鳴らして答える。

 私は度肝をぬかされた。まさか、神崎君がかの有名な神崎夫妻の息子だったなんて。なんで今まで気が付かなかったんだろう。名字も一緒だし、この異様なほどに優れた知能を持っている事にも納得がいく。

「だけど、神崎君って表舞台で全然騒がれないよね。なんだろう」

「簡単な事だ。父と母も、俺を生んだ事実を隠している。戸籍上も、俺は両親の親戚が生んだ事になっているからな。親戚なら姓名が同じで誤魔化す必要も無い。恐らく、子供が出来る事で自分達の研究が憤るとでも思ったのだろう」

 神崎君は車窓の縁に肘をつき、手の甲で頬を支えていた。一見、その事に対して何も思っていないように見える。

 だが私は分かってしまった。神崎君のどこかに、一人うずくまる悲しい気持ちが潜んでいる事を。神崎君は親の愛情を知らない。本当の両親と過ごした思い出が無い私と、どこか似ていた。ちょっとした親近感とでも言うのだろうか。

 神崎君は人との接し方を親から教わっていないのだ。それは必然的に孤独と言う道へ放り投げられた事になる。だから、人に対して毒のある言い方しか出来ず、友人より多くの敵をつくってしまう結果になったんだ。

「私もね。本当の両親と過ごした思い出が無いの」

 私はいつの間にか自分の事を喋り出していた。神崎君は私の話を止めようとはせず、黙って聞いてくれている。

「血の繋がっていない父さんに拾われたんだ。それでも、私はすごく幸せだったんだよ。決して裕福でも無く、地味な毎日を過ごしていた日々でも」

 私にとって父さんは本当の父親だった。血は繋がっていなくても、心では繋がっていたからだ。ある時一度だけ。本当の父さんと母さんに会ってみたいと思った日が、一度だけあった。

「でもね……。私がバカな事言っちゃったせいで。……父さんは死んじゃった」

 そう。本当の両親ってどんな人だろう、と父さんに言ってみたのがいけなかった。

 私がある朝目を覚ますと、父さんはいなくなっていた。居間と台所、寝室の三つしかない部屋を何度も探し回ったのを、今でも覚えている。警察に届けて、数日経ったある日に。父さんの死体が遠くの某県で見つかったのだ。

死因は通り魔にナイフで刺され、大量に出血した事によるものだった。

 私は憎んだ。心の底から自分を憎んだ。幸せな日々が続いていたのに、私が自分の手でそれを壊してしまったから。

 神崎君の姿が霞んで見える。なんでだろう。体の奥底からむずむずした気持ちが溢れだしそうになる。

「そういえば。さっき言いそびれた話があったな」

 神崎君がシーツから腰を離し、話を切り替えようとする。一歩踏み出せば体が触れ合いそうなほど距離が近い。手を少し伸ばせば、お互いを抱きしめ合う事が出来そうだ。私に気を遣ってくれているのだろうか。

「……話って?」

「約六十年前に起こった、列車の大火災事故だ」

 私は一拍子遅れて、話の内容を思い出した。

「ああ。あれね」

「思い出したか。その事故には多くの死傷者が出た、と言う所からだったな。その死亡者の多くが未成年。つまりは子供だった。当時の話によると、負傷者三百人に対して死亡者は三十人だとされている。この事故で多くの婦人が子供を亡くしたそうだ」

 可哀想な話だと思った。負傷した被害者も可哀想だけど、何より子供を失った婦人に同情心が湧いてくる。婦人は子供を失った悲しみが、死んだ子供は親から引き離された悲しさがそれぞれにあったはずだろう。

「ここからが本題で、俺の推測だ」

 神崎君がすっと目を閉じ、開け放つと同時に話を始める。

「まず、分かっている情報を整理しよう。一九五〇年に某列車事故が起こった。乗客であった子供達のほとんどが孤独死している。俺達が乗っているこの電車は、当時の事故を発生させた国鉄63系の電車だ。これらの事から考えられると。俺達をここへ閉じ込めたのは、事故で死んだ子供達の霊だろう」

 体が硬化したような感覚に襲われる。これが幽霊の仕業だと言うのが信じられない。そもそも、幽霊の存在自体がオカルト的過ぎる。

「そんな、あり得ない。だって……」

「すでに俺達は子供の霊を目撃している。もっとも、さっき俺達を襲ったのは、その霊に殺された被害者の霊だがな」

「でも、そんなオカルト染みた話を……」

「そもそもオカルトという語源はラテン語で、隠されたものと言う意味だ。俺達人間が考える科学はまだ不確かなものであり、オカルトの範囲を逸していない。解明できない事実を非現実的だ、オカルト的だと片づける人間は現代科学を否定しているにも等しい。科学と言う分野は表面上の事は解明されているが、根本的な事は何一つ分かっていない。俺は心霊も科学も同じものだと考えている」

 一切の異論を認めない構えだ。あの神崎君からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。無知な私が反論しようものなら、たちまち論破されてしまうだろう。私は悔しかったが、自分の考えをはっきり言える神崎君に少し憧れた。

「じゃ、これが霊の仕業として。何故、大勢の乗客をここへ閉じ込めて殺すの? 生きている人間に対する逆恨みだとしたら、たまったもんじゃないわ」

「逆恨みでは無いだろう。子供の霊にとって、これは遊びのようなものかもしれない」

「遊び?」

 心に思った事が口から飛び出す。意外すぎる答えに、私は露骨に首を傾げた。

「恐らく、孤独を紛らわせるためだ」

 寂しいから人を殺す。訳が分からない。寂しさの余りに他人を監禁するならまだ分かるが。私は理解出来ず、さらに首を傾げた。

「なんで孤独だから殺すの? 閉じ込めたまま生かしておけばいいのに」

「それじゃ意味が無い。霊はすでに死んでいる。生きている人間とはどうやっても交わる事が出来ない。殺して同じ霊にでもしない限りな」

 神崎君はそう言って、手に持っていた手帳で口元を覆う。

 なるほど。生者と死者の間には決定的な壁があるのか。生きているか、死んでいるか。単純なようであまりにも違う、厚い壁だ。それにしても。

「さっきから気になってたんだけど。その手帳、何が書いてあるの?」

 私はその手帳を指で差しながら聞いた。ノートをコンパクトな大きさにしたような感じで、黒い革でカバーされている。高級感が漂う上品な手帳だ。

「これか」

 神崎君が口元から手帳を離し、それに視線を落とす。

「すまないが君には教えられない。だが、後々役に立つだろう。……俺自身に役立つかは疑問だが」

 いつもとは違い、少々憂いのこもったような表情で神崎君は鼻を鳴らす。

 私はちょっとばかし残念に思った。まだ神崎君は私に心を許してくれないようだ。

「それより」

 神崎君はズボンのポケットにそそくさと手帳を仕舞った。

「問題は脱出方法――いや、霊の説得方法だ。」

「説得ね……。人を簡単に殺すような霊と、話し合いなんて出来るようには思えないけど。退治するとか、成仏させるとかは出来ないのかな」

 どう考えても穏やかな解決方法が見つからない。相手は子供とはいえ人殺しの霊だ。遭遇すれば即殺されるのは間違いないだろう。

「霊を成仏させるのは難しい。魂がこの世に残留する原因を、霊が納得する形で解決しなければならない。やはり、生還できる確率が一番高いのは説得だ」

 神崎君はそれしか無いばかりに断言する。私は目を瞠ったが、まあ彼の事だ。ちゃんとした根拠があってそう言い切っているのだろう。

「説得できる自信があるの?」

「少しな」

 自信有りげに控えめな相槌を打ってくる。あれ? っと、私は気が抜けた表情をし、神崎君をしげしげと見返す。依然として、神崎君の顔は仮面のように表情を変化させない。

「は~っ」

 私は根負けし、溜め息をつきながら側のシートに座った。がっちりとした木材の質感が私の腰を受け止めてくれる。木の椅子に布をかけただけのシートで、座り心地はいまいちだ。六十年も前の電車はどれもこんな感じなのだろうか。神崎君ほどの博学ではないので考えるだけ無駄だった。

 私ががっかりして項垂れていると、

「成功した例もちゃんとある」

 神崎君が付け加えるように言った。

 それはつまり、ここから脱出できた人がいるって事? がばっという擬音が付きそうなほど勢いよく顔を振り上げる。

「本当なの?」

「ああ。最近話題になっていた、乗客大量失踪・列車事件を思い出してみろ」

 乗客大量失踪・列車事件、最近ニュースでよく聞く事件名だった。概要は実に単純明快なもので、電車に乗った人達が突然消えてしまう事件だ。今日までに発生した事件数は五件。前触れも無く発生するこの事件は、一種の神隠しとも言われている。

 初めてこの事件が発生したのは去年の冬頃だったと思う。ある駅で、運転手交代のためホームで待機していた駅員がいた。電車が到着し、その駅員は確認のため運転席を覗いた。しかし、運転席には誰もいなかった。それどころか、その電車には一人も乗客が乗っていなかったという。すぐさまその電車の運行を見合わせ、警察に協力してもらい原因究明を急いだそうだ。結果は言わずとも、何も分からずじまい。

 何も出来ないまま、五件もの事件発生を許してしまう事になった。ただ驚く事に。五件のうち二件だけ、それぞれ一人ずつ生存者がいた。一人は血だらけの衣服を纏った姿で、空っぽの電車内において。もう一人はほぼ無傷の状態でホームに立ち尽くし、ホームを横切る電車を眺めていた所を、それぞれ駅員さんに発見されたそうだ。

「もしかして、その事件の生存者が……」

「恐らくそうだろう。子供の霊をなんとか説得し、元の世界へ帰してもらった」

「なるほど……って、ちょっと待って。要するに神崎君は、私達がその事件に遭遇しているって言いたいの?」

「そうだ」

 神崎君は力強い声で言った。

 私があの神隠しにあっている。つい昨日まではただの傍観者だった私が、今ではすっかり被害者に成り果てているのだ。まったく、人生とはいつ何が起こるか分からない。

 いやいや。今はそんな悠長な事を考えている場合じゃない。

 私はシートから立ち上がり、神崎君に詰め寄る。成功例があると言うなら話は別だ。

「だったら早く、その霊の所に行こうよ」

 私がそう急かすと、神崎君は不意を突かれたような顔をする。私、何か変な事を言っただろうか。

「ふっ。おかしなものだ」

 神崎君の口元がほのかににやける。ますます意味が分からない。

「何?」

 私が眉を歪ませ聞くと、神崎君は軽く咳払いをして表情を元に戻した。

「いや、すまない。人間とは、短期間でここまで変わるものだなと思っただけだ。ここに閉じ込められた時よりも元気になったな、君は」

 今度は私が不意を突かれた。まさか、神崎君からそんな言葉が出てくるなんて。こう見えて、意外に私の事を心配してくれていたのかな。なんだか胸が締め付けられるような感じする。もしかして私、ときめいちゃった?

「まるで、餌を見つけたハイエナのようだな」

 面白がるような様子で、神崎君は失礼な喩えを丁寧に述べた。

 胸の内が悪い意味ですっきりする。私の甘いひと時を返せと叫びたくなるが、すんでの所で思い止まった。あの神崎君だからしょうがない。むしろ、空気を読めない所が彼らしいじゃないか。

「……どうやら。ハイエナがもう一匹餌を嗅ぎつけてきたようだ」

 神崎君が私を見ながら言った。いや違う。私の背後を見ているのだ。

 私は後ろを振り向かず、向かい側にある車窓を見てみた。外の暗闇にではなく、窓に反射した車内へ目のピントを合わせる。すると、私のすぐ後ろに、ぼんやりとした人影が立ち尽くしていた。


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