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グループ一・高校生


  グループ一・高校生


 中村さんが死んだ。

 その事実はあまりにも重すぎた。

「嘘だろ……」

 事実を否定する僕の言葉は虚しく空を漂った。

 中村さんの死体は床の白線を境に、体の正面と背面が綺麗に両断されている。切断面からこぼれ出す夥しい血液が、辺りの床をゆっくりと赤く染め上げていく。

 中村さんはやっと、未来を明るい方向へと見出す事が出来た。少しずつでも、前に進み出そうとしていたのに。

「なんで、死ぬんだ」

 これで二回目だ。僕はまた、友達を守る事が出来なかった。もう、絶対に友達を死なせないって決めたはずなのに。

「くそっ、いい加減にしやがれ!」

 秋山が堪え切れなくなった憤りを吐き出す。かすかだが、誰かのすすり泣きが聞こえた。仲のいい友達を失った事に、静川さんが耐え切れず涙をこぼしているのだろう。

「みんな、とにかく落ち着こうぜ。そうすりゃ……」

 山下がみんなを励まそうとした。だけど、秋山がそれを良くは思わなかったらしい。

「朋樹。中村が死んだんだぞ? よくそんなヘラヘラしてられるな。お前はいつもそうだ。そんな無責任な事ばっかりぬかしやがって!」

 秋山、それは違う。そう言いたかったが声が出なかった。中村さんの死に顔から目が離せず、体が言う事を聞かない。こんな時こそ冷静にならなきゃいけないのに、心と体が別々になっているようだ。

「止めてよ!」

 静川さんの大きな声が聞こえた。良かった。僕の代わりに秋山を止めてくれそうだ。

「ねぇ……。少し休まない?」

 喉から絞り出すように静川さんが言った。そこからみんなは何も言わず、とても気まずい沈黙が生まれる。


 何十分か経ち、僕はようやく離れ離れになった心と体を縫い合わせる事が出来た。床からゆっくりと腰を上げ、動けば軋むような静寂を見渡す。

 みんなはそれぞれ距離をとっていて、伏し目がちに床を見つめていた。身近な友人が目の前で死んだ事が、相当ショックだったのだろう。僕だって普通なら立ち直れない。でも、今は悲しみに浸っている場合じゃないんだ。

「秋山」

 一人で柵によりかかっている秋山に近づき声をかけた。

「裕介か……」

 虚ろな瞳で僕に視線を向けた。どうしたらいいのか分からないといった様子だ。

「さっきの事なんだけど。山下は――」

「分かってる。俺もどうかしてた」

 秋山は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。

 一方で、山下は地べたに座り込み何かに考えふけっているようだ。あいつがあれほどまで明るく振る舞おうとしているには理由がある。

「よくヘラヘラしていられるな、だとよ。俺はなんて最低な奴だ。朋樹が一番、人が死ぬ悲しみを理解しているはずなのに」

 その通りだ。

 高校一年生の時、山下は父親を交通事故で亡くしている。当然事故のショックを受けた山下だったが、それ以上に辛かったのがあいつの母親だった。山下から聞いたところによると、母親はそれ以来ほとんど喋らなくなったらしい。あいつの家庭は海底に沈んだ船のように静かだという。そのせいだろうか。せめて、学校だけでも明るく過ごしたいと思っているのだろう。

「なあ、秋山」

 秋山は何も答えない。

「こんな時こそ、冷静になって行動するべきだろ。秋山もそう言ったじゃないか」

 秋山の正面に立ち、訴えかけるように説得する。ちらっと渋ったような顔を見せたが、やがて心に決めたとばかりに柵から背を離した。

「そうだな。自分が言った事ぐらい、ちゃんと守らねえとな」

 言葉に少々迷いが見られなくもないが、なんとか立ち直ってくれたみたいだ。

「俺、ちょっと山下と話つけてくるわ」

 そう言って、秋山はその場を後にした。

 僕は静川さんを慰めに行かないと。ここで立ち止まったら、死んだ中村さんに顔向けが出来ない。

 静川さんの姿を探すと、鉄錆びた柱の近くにうずくまっているのを見つけた。

「静川さん」

 彼女の傍らに近づき、そっと座り込む。

 静かに息をしゃくり上げ、細々とした嗚咽の声を漏らしているのが分かった。顔を両手にうずめ込んでいるので、どんな顔をしているのかは分からない。静川さんの事だ。きっと顔を真っ赤にして、涙を溜める事無く流しているのだろう。

「…………」

 いざとなったら、どんな言葉を投げかけたらいいのか困ってしまった。悲しむな、なんて適当な事は言えない。僕自身が中村さんの死に、まだ整理がついていないのだから。それなのに、自分を棚に上げた言葉を口にした所で、相手を慰める事は到底出来やしない。じゃあ、何を言えばいい。友達の死という現実を受け止めきれず、悲しみに暮れている彼女になんて言えばいいんだ。

 死と言う現実。僕はその言葉にはっとした。

「なあ、静川さん。中村さんは、悲しそうだったよ」

「えっ?」

 脈絡のない僕の言葉に静川さんが顔を上げる。目元が腫れたように赤かった。

「僕は中村さんの本音を聞いた。静川さんが自分の事を助けてくれなかった、って悲しんでいたよ」

 僕が事実を告げると、彼女の涙腺が決壊しそうになる。

「今、静川さんが感じている気持ちと同じだったんじゃないかな」

 そうだ。それでも中村さんは。

「それでも、彼女は静川さんの友達でい続けた。誰も助けてくれないという現実を彼女は受け止めたんだ。きっと、辛い現実だったと思う。もし僕が彼女の立場だったら、自殺していたかもしれない」

 それでも、中村は。

「彼女は辛く悲しい現実を受け止めた。だから静川さんも中村の死という現実を受け止めるんだ。それが死んだ中村への、唯一の弔いだと僕は思う」

 静川さんは充血した瞳で僕はしっかりと見つめる。どう反応したらいいか困っている顔だ。

「中村も言ってただろ。安い同情は要らないって。だったらせめて、中村の分まで生きる努力をしようよ」

 かなり無理がある事を言っているのは分かる。中村の、僕の素直な気持ちを口にすれば納得してくれると思ったんだが。丁度、中村がそうだったように。

 静川さんは床に視線を落とし、眉間にしわを寄せた。自分は今どうするべきか、考えてくれているのだろうか。

 中村。って、僕はいつの間に彼女を呼び捨てにしてるんだ。いや、別にいいか。本音を語り合った仲に「さん」付けは要らないか。生きている内にそう呼びたかったな。くそっ。目から汗が出てきた。

「静川さん。ある程度気持ちの整理が付いたら、僕達の所に来てくれ」

 僕は少し上の方を仰ぎながら、秋山の所に向かった。


 僕は待合室の正面にいる秋山と山下と合流した。二人とも笑顔で肩に腕をかけ合っていた。仲直りはしたようだ。

 三人でこの後どうするかを話し合い、まずは中村の遺体を別の場所へ移動させる事にした。こんな無残な姿のまま、床に放置させておくのも可哀想だったからだ。

 別々になった中村の体を片方ずつ丁寧に運び出す。途中、何度か静川さんの方に目をやった。なんだかんだ言って、あれで立ち直れるか心配だ。待合室に運び込もうとしたが先客がいたので、代わりにホーム二階へ続く階段に寝かせた。

 別れた体の正面と背面を合わせ、階段の一段目に安置する。僕達も階段の一段、二段目に座った。中村の死に顔には今にも動き出しそうな生気が見られる――といっても、僕の未練がましい気のせいだ。

 秋山は中村の遺体に顔をしかめている。何か不審な点でも見つけたのだろうか。

「どう見ても、大きな刃物で一切りされているな」

 きっぱりとそう断言した事に僕は驚いた。

「分かるのか」

「ああ。俺は刃物をよく扱うからな。肉の切断面を一目見りゃ、すぐ分かるよ」

 それを聞くなり、山下は閃いたとでも言うように口をパッと開く。

「あの“キリトリセン”って、大きな刃物が通過する道の事じゃない?」

 山下は「なっ? なっ?」と、僕と秋山の顔を交互に回し見る。ほんと、少なくともこいつの明るさには救われるよ。

「それって十分あり得るな」

 秋山が納得したように山下と顔を見合わせる。

「あの時に見た一筋の光も、なんとなく正体が分かってきたぜ。本当に大きな刃物が通過したのなら、わずかな光にも反射したはずだ」

 僕もそれを裏付ける証拠を一つ思いついた。二人の会話に僕も首を突っ込む。

「あそこにあった死体も、中村も似たような状態だったよな。まるで、床に引かれた白線に沿って切られたような死に方だった。そう、白い点線は“キリトリセン”を意味してるんだ」

 これで確信がいった。僕達は互いに確かめ合うように頷く。みんなの中でも、同じ結論が導き出されたようだ。

「それにしても嫌な奴だぜ」

 秋山が敵意をむき出し、毒を吐く。その毒は、僕達をここに閉じ込めた犯人に向けられたものだろう。

「こうやって人を殺して、何が楽しいってんだ。自分は影に隠れてこそこそと。くそっ!         

胸クソ悪いぜ」

 その気持ちは僕も同じだ。この場に犯人がいたら、問答無用で殴りかかっているだろう。

「ねえ、宮本君」

 弱々しい、けれども確かな決意を秘めた声が耳に入ってくる。静川さんだ。

「私、決めた。ここを出たら、クラスのみんなに真実を伝える。美咲ちゃんの本当の姿を」

 両腕を体の正面にまとめ、優雅なたたずまいをしている。ちょっぴり上目遣いっぽく、顔を前に傾けていた。まだ、自分が決めた事に自信がないのだろうか。

「ああ。中村も喜ぶと思うよ」

 僕は柔らかく笑みを返し、静川さんの決意を温かく受け入れる。きっと、中村もそうしてくれるだろう。

「よし!」

 秋山が大きく手を叩き、勢いよく立ち上がる。

「これからどうする?」

 どうするか。運手席を目指そうにもここはホームだ。ここからどうやって、電車の中に戻ればいいのか。そもそも、運転席に着いた所でこの現状を簡単に解決できるのだろうか。

 何故こんな事になったのか。それすら、僕達は理解できていない状況だ。分かっている事と言えば。僕達が乗っていた電車の乗客全員を、ここに閉じ込めた人間が存在するという事ぐらいだ。脱出方法は未だに分からない。

 結局、ここで行き詰っている事になる。

 これと言った良い案が何一つ浮かばなかった。頭上でかちかちと光を震わせ、天井の照明が今にも切れそうになっている。長時間集中しようとしても、すぐに思考が絡まってしまう。

「いっその事、柵を乗り越えちまおうぜ」

 ひときわ大きな声で山下が発言する。なんとも憎めない笑顔だ。

「いや。普通に危ねえだろ。外には、なんにもねえんだぞ」

「じゃあ、ここら辺を探索してみるとか」

 息を継ぐ暇も無く山下が言った。ああ見えて、ちゃんと代案を考えていたようだ。

「無闇に動き回るのも危険じゃないか?」

 同級生が目の前で死んだせいか、秋山はいつになく慎重だ。また他の奴が、はたまた次は自分の番か。慎重に行動したくなる気持ちも十分わかる。出来るならそうしていたいけど、それじゃ何も解決しない。

「僕は山下に賛成だ。今は、ここから脱出する手掛かりを少しでも多く見つけないと」

「まあ、そうだけどよ」

 了解とも、反対とも取れるような言い方をする。一度慎重になった秋山を納得させるには、少しばかり時間がかかりそうだ。

「あっ!」

 静川さんの高い声が耳を通り抜けた。突然の事だったので、僕達は目を瞠る。

「どうしたんだ?」

 秋山がそう尋ねると、静川さんは僕達の方を指差した。山下が不思議そうに首を傾げる。

「俺達がどうかしたか?」

「ううん。そうじゃなくて、階段の上の方に誰かいるの」

 その言葉を聞き、僕は素早く階段の先に目を向ける。

 青白い格好をした人影が見えた。男性か女性か、大人か子供かは上手く判別できない。照明の明かりが乏しく、ずいぶん先の方にいるせいだ。というか、この階段は一体何段あるのか。人影の後ろからもまだ階段は続いているらしく、先の方が暗くてよく見えない。

 僕は息を多く吸い込み、声を張り上げようとお腹に力を入れる。

「あなたは誰なんですか!」

 洞窟のような静寂がこもる筒状の階段に、僕の声が響き渡る。すぐに返事が返ってくるものと考えていたが、しばらく待ってもまったく応答が無い。人影は階段を下りてくる動きも見せず、ただじっとしているだけだった。

「聞こえてんのか!」

 しびれを切らしたように秋山が叫ぶ。

 それでも、返事は無い。

「しょうがねえ。俺達の方から近づくか」

 秋山が面倒臭そうに一段、階段を踏み出した時だった。

 人影が動き出し、僕達から遠ざかっていったのだ。まるで、僕達から逃げ出すように。

「おい! 待ちやがれ!」

 秋山もそれに合わせるように、一気に階段を駆け上がっていく。

「ちょ、秋山! ……僕達もいこう」

 秋山と距離が離れないうちに、僕達もその跡を追いかける。


 何故、僕達から逃げるのか。一緒に行動すれば、お互いに助け合う事が出来るのに。見た限りあの人影は一人だった。一人でいるのなら尚更の事だ。

 階段を駆け上がりながら、先の方を確認する。あの人影はすで見えなくなっていた。秋山は僕の十段くらい先を走っている。僕の後ろからは、恐らく山下と静川さんが付いてきている筈だ。

 僕はもう息切れして、今にも心臓が破裂しそうになっている。どれくらい階段を上がったのだろう。

 それにしても寒い。吐き出す息が目に見えるほど白く、唇がかさかさに乾燥している。耳がじんじん痛むほど冷え切っていて、本当に今は夏なのかと季節を疑ってしまう。

 階段を上れば上るほど、辺りの気温が少しずつ低くなっているようだ。階段が薄暗いせいで、その寒さが数十倍にも膨れ上がる。例えるなら、洞窟の奥へと深く入り込んでいるような感覚だ。

 寒さと疲れで頭がくらくらしてきた。秋山もさすがにバテてきたのか、走り出した時よりも格段とペースが落ちている。

 もう駄目だ。そう思った所で、やっと階段の終わりが見えてくる。僕は最後の力を振り絞って、嘘のように長かった階段を上り切った。

「やっと……、着いた」

 忙しなく肩が上下し、吸って吐いての動作を繰り返す。これだけ走ったのは、高校一年の時に参加した駅伝以来だろうか。

「どっちに行きやがった!」

 どうやら、秋山も人影を見失ったらしい。

 僕は呼吸を落ち着かせつつ、辺りを見回す。

 ここからは右と左に通路が分かれているようだ。照明の光は灯篭の灯火に等しく、数メートル先の見通しがすこぶる悪い。壁には窓が取り付けられているものの、光が全く入ってこないので飾り物同然だ。

「なんか、寒いね」

 静川さんが腕を抱え込み、真っ白な息を吐き出す。制服は夏用で、生地が薄い半袖を着用している。冷気が直接肌を刺してくるので、寒さに身が応えるのだ。

「急に寒くなるし、さっきの人は僕達から逃げ出すし。何がどうなってるんだ」

「…………あいつが犯人だ」

 秋山が小さく呟いた。

「あの青い格好した奴。完全に俺達から逃げたよな。こんないかれた場所で俺達を避けようなんてする奴は、犯人以外の誰でもねえ」

 考え過ぎだと思う。確かに怪しい点はあるが、それだけで確信に至るのはどうだろうか。

「そう決めつけるのは早すぎるんじゃないか?」

 僕は秋山の肩に片手を置いた。

「いや、そうに決まってる。それ以外に考えられねえ」

 自分の考えを信じて疑わない秋山。敵を明確にする事で、自分を奮い立たせているのかもしれない。

(……フフッ……)

 人の笑い声が通路を走る。声変わりをする前のような高い声だ。聞き覚えの無い事から、僕達の誰かが発したのではないとすぐ分かった。

「誰だ。顔を見せろ!」

 秋山が笑い声をかき消すような大声で言った。空洞のような通路にはよく通る声量だ。等間隔の間をあけ、秋山の声が僕の耳に返ってくる。

(……コッチ)

 その声は左の通路から聞こえ、それが分かると同時に顔を動かす。暗い通路にはぼうっと浮かぶ人の腕が見える。腕はなめらかに上下を反復していた。こっちに来いと言っているのだろうか。

「なめやがって!」

 血が上ったように秋山が走り出した。

「秋山! 待て!」

 僕の止める声も聞かず、あの腕に向かって一直線に走り続ける。まずい。今のあいつは冷静さを欠いているようだ。あの腕が例の犯人だとすると、確実に殺される。

「裕介、早く健一を追いかけようぜ」

 山下がリードするように僕の前でステップを踏んでいる。躊躇している暇は無いか。

 僕は後ろにいる静川さんに気をかけた。

「静川さん。ちょっと走るけど、大丈夫?」

「うん」

 顔には疲労の色が見られたが、健気にも大丈夫と答える。

「よし。早く追いかけようぜ」

 山下の掛け声を合図に、僕達も走り出した。

 先がよく見えないので、足元に注意しないと転びそうだ。薄暗く寒いこの通路は、一度も足を踏み入れた事の無い坑道のように感じられる。

 走り続けていると、一つの扉を見つけた。扉と言っても、壁に取り付けられている見慣れた物ではない。通路上にぽつんと扉だけが置いてあるのだ。どこかで見た事のあるような引き戸だった。

「どうなってんだ? これ」

 山下が顔の位置や角度をちょくちょく変え、不可解そうに扉を見る。

「半開きになってるな。たぶん、健一はここに入ったんだろ」

 そう言って、引き戸のつまみを指先で勢いよくスライドさせた。

 引戸が開き、僕達は引戸をくぐり抜ける。

 すると、そこは電車の中だった。

「えっ?」

 誰よりも早く、静川さんが驚きの声を上げた。

 聞き慣れた車輪の音。車内の動きに合わせてゆらゆら揺れる天井の吊り革。しっかりした質感のある赤いロングシート。僕達は間違い無く電車に乗っていた。

 変だと思い、たった今くぐり抜けてきた扉に目をやる。

 開けっ放しになった貫通扉の向こうには、この車内と同じ風景が先へと続いている。先程の通路を見る事は出来なかった。

「なんでだ。僕達はホームにいた筈なのに。また、電車の中に戻ってきたのか?」

 頭では理解出来ない事が起こり、つい独り言のように呟いてしまった。最初は電車の中から駅のホームに。そして、ホームから電車の中にいきなり戻った。普通に電車の乗り降りをしているなら気にする事では無い。だが、それとは決定的に違うのだ。あり得ない場所から、まるで空間移動するように電車内とホームを行き来している。

「ん? 健一」

 山下には似合わない重くるしい声が聞こえた。

 近くのシートに秋山が座っている事に気が付く。背もたれに両腕を大きく預け、顔の正面が天井を向いていた。瞼が開いておらず、空気が抜けたように口を開けている。

「まさか……」

 僕は背筋に何か冷たいものを感じた。この格好からピクリとも動かない。もしかすると、死んでる? 青い奴を追っかけた先で殺された?

「秋山……」

 震えた手で僕は秋山の体に触ろうとする。

「あ~っ! また逃げられたぜ!」

 急に秋山の口から悔しそうな声が出てきたので、伸ばした手をさっと引っ込める。

「生きてるのか?」

「はあ? 何言ってんだ、裕介。俺が死ぬわけねえだろ」

 秋山は力強くシートから立ち上がり、不機嫌そうに口を尖らせた。青い奴に逃げられた事に加え、僕の訳の分からない言葉が機嫌を悪くしたようだ。

「本当に大丈夫なの?」

 静川さんも結構心配していたようだ。無性に、秋山の事が羨ましく思えた。

「だから、そう言ってるだろ? なんで俺が死ななきゃいけないんだ」

 静川さんが安心したように肩を下ろし、秋山が「はあ~」と溜め息をもらす。二人が仲の良い恋人同士に見える。なんとも言えない気持ちになり、すぐさまそのイメージを頭から消し去った。

「それより、青い奴はどうした?」

 青い奴という単語にピクリと反応し、秋山の表情が一変する。

「あの野郎。この電車に入った瞬間、いきなり姿を消しやがった。どっかに隠れたと思って、そこら辺を探したんだが。どこにもいやしねえ」

 逃げられたのがそんなに悔しかったのだろうか。秋山からしたら、青い奴は許す事の出来ない犯罪者なのだろう。多くの人を殺し、中村を殺した犯人だ。

 それを証明する証拠は今のところ無い。確証が無い限り、僕は簡単に人を疑わないようにしている。あくまで、青い奴はこの現象にかかわる重要参考人だ。確証さえ得られれば、容赦なくあいつに復讐する。中村の仇をとるんだ。

 ふと静川さんを見ると、とても辛そうな顔をしていた。さっきから走ってばかりで、休む暇が無かったからだろう。口には出さないが、顔色まで誤魔化せない。一つ一つの息が深く、大きく広げた手の平を胸の辺りに添えている。

「大丈夫? ちょっと休もうか」

「ううん。平気」

 どう見ても平気そうには見えない。みんなの足を引っ張りたくないのか、無理をしているのだろう。変な所で素直になれないのが、いつもの彼女らしいと思った。

「秋山、山下。丁度行き詰った事だし、体力回復を兼ねて休憩しないか?」

 二人は互いにちらっと視線を交わし、意思疎通でもしたように首を縦に振った。

「そうだな。俺も青い奴を追っかけ回したせで、疲れたし」

「健一。それを言うなら、あいつに振り回されたせいで、だろ?」

「こいつ」

 秋山と山下が冗談交じりにじゃれあう。楽しそうな笑い声と、床をどたばたと踏む音が聞こえてくる。いつもの僕なら、そのじゃれあいに交じっていたが。今は静川さんの事が気がかりだ。

「よし。とりあえず座ろうか?」

 僕が声をかけると、静川さんは迷わずシートに座り込んだ。それを確認してから、僕もその隣に座った。

 背もたれに背中を預けてはいるが、足をきちんと揃え、両手を膝の上に乗せて礼儀正しく座っている。どんなに疲れていても気品を乱さない心意気は、彼女の力強さを物語っていた。

「ありがとう。気を遣ってくれて」

「ありがとうだなんて。僕は自分が疲れていたから、休みたいって言っただけだよ」

 静川さんがくすりと笑う。

「いつも自分に素直だもんね。宮本君は」

 それって言い換えれば、自己中心的という事になるんじゃ。まあ、それも否定はしないが。

「そう言う静川さんは、もう少し素直になった方がいいんじゃないか? 変にやせ我慢すると、体に悪いと思うよ」

 彼女の顔がむっとなる。反応がいちいち可愛過ぎるだろう。これじゃ、僕の理性がいつ吹き飛ぶか分かったもんじゃない。

「そうかな」

 何か反論したそうに吐いた。

「ああ。だから、困った時は僕でよければ力になるよ」

 話の流れに乗り、ついそう言ってしまった。格好つけようとしていた訳でも無く、本当に自然の流れで口走ってしまったのだ。静川さんがどう返事をしてくるか、とても気なった。

だけど、

『……封鎖します』

 あの忌まわしき車内アナウンスが流れ、その返事を聞く事が出来なかった。

 開けたままだった貫通扉がひとりでに閉じられる。それと同時に、閉まったままの自動ドアから赤い液体がじわりと染み出してきた。

 異変に気づいた秋山はすぐさま貫通扉に走り寄る。

「だめだ。開かねえ!」

「こっちもだめだ!」

 山下がもう一方の貫通扉を前にそう叫んだ。扉を開けようと必死で格闘しているのが見て取れた。どうやら閉じ込められたらしい。

 四つ全ての自動ドアから赤い液体が染み出してくる。なんなんだ、これ。

 液体の正体を確かめようと近づいてよく見てみる。その液体はドアの隙間から出てきている事が分かった。そして、この液体が血である事も。

 床にはゆっくりと確実に血液が溜まっていく。まだ、高さ一センチにも満たしていない。だがこのままいくと、必ずこの車両は血で一杯になる。つまり、僕達はここで溺れ死んでしまう。


 数十分もすると、血液は僕の足首を浸していた。黒色が少し混じった赤い血液が、水に濡れたように靴へ染み込んでくる。水とは違い、泥のようにぬめぬめした感触がする。靴下が足にぴったり張り付いて気持ち悪い。

 安全と思われる隣の車両にすぐにでも移動したかった。だけど、それを拒むように貫通扉が開かないのだ。何人かで扉に体当たりをしてみたが、自分たちの体をただ傷めるだけだった。

 絶体絶命。その言葉が脳をよぎる。絶命、つまりは死。いやだ。こんな所で死にたくない!

「何か方法は……」

 扉も窓も開かない。ドアから染み出す血を止める事も出来ない。駄目だ。なにも思いつかない。

 何も出来ないのはみんなも同じことだった。みんなも焦るようにそわそわしている。

「くそったれ!」

 秋山が八つ当たりするように壁を殴りつける。どん、と言う音が、僕達の無力さを象徴しているようだった。

 

「どうしよう。もう、血がここまで……」

 静川さんが足元を凝視する。

 すでに血液が膝の辺りまで達していた。何も出来ずに慌てふためいている間にも、刻一刻と血液の量が増している。

 どうにかして助かる方法はないか。何も思いつかないから、どんどん気持ちが焦らされていく。気持ちが焦っていて、冷静に思考を働かせることが出来ない。それが悪循環だと分かっていてもどうする事も出来ない。

 さっと足元に目をやる。さっきと高さはあまり変わらない。血液の量が増すごとに、足元を確認する頻度も増えていく。あとどれくらい経つのだろう。自分の体を巡っている血液にこれほど恐怖したのは初めてだ。

「くそっ! 開けあがれ!」

 秋山はまだ、開かない扉と葛藤している。僕だって、ただ叫んでわめき散らしていたかった。考えるのを止めて、奇跡が起こるのを待っていたい。

 突然、電車が大きく揺れる。少しよろけたが、体が倒れるほどひどい揺れでは無かった。

 ばしゃん、と水の音がし、僕の隣から血液の飛沫が上がる。なんだ? 驚いた僕は飛沫があがった方へ機敏に反応した。

 そこに浮かぶ人と目が合う。もともと眼球があったであろう死体の目には何も無かった。肌は腐食していて、所々からウジ虫が湧いて気持ち悪い。

「どうした、裕介。って、なんだ?」

 秋山が僕に近づくと、足元に浮かぶ死体に気付き目を丸くした。少し遅れて、山下と静川さんが集まってくる。

 死体の服や肌が赤い。この人も僕達と同じように閉じ込められ、ここで溺死したのだろうか。

「この死体になんか あるかもしれねえ」

 秋山が腰をかがめ、死んだ人の体を探り始める。生きるためなら、秋山は死体を触る事もいとわないのか。

「止めた方がいいんじゃないか?」

 僕の言葉に耳を貸さず、手を止めようとはしなかった。

「……ん?」

 何か見つけたようだ。秋山は立ち上がって、手に取った物を見つめていた。僕も秋山の隣に近づき、それを見る。

 それは一枚の紙切れだった。丁度手の平サイズの長方形だ。横に罫線が入っているので、手帳のような物から千切とったのだろう。


“下 ミルナ”


 ペンで走り書きしたような字で、でかでかとそう書いてあった。太く濃く書いてあるのは、血で見えなくなるのを防ぐためだろう。これはどういう意味だろうか。

「下……、見るな……。下を見るな、って言いたいのか?」

 僕なりの解釈をしてみる。この読み方が一番しっくりくると思った。

 山下が僕と秋山の間に入り込み、紙切れに顔を近づける。

「う~ん。俺も、裕介が言った通りだと思うな。下を見るな。つまり、下の血を見るな、ってことだろ」

 なるほど。下の血を見るなと。この言葉に何の意味があるのだろうか。

 この人は、自分と同じ罠にかかった人のためにメッセージを残したのだろう。だとすると、犯人にこのメッセージを消されないような工夫を施したはずだ。一体、どんな。

「血……、下の血……」

 下の血という言葉に、つい足元へ意識がいく。太ももの半分以上までが血液に飲み込まれている。あと少しで、腰の辺りまで到達しそうだ。

「下を見るな……か。なら、上を見た方がいのかな」

 静川さんは落ち着き払ったように言った。

 下が駄目なら、上へ。その発想は単純すぎる。そう思いつつも、かすかな期待を胸に顔を上へと向けた。

 天井の端に細長い形状の照明がある。中央には長方形のベンチレーターが設置されていた。それには取っ手がついていて、真中に亀裂が入っているようだ。よく分からないが、小窓もついている。なんとなく、引き戸に似ているような気が。

「みんな! 上だ! 上を見ろ!」

 それが扉だと分かるとほぼ同時に、僕は叫んだ。

「……まじだ。裕介、肩を貸せ!」

 とにかく無我夢中で、秋山の言う通りにする。体勢を低くし、溜まっていた血液に肩まで浸かったが、気にはならなかった。肩に秋山の体重がかかるのを確認し、

「上げるぞ」

 僕は腰に力を入れ、ゆっくりっと立ち上がる。秋山の筋肉質な体も、この時ばかりは重く感じなかった。

「もうちょい、前にいってくれ」

 上の方から指示を受け、一歩ずつ足を進める。粘り気のある血液が脚に絡みついて歩きづらい。

「……ストップ!」

 二、三歩ほど進んだ所で止まれの指示があり、その場に踏み止まった。足が前に揃っていて立ちにくかったので、立ち位置を変えないように足の位置を調整する。

「…………。はあ? なんで鍵がかかってんだよ! クソが!」

 秋山の体から短めの振動が伝わってくる。恐らく、怒りの拳を扉にでもぶつけたのだろう。

「裕介、降ろしてくれ」

 秋山が脱力し切った溜め息を口から漏らす。心なしか、秋山の体から魂が抜けたような気がする。僕はそっと、秋山を肩から降ろした。

「健一、鍵って?」

 山下が秋山の肩に掴みかかり、急くように聞いた。

「開かねえんだよ。取っ手の所に……鍵穴があって」

「……じゃあ。鍵が無いと、ここから出られないの?」

 秋山は何も答えなかったが、つまりはそう言う事だ。

 手を伸ばせば届くはずの扉には、鍵がかかっている。この扉を開ければ、僕達は生き延びる事が出来る筈なのに。それが出来ない。これほど希望に溢れていて、絶望的な状況は他にないだろう。

 万策尽きた。こんなに狭く、血液に浸かってしまった車両内のどこを探せばいいんだ。

 すでに僕の胸より下は、溜まりに溜まった血液の中だった。僕の視界一面には、照明に反射して赤く光る液体が広がっている。いや、照明が血液に反射し、赤く輝いているのか。もう、そんな事はどうでもいい。

 僕はがくんとこうべを垂れた。目と鼻の先に赤い血がある。このまま、赤い水面に顔を突っ込みたくなった。

 その時ふと、ある言葉を思い出す。


“下 ミルナ”


 僕はその言葉通りに下を見らず、上を見た。ここから脱出するための扉を確かに見つけたよ。だけど、開かないんじゃ、何も無いのと一緒だ。

 …………。僕は上を見て、何も見つけなかった。まだ、鍵を見つけていない。あのメッセージは、犯人に消されないための工夫が施されている。なぜなら、ここから脱出する方法が書かれているから。

「そうか!」

 僕はある事に気付き、心の声が外へ吐き出される。一瞬にして、みんなの視線が僕に集まった。

「秋山! 網棚の上を探すんだ!」

「……は。なんでだよ」

「鍵が見つかるかもしれないんだ。山下も静川さんも、早く!」

 みんなは信じられないという顔をした――が、すぐにそれも消え、血眼になって網棚を探り始める。そうだ。僕達はなんとしても鍵を見つけ出すしかないんだ。今この状況で、いちいち考えている暇は無い。

 血液の水位が高くなってきたので、吊り革に掴まって網棚を探る。棚を血で濡れた片手で汚しながら、手探りに鍵を見つけていく。

「裕介! あったぞ!」

 僕の背中に歓喜の声が届いた。左手で吊り革を握り、背後にいる秋山の方へ振り向く。

「これだ」

 目の前に黒い革袋を突き出してきた。きっと、鍵はこの中に入っているのだろう。

「で、どうする。この深さじゃ、さっきみたいに肩車する事が出来ねえし」

 そうやって僕と秋山が悩み出す前に、

「……その位置から秋山君と宮本君が、お互いに腕を掴んで土台を作るの。その上に山下君が乗れば、十分な高さがつくれるはずよ」

 静川さんが素早く解決してくれた。

 僕と秋山は視線で頷く。

「山下! 頼む!」

 近くで話を聞いていた山下に一声かけ、僕と秋山は土台をつくる。僕が右手で秋山の左腕を、秋山が左手で僕の右腕をがっちり固定した。作った土台を安定させるために、片方の手は吊り革を強く握り込んだ。

「よっ……と」

 山下が土台に座り、扉の鍵を開けようとする。液体に浮かんでいる状態で、しかも片腕で人ひとりを抱えるのは辛かった。秋山の腕から、それを掴んでいる手が滑り落ちそうになる。その辛さも、命がかかっているとなると我慢できなくは無かった。

「よし! 開いたぞ」

 扉が開かれた事に山下が喜ぶ。

「そのまま上にのぼって、私達を引っ張り上げて」

 静川さんが的確な指示を出す。

 山下が上によじ登り、扉の向こうから手を差し伸べてきた。まさに、救いの手だった。

「裕介、掴まれ!」

 僕は救いの手に掴まり、ここから吸い出されるように外へと引き上げられた。


 まだ、心臓の高鳴りが治まらない。周囲の音が耳に入らないくらい、体が激しく脈打っている。口内に吹き出す唾液が、途切れることなく喉を通り過ぎていくのが分かった。

 生きているのが、信じられない。僕がいるこの場所は、本当に現世なのだろうか。助かったのは幻で、実際はあの世にいるのかもしれない。生きている事を証明する物はないか、辺りを探した。

 羽を伸ばすように「大」の字で寝転がっている秋山と山下。女の子座りをしてちょこんとたたずむ静若さん。そこに中村さんの姿は無い。

「僕……、生きてるんだよな」

「ああ。裕介だけじゃなく、俺達もちゃんと生きてるぜ」

 僕の独り言に山下がガッツポーズで答えてくれた。僕は嬉しくなり、自然と笑みがこぼれて泣き出したくなる。

「……喜ぶのはまだ早いぜ」

 秋山が口を開き、上体だけを起こした。

「俺達は、まだ電車の・・・・にいる」

 すぐに言葉の意味を理解し、僕は細くなっていた視野を広げた。

 ここは電車の外、厳密に言うと電車の屋根の上だ。それなのに空も無く、景色も無く、風も無い。車内から見た真っ暗な闇の中に僕達はいた。そんな闇の中で、何故目が利いているのかと言うと。僕達が立っている床――電車の屋根が発光しているからだ。発光塗料が塗られているかのように、朦朧と薄緑色の光を放っている。

 一時的な危険を回避しただけで、根本的な状況の解決には至っていなかったのだ。僕達はいつまで、こんな所を彷徨い続ければいいのか。

 果てしなく続くトンネルの先をぼんやり見つめ、僕は途方に暮れていた。


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