表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

グループ一・高校生


  グループ一・高校生


 僕達はまだ、電車の迷路を抜けられずにいた。すでに同じ風景を三十回以上も見ている。この迷路を中々抜けられない苛立ちと不安がつのりにつのって、僕達の空気をぎすぎすしたものに変えていた。電車の中に長時間閉じ込められるのがこんなに辛い事だったなんて。

 僕はみんなの様子が気になって、一人一人の表情をそっと窺ってみる。

 誰一人としてその表情に笑顔は無く、妙な緊張感に張りつめられて引き締まったような顔をしていた。きっと、得体の知れない恐怖に心が打ち負けないように、みんなは歯を食いしばっているのだろう。僕だって、いつまで正気を保っていられるか分からない。

 そんな中。ただ一人だけ僕達とは違う静けさをまとっていた。さっきとは別人のような雰囲気で、この現実を受け止めて悟ったかのような表情をしている。自分は周りとは違うのだと知らしめるように、僕達より少し離れた後ろの方を歩いていた。

 丁度いい機会だ。彼女に話しかけてみよう。

 僕は秋山達から数歩距離を置いて、彼女に近づく。

「中村さん」

 僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女はどこか冷めたような視線を送ってきた。なんか話しづらいな。

「何?」

「いや……、特に話がある訳じゃないんだけど……。中村さんがさっきと様子が違うな~、って」

 よくよく考えたら、中村さんと会話をするのはこれが初めてだ。会話のきっかけが思いつかず、僕は変な事を言い出してしまった。

「そうね。さっきの私はとても見苦しかった。謝るわ」

 中村さんは落ち着いた口調でそう言うと、僕に向かって頭を下げた。これが素の中村さんなのだろうか。こうして生で接してみると、意外と大人びた性格なんだな。会話のやり取りがちょっと難しい。

「いやいや! 止めてよ。僕は別に中村さんを責めている訳じゃないんだ。ただ。今の中村さんがさっきと別人みたいだな、と」

 僕は慌てて、自分の発言を言い直した。中村さんを誤解させてしまったようだ。

 中村さんは控えめに微笑する。

「そう。どうせ、わめいたところでここからは出られない。だったら、私は潔く死を迎えたいと思ったのよ」

 まるで自分が死ぬ事を決めつけたかのような物言いだ。自分は死ぬと決定事項にする事で、この現状を受け入れているのだろうか。

「大丈夫だって。絶対ここから出られるよ。出られないとしても、外の親や警察が探してくれるって。何百人の乗客が行方不明になったら、誰だっておかしいと思うだろ?」

「誰かが助けてくれる? 甘いわね。私達が外に干渉出来ないのに、外の人が私達に干渉出来るはず無いじゃない」

 中村さんはそう吐き捨てた。

 確かに、中村さんの言う通りかもしれない。僕が言っている希望は所詮気休めに過ぎない。根拠のない薄っぺらい希望をただ並べているだけなのだろう。

「だったらこの際、現実を受け入れて楽になった方がいいのよ。無理して現実に逆らおうとするから自分が傷つくの。だから、宮本君。あなたも救われたいなら、私みたいに現実を受け入れることね」

 僕をことごとく打ちのめすように、中村さんは理屈を言い並べた。彼女は僕の甘い考え方を嘲笑うような笑みを浮かべている。

 中村さんはそうやって、今までのいじめからも耐え忍んできたのだろう。だけど、何かが違う気がする。

「中村さんはそれでいいのか?」

「ええ」

 中村さんは往生際がよい――それは諦めとも取れるような――返答をした。

 今分かった。中村さんは強いのでは無い。弱いんだ。彼女は現実に立ち向かう強さがないから、現実を受け止める偽りの強さで自分を守っているのだ。そんな彼女に僕は無性に腹が立った。

「そんなのは救いじゃない。単なる現実逃避だ」

「何を言ってるの? 私は現実を受け止めているのよ」

「それは受け止めているんじゃない。自分に見切りをつけているんだ。自分はこの現実には抗えないって。だから諦めて何もしないんだ」

「…………」

 僕の感情的な言動に中村さんは意表を突かれたような表情をしつつも、何も言わずに聞き入っている。それをいい事に、僕は誠意を持って自論を彼女にぶつける。

「中村さんの事、静川さんから聞いた。中村さんは誰も助けてくれないと思っているんだろ? じゃあ、なんで自分がいじめられている事を静川さんに言ったんだ? 心のどこかでは、今の現実を受け入れられずにいるからだ。だからわずかな希望をかけて、自分の事を彼女に打ち明けたんだ。中村さんにはまだ、現実に抗う力が残っている。もし、中村さんが諦めても僕が引き戻してやるから。現実に抗う事を諦めるなよ」

 僕はめちゃくちゃな自論を言い終えて、我に返った。芝居がかったような事を言ったのも恥ずかしいけど、何より中村さんを知ったような自分の口調に嫌悪感を覚えた。

 冷静になってから、改めて中村さんの顔を見てみる――が、彼女は俯いていて髪の毛で顔が隠れていた。彼女がどのような表情をしているかは分からない。

「ごめん」

 と、僕は中村さんに言い残して、最悪にもその場から逃げてしまった。他になんて言えばいいのか言葉が見つからなかったからだ。

 数メートル先を歩く秋山達の元へ戻ると、静川さんが周りに聞こえないような小さな声で僕に話しかけてきた。

「……美咲ちゃんと何を話していたの?」

 僕はぎくりとした。本当の事を言うと僕が悪者にされかねない。保身に走るようで嫌だが、お互いのためにも真実は伏せておいた方がいいだろう。

「ちょっと、な。中村さんが元気なさそうだったから……」

「そうなの? 私でも気付かなかったわ。宮本君って優しいのね」

 疑う事を知らない静川さんの笑顔が、僕の胸に刺さった。

「いや、優しいなんて……」

 僕は、にこっと作り笑いでもしてみる。今の僕は最低な奴だ。自分勝手な言い分で人を傷つけておきながら、その上我が身可愛さに嘘をつくなんて。

 僕と静川さんの会話はそこで途切れてしまった。

 また、僕達は一言も喋らず歩き続けるのだろう。こういった空気を一番嫌う山下でさえ、ずっと口をつぐんでいる始末だ。みんなの精神がそれだけ参っているという事だろう。

『……ガガッ』

 ん? 今、ノイズのような音が聞こえた気が……

『ザーッ……。お客様に、お願いがあります。これよりこの電車は、ザッ……軽量化を実施いたします。それに伴い、お客様の中から……ザザッがでます。何卒、お客様のご理解とご協力賜わりますよう……お願い申しあげます』

 まただ。生気が少しも感じられないアナウンサーの声に、内容が意味不明のアナウンス。車内が迷路のようになってしまったのも、これが原因のはずだ。今度は一体、どんな現象が起こると言うんだ。

「嫌な予感がするぜ」

 長い沈黙を破ったのは秋山だった。

「みんな、今のアナウンス聞いただろ? 軽量化するだのなんだの。よくは分からねえけど、この電車を軽くするって事はつまり……」

 秋山がそこまで言いかけた時、静川さんが横槍を入れてきた。

「待って!」

 静川さんはみんなを制するように両手を広げる。

「みんなよく聞いて。何か聞こえない?」

 静川さんが耳に手を添え、何かの音を聞き取ろうとしている。そんな緊急を要するような音が聞こえるのだろうか。僕は静川さんに倣って、静かに耳を澄ました。

 …………。僕の耳に入るのは電車が線路を走る音ぐらいで、特に気になるような音は何も聞こえない。本当に何か聞こえるのだろうか。

「ねえ、静川さん」

「しっ!」

 静川さんは口元に人差し指を当て、子供を叱りつけるような表情をする。今は黙っているしかないようだ。仕方ない。僕は眼を瞑って、さっきより耳に全神経を集中させるように心がける。

 すると、遠くの方から、かすかにがたんという音が聞こえてきた。何かが外れるような音だろうか。その音が聞こえた後、黒板を爪でひっかくような鋭い音が車内に響き渡る。確かに変な音が聞こえるが、一体何の音だ。

 その場にじっと踏みとどまり、その音を聞き入っていると次第に音量が大きくなっていく。正体不明の何かが近付いて来るようで、僕は恐怖を感じた。これは生き物の足音だろうか。いや全然違う、よく考えろ。迷路のような電車を軽量化するという事は、多すぎる車両を外していくという意味だろう。

「それって……」

 僕が一つの結論にたどりついた矢先、僕達の後方にある車両からあの音がした。みんなは驚いたようにその車両へ目を向ける。

 後方の車両は耳に突き刺さるような悲鳴を上げながら、僕達が乗っている車両から徐々に離れていく。

「やばい! みんな、走れ!」

 それは僕が叫んだのか、他の奴が叫んだのかは分からない。ただ、そのかけ声を合図に僕達は走り出すしかなかった。自分の身に危険が迫っているんだ。

 僕たちは車両を一つ、また一つと渡って行く。迫りくる闇から逃げるように。

 すぐ後ろでは車両が一つ、また一つと闇に飲み込まれている。闇が電車をじわじわと侵食するように。

「くそっ! 何がどうなってんだよ!」

 僕達は必死で走り続ける。

 僕は走りながら、さっと後ろを振り向いた。僕達より後ろにいた中村さんが心配になったのだ。中村さんは生きる希望を捨てているような節がある。もしかしたら、もういなくなっているのかもしれないと思った。

 僕の心配をよそに、中村さんは生にかじりつくように走っている。

 良かった。中村さんがまだ生きているようで、僕は心から安堵した。

「おい! みんな、あれを見ろ!」

 秋山が声を張り上げ、一両先の車内を指差した。その車内にある貫通扉には“ごーる”と書かれた紙きれが貼ってある。

「あそこまで一気に走り抜けるぞ!」

 あの紙に書いてある事が本当なら、僕達は助かるかもしれない。一筋の希望を手にし、僕は走るスピードを加速する。

 一歩ずつ確実に“ごーる”との距離を縮めていく。僕は今までに無いくらい一生懸命走った。“ごーる”が目前まで迫り、僕の心臓は破裂しそうになるほど鼓動が速くなる。そしてついに、その“ごーる”をくぐり抜ける事が出来た。

 みんなは気が抜けたように床へ倒れ込む。

「はあっ……! たっ、助かった!」

 秋山がみんなの声を代表するように言った。

 安心したのもつかの間、僕は周りを見回して中村さんがいない事に気がつく。僕の心臓が一瞬にして凍りついた。

「中村さんは!」

 僕はそう叫びながら、今まで走りぬけてきた車両に目を向ける。

 いた! 僕達から三、四両ほど離れた所を中村さんは走っていた。その後ろからは希望の無い暗闇が今にも中村さんを飲み込もうとしている。だが、その調子で走れば彼女が暗闇に追いつかれる事は無いだろう。

「中村さん! 急げ!」

 僕はそう叫んだ。しかし、中村さんは何を思ったか、走る事――生きようとする意志を途中で捨ててしまった。

「おい、中村! 何止まってんだ! 早くこっちに走ってこい!」

 秋山が中村さんに怒りをぶつけるように叫んだ。その怒りは、中村さんの行為そのものに向けられている事が分かる。

 それでも、中村さんは動かない。

「何やってるんだ!」

 気がつくと、僕は考える前に行動に出ていた。後ろの方で僕を引き留める秋山達の声が聞こえる。危険な事ぐらい僕にも分かっているよ。だけど、今は中村さんの方がもっと危険な状況にいるんだ。

 僕は中村さんの近くまで来ると、力いっぱい声を上げた。

「何、足を止めてるんだ。危ないだろ! ほら、走るぞ」

 黙って俯いている中村さんの腕をつかみ、僕は走り出そうとする――が、中村さんは根を張ったようにその場から動こうとしない。

「おい!」

「やめて!」

 中村さんが僕の腕を振りほどく。僕の助けは要らないということか。

「なんでだ?」

 中村さんは少し間をおいて首を横に振る。

「どうせ私達はここから出られない。無事に出られたとしても……私の人生はここにいるのとなんら変わりないわ。出口も無く、光も無いトンネルを私は永遠と走り続けるの」

 中村さんの背後を見やると、車両が残り二両しかない。こんな所でぐずぐずしている場合じゃない。

「そんな事は無い! 中村さんには静川さんという友達がいるじゃないか」

「私にとっての沙織ちゃんは唯一の友達であっても、沙織ちゃんにとっての私は一部の友達でしかないの。その証拠に沙織ちゃんは、私を助けてはくれなかった」

 顔を上げた中村さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。これが、中村さんの本音だろうか。

「私には本当の友達なんていないの」

 中村さんの背後にある最後の車両が外れ、闇に吸い込まれていく。こうなったら、説得は後回しだ。

「頼むからじっとしててくれよ!」

 僕は腰をかがめ、中村さんの背中と両膝の後ろに素早く手を回した。そのままお姫様だっこのように彼女を抱え上げ、迫りくる闇とは逆方向に走り出す。彼女の体重は意外に軽かった。

「何するの! 降ろしてよ!」

 僕の両腕に抱えられた中村さんが激しく暴れ出す。僕は体のバランスを崩しかけたが、そこは根性で耐え抜いた。

「私はここで死にたいの! 余計なことしないで!」

「簡単に死ぬなんて言うな!」

 僕は喉が枯れそうになるほど叫んだ。中村さんは怯えた様子で僕を見つめたまま固まっている。

 僕は「死にたい」という言葉が決して許せなかった。僕は中学生の時から、その言葉は二度と聞きたくないと思っていたからだ。特に、女性の人からは……

 “ごーる”まであと二両。僕は走り続けながら、中村さんに言った。

「中村さん。僕が友達になる」

「えっ……? 宮本君、何……」

「僕が中村さんを助ける。例え、他の人が中村さんを見捨てても、僕は見捨てないから。だから……死にたいなんて絶対に思わないでくれ!」

 僕の言葉を聞き届けてくれたのか、中村さんは肩の力を抜き落ち着いてくれた。中村さんの気が変わらないうちに、なんとか“ごーる”までたどりつかないと。

 “ごーる”まであと二両半という所まで来る。その時、この車両が不意にがたんと大きく揺れた。やばい。もう、この車両が切り離され始めた。

「くそっ!」

 僕は歩幅を広げ大股になりながらも、なんとか車両をまたぐ事が出来た。次が問題だ。人ひとり抱えているせいか、上手くスピードが出せない。なんとか間に合うか。

 “ごーる”まであと一両。“ごーる”の先からは、秋山達が「速く来い」と僕をせかしていた。

 がたん、とこの車両が闇に吸い込まれ始める。秋山達との距離が段々と遠のいていく。その距離はもはや、僕の歩幅では到底またげそうにない。

「一か八か!」

 僕は“ごーる”ぎりぎりまで続く床を勢いよく踏み切り、秋山達に向かって跳んだ。僕の体が上も下も分からない空間を漂った。


 ずっしりと重たい衝撃が足の裏から伝わっていた。着地したのは堅い床だったため、じんじんとした痛みが足の下から這い上がってくる。その痛みは、僕が無事に生き延びられた証拠でもあった。

「大丈夫か、裕介」

 秋山を中心に静川さんが僕の周りに集まってくる。

「心配させんなよ。もう二度と、こんな危険な真似すんじゃねえぞ」

 秋山は僕を叱るように、それでいて喜んでいるような声色で言った。秋山の顔が赤くなり、微妙に涙ぐんでいるのが分かる。外見は悪ぶっているようだが、秋山は意外に情が深いのだ。

 自分に友達思いの親友がいる事の幸せを、僕は改めて実感する。

「それと、中村」

 秋山の顔からすっと明かりが消えた。僕の腕に抱かれて身を小さくしている中村さんを、秋山は鋭く睨みつける。

「裕介に謝れ。お前を助けるために裕介は危ない目にあったんだ。一歩間違えれば、お前のせいで裕介が死んでたかもしれないんだぞ。なんで意味無く立ち止まった?」

 中村さんは顔の影を濃くして黙り込んでいる。何も言わないつもりなのだろうか。秋山が今にも逆上しそうなので、下手な事を言うよりはいいかもしれないが。

 場の空気が険しくなり、僕はいたたまれなくなった。風の吹きぬける音すら聞こえそうな沈黙。顔を引きつらせた山下も無意味に頭を掻き、気まずそうにしている。

「やめようよ、秋山君」

 静川さんが秋山の怒りをなだめるように言った。

「静川は黙ってろ」

 と、秋山はそれを一蹴した。さすがの静川さんも秋山の威圧的な雰囲気に言い返せないようだ。

「なあ、秋山」

「なんだ」

「僕と中村さん、二人だけで話がしたいんだ」

 秋山は僕の言葉に驚いたような顔をする。

「裕介、何言って……」

「頼む」

 僕は秋山の目をしっかりと見つめた。

「…………。分かったよ。裕介にもちゃんと考えがあるんだろ?」

 僕はその言葉に応えるつもりで頷く。

「ねえ、みんな。俺は今気がついたんだけどさ。ここ、どこ?」

 話がひと段落ついた所を見計らったように、山下が言葉を発した。僕は生き延びることに精一杯だったので、周りの事が目に入っていなかったみたいだ。山下に指摘されて、始めて周りの景色に意識を向ける。

「ここは……、駅のホーム?」

 目の前にはさっきまでの電車内とは打って変わって、どこにでもあるような普通のホームだった。

 ホームと言っても、辺りに人の気配が全くない。照明も電気が切れかかっているのか、辺りを照らす光が中々安定しない。こちら側の駅と向こう側の駅が向かい合うようにして、このホームは作られていた。まるで、長い間人の手が入っていないような感じだ。

「なんで俺達は駅にいるんだ? この雰囲気はどう考えても、元の世界に帰れたって感じじゃねえし。外はどうなってる?」

 秋山達はホームと外を仕切っている柵から、僕は屋根の隙間から空を見る。絶望的なまでに広がる無の世界がそこにはあった。ここを包み込むように黒い幕が張ってあるみたいだ。

「くそっ、やっぱりな」

 秋山の悔しそうな声が聞こえた。僕だって、内心は外に出られるのかと期待した。だけど、なんとなく僕は。そう簡単にはここから脱出出来ないと分かっていたのだ。

 今はあれこれ考えてもしょうがない。秋山達が他の事に気を取られている内に、僕は中村さんと話をつけておこう。

「宮本君……」

 中村さんが不意にしおらしい声で話しかけてきた。

「何?」

「早く……、その……、降ろして……」

 そう言われて、僕はまだ中村さんを抱えたままだった事に気がつく。あまり恥ずかしさに焦りながら、中村さんをそっと地面に下ろしてあげた。

「ごめん」

「いえ……、いいの」

 お互いの間に気まずい空気が流れる。僕は別に、中村さんの事を恋愛対象として見ている訳じゃない。それなのに、この時ばかりは中村さんを少しだけ意識してしまった。

 中村さんもこうして見れば、結構可愛い方だと思う。いつも感情を表に出さない

 僕から話を切り出そうとした――それより早く、中村さんの声が耳に入る。

「さっきの。宮本君が言った事は、本当?」

「ああ。嘘じゃない」

 僕は間髪入れずに即答する。中村さんの顔に笑みがこぼれた。

「私ね。宮本君が初めて話しかけてくれた時、本当はすごく嬉しかった。今まで、私の事を真剣に考えてくれた人なんていなかったから。でも、その気持ちにどうやって答えたらいいか私には分からなくて。私は安易な死という選択をしてしまったの。宮本君、私を見捨てないでくれて、ありがとう」

 中村さんは満面の笑みを浮かべる。僕は初めて、彼女の幸せそうな笑顔を見たと思う。って、当然か。中村さんと知り合って間もないんだから。

「絶対にここから出ような」

「ええ」

 人って、不思議な物だ。本音を語り合えば、こんな短時間で分かり合えるものなんだな。

「おい、話はすんだか?」

 秋山が僕達に近づいてきながら聞いてきた。

「ああ」

「そうか。それにしても裕介。ここはマジでやばいぜ。俺がそこらへんを調べただけで、 死体が二つも見つかった。しかも……」

 秋山はホームを線路沿いに歩き始めた。ついて来いということだろうか。

 僕は中村さんと顔を見合わせ、秋山におとなしくついて行く。

「秋山。静川さんと山下はどこだ?」

「たぶん、死体ん所だろ」

 こちらに裏面を見せる階段の横を通り過ぎる。どうやら、この駅には二階があるようだ。 何メートルか先に待合室が設置してある。僕はその待合室の前まで来ると、中の方へ目をやった。

 一人用の椅子が横一列に並べられていた。黄ばんだ白い椅子に目立った汚れがあるようで、相当使い込まれたものだろう。何故だか、その椅子を見ていると目がちかちかする。列の真ん中にある椅子には、天井を仰いで座っている人がいた。

「おい、秋山! 待合室に人がいるぞ」

 僕が驚いている反面、秋山は落ち着き払ったように口を開く。

「あれは……死んでる」

 秋山はこちらに背中を向けたまま歩き続ける。その言葉を聞いた僕は一瞬立ち止まった。

 待合室にある死体を一瞥し、すぐに足を進める。人が死んでいる事実に驚いたというより、ここで死んでしまった事への悲哀を感じた。

 彼の死体は見た所、サラリーマンか何かだろう。家では父の帰りを待つ家族がいたに違いない。勤務時間が終わり、温かい家庭へ帰る途中だったとしたら。そう考えると、可哀想でならなかった。

 秋山が足を止め、やっと後ろを振り向く。

「ある程度ショッキングな死体だと、身構えておいた方がいいぜ」

「……分かった」

 僕は大きく深呼吸をして、秋山を横切る。

「な……!」

 足元を見下ろした床には、胴体を切断されている死体が転がっていた。床に引いてある白線の外側には下半身、内側には上半身が綺麗に分かれている。白線と胴体の分かれ方を見る限り、この線に沿って体が切断されたように思えてしまう。

「この死に方って、有り得るのか?」

「確かに。ここら辺には人の体を切れそうな刃物がねえ。それと、そこを見てみろ」

 秋山が言う、そこへ目を移す。

 死体付近にある赤い線、それが血文字だと理解するのに時間はかからなかった。

 コンクリート製である鼠色の床に濁った赤色の文字が浮かんでいる。読み上げると、


“キリトリセン ……”


 と、書いてあるようだ。“キリトリセン”以降は文字がかすれていて読む事が出来ない。文字を拭き取ったようにも見えるが、誰かが意図的に消したのだろうか。

「不自然だと思うだろ?」

 死体の傍にいた山下がみんなに投げかけるように言った。山下の近くに静川さんもいる。

「血文字のかすれた部分はどう見たって、誰かに消されている。その証拠に、かすれた文字の下に死体の指先がきている。仮に、文字を消した人物がいるとしたら……」

「文字の一部分だけを消すのは不自然だ、って言いてんだろ?」

 秋山が得意げな顔をして、山下のセリフを奪った。呆気にとられた様子で山下はあんぐり口を開けている。自分の推理に口出しされるとは思っていなかったのだろう。

 低く喉で咳払いをして、山下は続ける。

「その人物はここに書かれた内容が邪魔だった。だから、この文字を消そうとしたんだ。消されている文字のかすれ具合からして、途中で消す事を断念したんだろう。何かの理由があって」

 何かが引っかかる。山下の説明は少々考えすぎだが、納得出来ない話ではない。理由があって文字を消す事を断念したというのも、十分頷ける。問題はその理由だ。

「血が固まっていて、消せなかったんじゃない?」

 中村さんが初めて、自分の意見を口にする。彼女は自分自身を変える努力を今から始めるつもりだ。少しばかり口調がとげとげしい感じがするが、まだ自分の意見を主張する事に慣れていないせいだろう。

 山下は少し首を傾げる。

「その可能性も考えたんだけど。“キリトリセン”の文字には、拭き取ろうとした跡が無いし」

 山下は中村さんの意見を否定したが、いい線いってるかもしれない。どうしても消せない状況にあった。そう考えると、ある可能性が見えてくるような気がする。

「ここには、僕達以外に生きている人はいないのか?」

「たぶん、いないんじゃね? ここまで来る途中に誰一人として会ってねんだし」

 僕の質問に秋山は厳しい顔つきで答える。僕達以外の生存者がいないとすると。

「ねえ。みんな」

 中村さんが青ざめた顔色をして、か細い声を吐いた。

「この文字を消した人物は、私達をここに閉じ込めた犯人じゃない?」

 僕を含め、その場にいたみんなの目が大きく見開く。みんなは一斉に中村さんの方へ目を向ける。

「だって、そうでしょ? ここで死んだ人が残したメッセージを邪魔だと思うのは」

 ばらばらだったピースが一つになっていくのを感じた。ここまでの情報をつなぎ合わせると、血文字の不自然さにも一つの説明がつく。

「私達がここに来た時、丁度その犯人はこの血文字を消している途中だったのよ。犯人は自分の正体が私達にばれるのを恐れていた。だから、血文字を消す事より、自分の正体を守ることを優先した。結果、この不自然な血文字がここに残ったんじゃない?」

 中村さんは見た目に劣らず、頭の回転が速い。これから先も、中村さんがこうして意見をしてくれる。そう思うと、とても心強かった。

 この場にいた誰もが息をのんだだろう。電車にいた乗客全員――僕達以外の人間――を惨殺した犯人がいる。そんな恐ろしい悪魔のような人間が本当に存在するだろうか。いや、もしかしたら。それは人間では無く……

『ガッ……間も無く、…………が通過します。危険ですので、白い……線の内側まで、お下がりください』

 電車の接近を知らせるけたたましいサイレン音が、僕の意識を現実へと引き戻した。どこか遠くの方から、電車の走る音が聞こえてくる。世界から隔離されたようなこの小島に、どうやって電車が通過するんだ。

「なんだよ。またあのアナウンスかよ。今度は何が起きるってんだ!」

 秋山がそう叫んだ時だった。白い光がホームの線路側を横一文字に走る。風を切るような音を立て、一筋の光は瞬く間に視界から消えていった。

「今、なんか光ったよな」

 秋山が目の前で起きた事を確認するように言った。

 電車の走る音も、気がつけば聞こえなくなっている。辺りは不気味なほどに静まり返っていた。何が起きたのかを確かめようしているのか、みんなの瞳が一向に定まらない。

「みんな、大丈夫か。怪我とかしてないか」

 ホームが何も変化していないのが逆に恐ろしくなり、僕はみんなが心配になった。秋山、山下、静川さんと一人ひとり安否を確かめていく。それが終わると、最後に中村さんの目の前に来る。

「中村さん、大丈夫?」

 彼女の肩に手を乗せる。

 ずるっ、となまものが擦れ合うような音がして、中村さんが僕の胸に飛び込んできた。反射的に彼女の背中を両手で抱き締める。

「どうしたんだ?」

 僕の腕が中村さんの背中に食い込んでいく。それに合わせて、水浸しになったスポンジのような感触が腕に伝わってくる。微妙にどろどろした液体が僕の皮膚を湿らしているのが分かった。

「これって」

 僕の背筋に無数の虫が這った。首を小刻みに震わせ、中村さんの肩越しに自分の腕を見る。

 真っ赤な棒が二つ、僕の目に映った。棒の先にはそれぞれ五つの小枝がついているようで、それが僕の腕だった。恐らく、赤く染まっているのは中村さんの血が付いたからで、

「うわああっ!」

 自分の心臓さえ止めかねない悲鳴を上げ、僕は後ろへ仰け反った。その拍子に足をつまずき、情けなく尻餅をつく。僕の転倒に合わせ、中村さんがうつ伏せに倒れる。

「美咲ちゃん!」

「中村! うっ! ……死んでやがる」

 秋山の言葉を聞き、彼女の死をやっと理解する。だけど、その現実を僕はすぐに受け入れられなかった。僕も中村さんと同じで、弱かったんだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ