4.人は罪の子でないぞ、喜びの子ぞ [Album Ver]
「万物に神が宿る」とよく云われますが、それが何故かまでは解らない方も多いでしょう。
私もひふみ神示を知る前は、その理由について思いを巡らした事さえありませんでした(ᐢ ᵕ ᐢ)。
『全てのものに神様が宿る』という考え方は、日本古来の神道に共通するものです。
それは万物において、その中心、奥の奥には神の魂が宿るからなのだそうです。
ひふみ神示でも同様に考えられていて、更に神様よりも大きな存在として大神様が存在します。
この大神様は、『天の大神・元津神・スの神様』と呼ばれていて、全ての世界・全てのものをお生みになられたのだそうです。
まさに、私達にとっても始原の親神様にあたり、(私達)人も代々、大神様の魂が受け継がれ、それ故に「万物に神が宿る」のです。
つまり、皆様は勿論のこと、最愚最弱者を名乗る私でさえ(ᐢ ᵕ ᐢ)も「神の子」なのです。
この考え方は神道系の独特なものです。それが、人に対する考え方にも影響します。
それは他の宗教の多くが、「人とは悔い改めなければならない」”罪の子”(性悪説)と考えており、故に戒律も厳しいものになります。
一方、神道系では「万物に神が宿る」”神の子”(性善説)ですので、それらは大らかなものになります。
「皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ」
「人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ」
「神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ」
元来、日本人とはそういうものだったようです。
大らかで懐疑心を持たず、真面目で勤勉。いわゆる”古き良き日本人です”。
ならばこそ、モラルも高く戒律等もそれ程でなくて済んだようです。
現在でも、それは受け継がれているようで、おそらく、それが”空気を読む”です。
しかし、この”空気を読む”は逆手にとられた感が否めません。
「上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ」
上記の一文は政治に関するものですが、「善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざ」が実状なら、空気を読んでも意味がありません。
本来は、従うべきものではない(=悪)からです。
「皆悪ざ」は一朝一夕には直せません、長年に渡って続けられたものであり、おそらく悪のご時世はまだまだ続くと思われるからです。
「悪を食ふて暮さなならん時近づいたぞ、悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶってゐること多いぞ」
ただ、動き様がないなら知らない方がと思う方も少なくはない(ひふみ神示を知る以前の私ならそう)でしょうが、知ると知らないでは雲泥の差です。
下手をすれば、善いことだと思って進んで”悪の片棒を担がされてしまう”からです。
ひふみ神示では「馬鹿正直ならん」や「阿呆になれよ」の文言がよく使われますが、知らない状態が馬鹿正直(→馬鹿と気づかず)で、知っている状態が阿呆(→阿呆と気づく)です。
悪のご時世がいつまで続くかは解りませんが、私達はひふみ神示を読みながら、時には私のしょうもない話(ᐢ ᵕ ᐢ)を聞きながら、気長に待つより他は無さそうです。