表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

怪しい名探偵 

怪しい名探偵 第4回 コスプレ刑事? 

作者: 深見慎之介

 真夏が終わった。と思っていたら、一気に真冬がやって来た。

 暑さの中で緑色に燃え上がっていた木々の葉が、寒風に吹かれて赤く色を変えた後、枝から1枚も残らず姿を消してしまった。あっと言う間だな。超光速ロケットの中から見たら、誇張でも何でもない。「あっ」と言っている間に、何カ月もの時間が過ぎ去ってしまう。池袋北(いけぶくろきた)警察署の刑事課・強行犯捜査係(通称・捜査1係)の海老名忠義(えびなただよし)は思った。

 「やあ、エビちゃん、仕事がんばってますな。それよりまた酒おごってくださいよ」

 自分の席で事務作業をしている海老名に、丸出為夫(まるいでためお)が声をかける。また来たか、しつこい奴め。海老名はうんざりしながら思った。前回の「ホテル・アムール」事件の際、河北昇二(かわきたしょうじ)署長の行動に疑いを持った海老名は、自分で調べた署長の秘密の裏を取るために、丸出に酒を飲ませたのだ。それ以来、丸出はすっかり味を占めて、おごってくれ、と海老名にしつこく言うようになってしまった。

 あんなことしなきゃよかった。海老名は後悔の連続である。でも丸出に酒を飲ませたのは、決して無駄とは言えなかった。丸出の情報収集力が、かなり高度なものであることを知ったからである。

 丸出為夫。自称・名探偵。シャーロック・ホームズの生まれ変わりだと思い込んでいるドン・キホーテ。警察の捜査を邪魔して遊んだり、出鱈目(でたらめ)な推理を誇らし気に語ったりと、とんだ迷惑者。まともな思考力もない。ただの変人。はっきり言ってバカ。

 だが、それは見せかけじゃないのか? あいつは海老名や同僚の大森大輔(おおもりだいすけ)の秘密はおろか、署長の秘密まで知っていた。出世に興味のない海老名や大森だけならともかく、警察庁長官の婿養子になってでも出世に意欲を燃やす、署長の秘密までも。バカなふりを装って、実はとんでもなく頭がいいのかもしれない。丸出とはいったい何者なのか? そのことを考えただけで、海老名の全身に鳥肌が立ってくる。

 署長だけではない。あいつは警視庁本庁の刑事たちの秘密まで知っているようである。それは本庁の刑事たちが、丸出の前で見せる態度からも明らかなこと。出世したい者ほど丸出を「先生」と呼び、高く持ち上げている。だがその裏では丸出を蛇蠍(だかつ)のごとく嫌っているはず。署長と同じように。みんな丸出に自分の秘密を暴露されたくないからこそ、丸出の前ではあんな卑屈な態度をとるのだろう。

 何度考えたのかわからないが、何度でも繰り返す。丸出とは、いったい何者なのか?

 「エビちゃん、今度は高級なバーで、カクテルなんかおごってくれませんかね? 氷を入れたグラスにウオッカを入れて、青いソーダで割って、サクランボを上に乗せて……」

 「ああ、うるせぇうるせぇ、またいつかおごってやるから、向こう行け!」

 そんな海老名と丸出のやり取りを、同じ捜査1係の女性刑事・新田清美(にったきよみ)は、海老名の向かい側の席からニヤニヤしながら見守っている。

 「エビちゃん、あのおじさんにお酒おごってあげたんだ」

 丸出が大の仲良しである立川進(たちかわすすむ)刑事課長の席へ歩いて行くのを見ながら、新田は海老名に声をかけた。

 「いや、あれはちょっと事情があってね……」海老名が言い訳をする。

 「ふうん」新田が相変わらずニヤニヤ含み笑いをしながら、立ち上がった。「あのおじさんと、もうそこまで進んだんだ」

 「何が言いたいんだよ、新田さん」海老名が不機嫌な顔で言う。「まさか俺があの丸出のバカと愛し合ってる、とか言うんじゃないだろうな?」

 「やっぱりそうだ、あのおじさんと愛し合ってるんでしょ?」

 「もういい加減にしてくれないかな? そういう変な妄想。男同士で普通に仲良くしてるのを見て、あの2人は愛し合ってるとか……俺がフジさんや大森と仲良くしゃべってるのを見て、あなたたち愛し合ってるでしょ、と言うだけならともかく……それもやめてほしいんだけどさ。でも丸出だけは絶対にやめろ。あいつは死ぬほど嫌いなんだよ。今度言ったらマジで切れるからな」

 「でもツンデレって実は好きなのに嫌いとかよく言うし、喧嘩するほど仲がいいとも言うでしょ? やっぱりエビちゃん、丸出のおじさんと愛し合ってるんだ」

 「うるせぇ、このババア! いい年こいて結婚もできないどころか、男と全く付き合ったこともないくせに、わけのわからないこと考えるんじゃないよ! ボーイズラブなんか読むのやめて、ホストクラブにでも行って男に犯されてこい! 40何年も張り続けてる処女膜に大きな穴を開けてから、男のことを論じるんだな!」

 新田が口をあんぐりと開けながら、海老名を見つめて固まっている。まるで動画を一時停止したかのように。

 「ごめん……ちょっと言い過ぎた」海老名はすぐ新田に謝った。

 ボーイズラブ漫画愛好家、いわゆる「腐女子」がみんな、このようなことを考えるのかどうかを海老名は知らないが、新田の変な妄想癖は男中心の刑事課で、異様な蛍光色を放っている。何かというと誰々と誰々は愛し合ってるだの、誰々と誰々が愛し合ってるだの……しかも男同士で。だが、またあのおばさんが変なことを言っている、と誰もがわかっているので、変な噂が煙を上げることもない。いったい新田は、生身の男と恋愛するのが苦手だからボーイズラブにはまるのか、それともボーイズラブにはまっているから生身の男と恋愛できないのか……


 事件の1報が入ったのは、その日の昼過ぎのこと。上池袋(かみいけぶくろ)3丁目にあるマンションの1室で、若い女の遺体が発見された。

 女は750ミリリットル入りのワインの(びん)で後頭部を殴打されたらしく、ガラスの破片がきらめくこたつの台の中へ飛び込もうとするかのように、正座の姿勢から前のめりになって死んでいた。死因は後頭部の殴打による脳内出血であることは、司法解剖をするまでもなく明白なこと。死後数日経過しているものと思われる。部屋の中は他に荒らされた形跡はなく、金品なども盗まれてはいなかった。強姦された形跡もない。

 女はこの部屋の住人で、銀行員の落合優里亜(おちあいゆりあ)(28歳)であることが、すぐに判明した。落合は2日前から勤め先の銀行を無断欠勤し、連絡も取れないことから、緊急連絡先である落合の両親の元に連絡が入り、その親がマンションの管理人へ連絡。そして管理人が合鍵を使って部屋に入り、落合の遺体を発見して110番通報した。

 落合の部屋はマンションの2階にあり、1人暮らし。玄関の鍵はかかっていたが、ベランダのガラス戸は鍵がかかっていなかった。おそらく犯人はベランダから出入りしたものと思われる。

 殺害された落合の身元を一番最初に確認したのは、第一発見者であるマンションの管理人でも落合の両親でもなく、池袋北署の新田刑事だった。落合優里亜と新田は、同じボーイズラブ漫画の愛好家仲間だったのである。

 「この子、割ときれいな顔してるし、もっとおしゃれに気を使えば、男性にももてたんじゃないかと思うんだけど、でもすごく内気で恥ずかしがり屋でね。無口で私の方から話しかけないと、しゃべらないような子だったの。野良猫みたいに臆病で、怖がり屋さんで……」

 池袋北署にある遺体安置所。背筋が凍るほどの冷たい静けさの中、そこへ新たに安置された遺体。収容された落合優里亜の遺体を見つめ、新田は涙を流しながら、落合のことについて語る。殺害された人間の遺体など飽きるほど見て来た海老名でも、新田のこの毅然としながらも悲嘆に暮れる様を見るのは、生の遺体を目にするより痛々しかった。新田も人間の遺体は何度も見慣れているはずだが、それが生前から見知っている者となると、その精神的苦痛を背後に隠そうとしても、後ろに束ねた髪の毛先から誰の目にもわかるというもの。

 新田が声を震わせながら、つぶやく。

 「まだ若いのに……将来があるのに……誰が殺したのか知らないけど、絶対に許せない。(かたき)をとってやる!」

 

 落合が勤めていた銀行での聞き込みによると、落合は3日前の火曜日には通常通りに職場に出社し、夕方5時過ぎには普通に退社したとのこと。特にいつもと変わった様子もなかったらしい。翌日水曜日から無断欠勤が始まったことから、殺害時刻は火曜の夜から翌朝にかけてということになる。

 落合の遺体の周りは、割れたワインの瓶の破片に、黒く変色しているワインの染みが一面に飛び散っている。そして注ぎ口にコルクが差さったままの、瓶の細い首の部分がカーペットに転がっていた。こたつの台の上には、倒れたワイングラスが1つ。グラスからこぼれた赤い液体が、こたつの上で粘ついた個体を形成しながら端へ流れて、ピンク色の掛け布団にどす黒い染みを作っている。開封されたポテトチップスの袋と、その上に乗っているポテトチップス数枚。目覚まし時計は朝6時にセットされていることから、就寝前にワインを1杯たしなんでいたところを、襲われたものと思われる。

 「犯人はベランダから侵入したのは間違いないだろうけど、ガラス戸も閉められて、カーテンもかかっていた。犯人は随分と几帳面な性格の持ち主だな。殺害の動機はいったい何だろう?」捜査1係の藤沢周一(ふじさわしゅういち)係長が言う。「何か盗まれた形跡はなし。犯されたわけでもなし。そのどちらかの目的でこっそりと侵入したら、気づかれてワインのボトルで頭を殴打。結局目的を果たせないまま、またベランダから逃げたということか。近所の住人からは何か有力な情報は聞き出せたか?」

 「今のところは、あまり(かんば)しい情報はありませんね」大森が言った。「鉄筋コンクリートで防音壁の施されたマンションですから、悲鳴を上げたところで、扉が閉まってる状態なら、外に聞こえることもないでしょう。ましてやこの寒い日に、特に夜なら……」

 「俺、思うんだけど、犯人はガイシャと顔見知りじゃないかって気がするんだよな」海老名が言った。「まずあの死に方。相手に向かって抵抗した形跡がない。相手を見ていたとは思えないんだよ。知らない間にいきなり後頭部を、たまたまこたつかカーペットの上に置いてあったボトルで殴られたんじゃないか? ベランダから侵入してきた者の仕業なら、彼女の気づかない間にこっそり入って来て、すぐ犯行に及んだことになる。でも何も盗まれてないし、身体に触れた形跡もない。理由もなくそんなことするか? もし理由があるのなら、相当強い憎しみを持ってたことになる。それより犯人は顔見知りで、まず玄関から中に入って来て、一緒に酒飲んで、ガイシャがよそ見してる間に殺害したんじゃないかって思うな。そして殺害後はベランダから外へ逃げた、って感じで」

 「そうかな? あの子にそんな親密な友達なんていたかしら?」新田が疑問を机の上に乗せた。「昔から友達なんてほとんどいなかったって言ってたし、ましてや男の人と付き合ったことなんて全くなかったって話だし」

 「それから、あのポテトチップスの袋。ワインのつまみとして食ってたんだろうけど、()じ目がみんな開かれてた」海老名は続ける。「1人で酒飲みながら食うんなら、袋の綴じ目なんて上か下だけを開けて、後は袋の中に手を突っ込んで、中身を取り出して食えばいいわけじゃん。でも綴じ目をみんな開けて、それを卓上に開いて乗せてた。ってことは、彼女は1人で食ってたわけじゃなくて、誰かと一緒に食ってたって思うんだよ。少なくとも、もし俺が誰かと一緒に1袋のポテトチップスを食うとしたら、そうするね」

 「でもワインのグラスは1つだけ。後は食器棚の上にいくつかあっただけだから、やっぱり1人で飲んでたんじゃないかな? ポテトチップスだって袋をああいう風に開けて、広げた方が食べやすいと思うし……」

 「あともう1つ。彼女の口紅の形が気になってさ。よく見ると口紅が曲がってるんだよ。化粧に失敗して、そのまま外を出歩くはずはないからな。部屋に戻って寝る前に、口紅塗るのも変な話だし。」

 「飲んでたワインは赤だったから、ちょっと唇をなめた時に、そういう形になっちゃったんじゃないかな?」

 「いや、そうとは思えない。何と言うか……別の口紅がもう1つ重なっているような曲がり方だった。遺体の写真見てもそう思わないか? 口紅塗った別の女かオカマにキスされたような、そんな感じ」

 「まさか、エビちゃん、考え過ぎよ」

 そこへ鑑識係の大原拓也(おおはらたくや)が小会議室に入って来た。

 「よ、大原君、待ってたよ。で、何かわかったか?」と藤沢係長が声をかける。

 「遅れてすいません。ちょっと考え事をしてたもんで」と大原は急いで駆け付けて来たらしく、息を弾ませながら言った。「どうも色々奇妙なものを見つけたものでして」

 「奇妙なものって?」

 「まずガイシャの部屋の中に、卓上電話の子機があったんですよ。相当古いものでして、90年代に製造されたものですかね? 中身はすっかり錆だらけで、使い物になりません。はっきり言って、ただのゴミです。親機はどこを探しても見つかりませんでした。それが部屋のこたつの掛け布団に隠してあったんです。ところで新田さん、新田さんはガイシャとは面識があったとかいう話ですけど、彼女、固定電話なんて持ってました?」

 「さあ、よく知らない」新田が首を傾げて言った。「私、そもそもあの子の部屋に行ったことがないの。初めて行ったのが、彼女の人生最後の姿だったから……」

 ここで新田は声を詰まらせて、今にもあふれ出る涙を懸命にこらえようとした。

 「あ、すいません。今新田さんにそういう話をするのは、まずいですかね?」大原が決まり悪そうに言った。

 「いや、いいの。私、彼女を殺した奴を絶対に捕まえるから」と新田は気持ちを奮い立たせながら言う。「とにかく、あの子が固定電話を持ってるかどうかなんて、正直言って知らない。あの子とは、いつもスマホで連絡を取り合ってたから」

 「その彼女のスマホなんですけど……部屋中どこを探しても見つからないんですよ」

 「え? それどういうこと?」

 「そもそも彼女、スマホを持ってたんですか?」

 「持ってたはずよ。食事会とかで、あの子が自分のスマホを手にしてたとこを、何度も見たことあるもん。だいたい今時の若い子で、スマホ持ってない子なんかいないでしょ? そのスマホが部屋になかったというのは、確かに変ね。犯人は金目の物は何も取らなかったらしいけど、スマホだけは盗んだってこと?」

 「なるほど。犯人はスマホだけを盗む目的で、部屋に侵入したことになるのかな?」と係長が言う。「そのスマホを転売する目的か何かで。あるいは顔見知りの犯行だとしたら、他人に知られたらまずいデータでもあったのかもしれない。とにかくただの物取り、顔見知りの両方の線で捜査した方がいいだろう」

 「あと、ガイシャの部屋に奇妙な物がもう1つありまして」大原が話を続ける。「全裸のリカちゃん人形があったんですよ」

 会議室全体に巨大な疑問符が浮かび上がった。

 「全裸である上に、乳房のところにご丁寧にも、ピンクのマジックペンで乳首が描かれてました」

 「え? あの子にそんな変な趣味があったの?」新田が顔をしかめながら言った。

 「そのリカちゃん人形が、彼女のものであるかどうかはわかりません。人形の服とか下着とかは、どこを探してもありませんでしたから。そのリカちゃん人形が、壊れた電話の子機と一緒にこたつの掛け布団に隠れてて、一目では発見されにくい状態でしたが」

 「その子、変なもん集めるのが趣味なのかな? 新田さん、聞いたことある?」海老名が質問する。

 「ない」新田は即答した。

 「もし犯人が置いていったとしたら、そいつの頭の中、切り開いて見てみたいものだな。丸出(まるいで)のコートのポケットみたいに、変なものばかりが詰まってるぞ、きっと」

 「その変なものが、まだ他にもありまして……」大原が言いにくそうに話し出す。

 「何だ? 今度は押し入れの中に、博物館から盗んできた古代エジプト人のミイラが隠されてたとか?」海老名が苦笑しながら冗談を言う。

 「そこまでひどいものじゃありませんが、今度はベランダに2つほど変な物が転がってまして……まず1つはマッチ棒の軸を使って作られた、何かの建物の模型のような物でした。縦横50センチほど、一部破損してましたが、ほぼ完璧と言っていいものが横倒しに転がってたんですよ。形からして、おそらくは松本城の天守閣じゃないかと……」

 「松本城ね……背景に北アルプスの雪山があったら、さぞかしいい眺めだろうに」

 「でも縦横50センチなら、相当大きな物だな」係長が言った。「外部から持ち込んだにしては大きすぎる。自分で作った物じゃないのか?」

 「え? あの子にそんな趣味があるなんて、全然聞いたことがない」新田が驚いて言う。「そんな趣味があるんなら、絶対みんなに自慢してたはずだもん。マッチ棒使って建物の模型作るなんて、すごいことだし……他にマッチ棒使った模型はなかったの?」

 「全くありませんでした。しかもベランダにそれ1体が放置されてただけです」大原がさらに話を続ける。「あともう1つ、ベランダに転がってた物は福島の赤べこでして……みなさん、赤べこってご存じですよね?」

 「そりゃもちろん。今俺がその赤べこ状態でね……」刑事課長代理の戸塚明(とつかあきら)警部が、両手で首の横を軽く締め付けるように押さえながら言った。「寝違えたのかな? 両方の首の横が痛くてさ、首が上下にしか動かん」

 「そりゃもう年だからじゃないんですか? 年がら年中ここが痛い、あそこが痛いとか言ってるし」海老名が口を挟んだ。「で、その赤べこがどうしたって? ベランダで強風に吹かれて、コックリコックリ首を動かしてたってか?」

 「いえ、首は動いてませんでした。横倒しに転がってたせいもありますけど」と大原。「しかも赤い塗装がはげていて、白い紙状の材質がむき出しになってました。さらに泥だらけで、長いこと外に放置されて、雨風にさらされていたものと思われます」

 「塗装がはげて、赤くなくなった赤べこね……」と海老名がつぶやく。

 「おい、エビ、俺の頭見ながら『はげ』とか言わないでくれ」戸塚警部が自分のはげ頭を手で押さえながら言った。

 「別に戸塚さん見ながら言ってませんよ。気にし過ぎです……で、他に落合の部屋にまだ変な物があったのか? 今度は例えば、等身大のマッコウクジラの銅像とか……」

 「あんな小さな部屋に入りきれませんよ」大森が突っ込みを入れる。

 「今の4点で以上です」と大原が総括する。「それにしても関連性のない奇妙な物が4点。これを考えると、知らない間につい時間がたっちゃいまして……」

 「壊れた固定電話の子機に、全裸のリカちゃん人形。マッチ棒で作った松本城に、泥だらけの赤べこ……」藤沢係長がつぶやきながら繰り返す。「全くわからん。なぜそんなもんがガイシャの部屋にあったのか」

 「しかも問題は、元からあの子の持ち物なのか、犯人が持ち込んだものなのか、ですよね」と新田。

 「さらに犯人はガイシャと面識があったのか、なかったのか、にもよるな」と戸塚。

 「私、あの子の部屋に行ったことがないし、食事会とかイベントとかで顔を合わせる以外には、SNSとかでやり取りをするだけだったから、実はあの子の裏の顔について、あまり詳しいことはよくわからないことが多いんです。もし顔見知りによる犯行、それも同じボーイズラブ愛好家仲間による犯行だとしたら、私も容疑者の1人だということになりますね」

 「新田ちゃん、そこまで思いつめなくてもいいよ」と戸塚が新田を慰めながら言った。

 「いえ、仕事に私情を交えるべきじゃないと思います。私も容疑者の1人である以上、捜査には進んで協力しなくてはなりません。それが警察官としての任務ですから。事件があったと思われる日……火曜日の夜ですか? 私はみなさん覚えてるかどうかわかりませんが、定刻通り仕事を終えました。その後はまっすぐ家に帰って、翌朝までは家にいました。ただ私も1人暮らしなもんで、アリバイを証明してくれる人がいないんですけど……」


 翌土曜日朝の捜査会議。事件現場周辺の聞き込みの結果、殺害された落合優里亜の部屋の周辺には、怪しい人物が多数住んでいることが判明した。

 まず落合と同じマンションの住人。落合の住んでいた203号室の両隣の住人について。

 202号室に住んでいるのは、無職の常盤明男(ときわあきお)(72歳)。定年前は会社員で妻と離婚し、現在は1人暮らし。気の弱そうな老人だった。部屋の中は壊れた古い家電製品が山のようにあふれていて、半ばゴミ屋敷と化していた。

 ブラウン管の白黒テレビに、ビデオテープの再生機。レコードプレーヤー付きのステレオに、カセットテープを再生する「ウォークマン」……とっくに生産を終了した化石のような古い家電製品が、ベランダにまで積み上げられ、入口の玄関にまでせまっていた。

 「捨てるのがもったいなくて……」

 ゴミ屋敷の住人が必ず口にする決まり文句を、常盤は繰り返した。引っ越しをして別の部屋に移る時も、そのような粗大ゴミを一緒に持って行くのだとか。

 落合の部屋にあった電話の子機の画像をタブレットで見せると、常盤はそれが自分のものであると半分は認めた。ただし、同じような古い卓上電話が部屋の中にいくつもあって、どの電話の子機がなくなっていたかは覚えていないと言う。

 「だいたいなぜこんな物が、あのお嬢さんの部屋にあったんです?」

 常盤は隣に落合が住んでいることは知っていて、たまに廊下で出くわすと挨拶はしていたと言う。だが落合の部屋に侵入して、落合を殺害したことは否定した。

 「もう年ですし、女性にうつつを抜かすようなことはしませんよ。別に恨みがあるわけじゃないし、顔は知ってても、どんなお嬢さんかは全く知らないし……」


 もう1人。奥の角部屋204号室に住むのは、製薬会社で論文の翻訳を手掛ける仕事をしている、中島秀太(なかじましゅうた)(36歳)。翻訳の仕事をしているが、海外には一度も行ったことがないとか。独身で1人暮らし。見るからに内気で、口数が少ない。部屋の中は、アニメや漫画の女性もののフィギュアであふれかえっていた。さらにリカちゃん人形やバービー人形も数えきれないほど……しかもほとんどが全裸か下着姿で、どの人形にも乳房の部分にピンクのマジックペンで乳首が描かれていた。

 落合の部屋にあった全裸のリカちゃん人形の画像を見せると、中島はすぐに、

 「あ、サトミちゃん! 探してたんだ!」と叫んだ。

 中島の話によると、この「サトミちゃん」と称するリカちゃん人形を、「お仕置きする」ために玄関の外に放り出していたと言う。

 「だってわがまま言うから……一晩だけ外に立たせておけば、反省するんじゃないかと思ってたんだけど、翌朝にはいなくなってたんです」

 中島が保有するリカちゃん人形やバービー人形には、それぞれ名前が付いていて、リカちゃん人形には、サトミとかカオリとかユウコとかキヨミとか……

 「『キヨミちゃん』だけはやめてほしいな。気持ち悪い」と新田清美はつぶやいた。

 またバービー人形には外国人風に、メアリーとかキャサリンとかブリジットとかいう名前が付けられていた。

 隣に落合優里亜という生身の若い女が住んでいたことは知っていたが、たまに廊下で出くわしても挨拶はしたことがないとか。

 「どうも生身の女は苦手なんですよ。生意気で、いきなり何を言い出すかわからないし。人形の方がよっぽど僕のことを理解してくれるんです」

 と中島は言った。落合のような生身の女は苦手だが、別に落合を殺したいとは思ってもみなかったとか。


 落合の部屋の真上、3階の303号室の住人は、財務省に勤めるノンキャリアの公務員、西堀健次(にしぼりけんじ)(51歳)。30代のころに1度結婚していたことはあるが、数年で離婚。そのまま1人暮らしを続けているとか。

 西堀の部屋は、マッチ棒の軸を使って作った建物の模型だらけ。姫路城に名古屋城の天守閣、東寺の五重塔に慈照寺(じしょうじ)銀閣、東京タワーにスカイツリー……日本のものだけではなく、海外の建物もあった。パリの凱旋門にノートルダム大聖堂、ロンドンのタワーブリッジにノイシュバンシュタイン城、ローマのコロッセオにインドのタージマハール廟……全て西堀自身の手作りだと言う。

 中には失敗作もある。置き場所がないので、失敗作はベランダに積み上げるのだとか。

 「失敗作でも、せっかく作ったものだから、捨てるのがもったいなくて……そのうち僕の部屋、ゴミ屋敷になっちゃうんでしょうかね?」

 西堀に、落合の部屋のベランダで発見された松本城の天守閣と思しき模型の画像を見せると、西堀はすぐにそれが自分が作ったものであることを認めた。ただし失敗作として、つい1週間くらい前にベランダに積み上げていたとか。

 「松本城の建物って、壁の色が黒と白の2種類に分けられてるじゃないですか。同じ色をしたマッチ棒の軸で、その色の区別をつけるのがどうも難しくて……あと、この端っこの月見櫓(つきみやぐら)に手すりの付いたベランダみたいな所があるんですけど、その手すりが実物では赤く塗られてるんですよ。その赤がどうしても表現できなくて……」

 他にベランダに積み上げられている失敗作は、大阪城の天守閣に鹿苑寺(ろくおんじ)金閣、モスクワの聖ワシリー寺院にサマルカンドのブルーモスクといった、いずれも実物は色鮮やかな建物ばかり。

 ちなみに西堀は、自分の部屋の真下に落合が住んでいること自体を知らなかった、と言っている。会ったことはあるかもしれないが、顔は覚えていないとか。このマンションには他にも若い女性が何人か住んでいるから、別に落合優里亜1人だけが珍しい存在ではないらしい。


 さらにもう1人。落合の部屋の真下の103号室に住んでいるのは、コンピューターのプログラマーである別所晋哉(べっしょしんや)(45歳)。結婚歴なしの1人暮らし。福島の赤べこを集めるのが趣味だとか。

 「赤べこではありません。正確には『福べこ』です。福べこは赤1色と限られたわけじゃありませんから」

 と別所自身が強調する通り、別所の部屋の中には色とりどりの赤べこ……ではなくて、福べこであふれかえっている。赤の次に多いのは金色。それ以外にも青、紫、緑、白、黒、オレンジ、ピンク……色だけでも無数にあるが、さらにその材質も紙を使って作った張り子だけとは限らず、木製、金属製、プラスチック製、さらには縫いぐるみ……と多岐にわたっていた。その大きさも大小さまざま。さらには伝統的な形状のものだけではなく、現代的な変わり種も多数。翼の生えたもの、鹿のような角が頭に生えたもの、頭が3つあるもの、レッドブルのロゴが描かれたもの。さらには猫の形をした福べこ猫、福べこ犬、福べこ豚……とにかく色々な種類がある。

 落合の部屋のベランダに転がっていた、無残な姿の福べこの画像を別所に見せると、それが自分の所有していた福べこであることを半分は認めた。

 「ま、これだけの数ですし、他人にもよくプレゼントするんで、どのべこがなくなってるかなんて、いちいち把握してないし。たぶんそこのガラス戸を開けた時に、知らない間に庭へ転がっていったものが、そのまま外にあったんじゃないんですかね? それにしてもなぜそれが、すぐ上の階の住人の部屋にあったんです?」

 別所は自分の部屋のすぐ上の階に、落合が住んでいたことは知らなかったとか。女性が住んでいる、ということを漠然と知っていたぐらいで。なぜ40過ぎても結婚しないのか?と問われると、

 「なかなか縁がなくて……相手に対する理想が少し高すぎるんですかね? べこ集めてるうちに、知らない間に何年もたっちゃって……え? べこを集めてる理由ですか? だってかわいいじゃないですか。首がゆらゆら揺れるところなんか。芸術的にもなかなか見事だと思うし。世界中で評価されるべきですね」

 ちなみに別所の好みの女性は、東北地方、それもできれば福島県出身の色白の女性であり、当然のことながら、福べこに対する深い理解を持つ、同志のような人物だとか。


 以上、落合の部屋で見つかった奇妙な物の所有者が、これで一応判明した。さらには事件の起きたマンションの近くに、もう1人怪しい人物が……

 塗装業の中里清吾(なかざとせいご)(57歳)は、女性の下着を多数盗んで逮捕された、前科のある男。

 「娑婆(しゃば)に出てから泥棒は一度もやってませんよ。あれですっかり懲りましたから。今は女が恋しくなったら、風俗行きますし……え? その女の子、見たこともないですね」

 それ以外にも近所の住人の目撃証言によると、現場周辺は怪しい人物に事欠かなかった。夜中に独り言をブツブツ言いながら、何度も道を行ったり来たりする男。逆立ちをしながら、一度も姿勢を崩すことなく移動し続ける男。この寒いのに下着1丁のまま、スマートフォンで電話をする中国人の男。それからトレンチコートを着てベレー帽をかぶり、パイプ煙草を口にくわえた中年男……

 「そりゃ丸出為夫(まるいでためお)のバカヤロウだよ」海老名が喜びながら言った。「間違いない、あいつが犯人だ。今すぐ逮捕しよう。無期懲役に持ち込んで、二度と娑婆に出れないようにしてやる!」

 「丸出先生だとしたら、何の用事であんな所にいたのかな?」警視庁捜査1課の刑事の1人が言った。

 「そりゃもちろん、捜査のためだろう。確かに人目を()く格好してるから、疑われるのも仕方がないかもしれないが……」もう1人の警視庁本庁の刑事が言う。「でも丸出先生が犯人なわけないだろう。あの先生を犯人呼ばわりしたら、俺たちの首が危ないからな」

 マンションの住人のうち、まず303号室の西堀健次が捜査線上から外れた。西堀には立派なアリバイがある。事件が起きたと思われる日に、西堀は出張で大阪に出かけ、ビジネスホテルに1泊していたことが立証された。それに西堀が作成した「失敗作」の松本城が、すぐ階下にある落合の部屋のベランダにあったのも、自分の部屋のベランダに積み上げてあったものが、この時期の強風に(あお)られて落下した可能性が高い、と判断されたからだ。

 前科持ちの中里清吾も外れた。犯人のものと思われる指紋は、主に凶器となったワインの瓶の細い首の部分やベランダのガラス戸と手すり、こたつの上の台などから、同一人物のものが発見されている。間違いなく犯行は素手で行われていたようだ。だが過去に採取した中里の指紋とは一致しなかった。

 最も怪しいと思われる人物は現時点で2名。まず階下の103号室に住む別所晋哉。自分が所有していたと思われる赤べこが、なぜ真上の落合の部屋にあったのか? 塗装のはげた泥だらけの赤べこを、ただ投げ入れただけということは考えられない。考えられるとすれば、その赤べこを持って階上に登った可能性があるということである。おそらくは落合を殺害する前にその赤べこを見つけて、それを持って登ったものと……

 もう1人は落合の隣室、204号室の中島秀太。リカちゃん人形に対する、あの異常な偏愛ぶり。それだけでも最も怪しい、と誰もが思うものである。あの言動からしても、生身の女性に興味がない、というより、生身の女性に憎しみを募らせていたのではないか、と思われるふしがあるからだ。それに外のベランダ側から階上階下を登り降りするよりも、隣室ならベランダの手すりを渡って簡単に移動できなくもない。ベランダにまで家電製品のゴミがあふれている202号室の老人・常盤明男に比べても、それは容易なはずである。

 そのようなわけで、殺害された落合優里亜の部屋の周りは怪しい人間に囲まれていたわけであるが、顔見知りによる犯行説もまだ否定されたわけではない。落合の知人、特にボーイズラブ愛好家仲間に対する聞き込みは、むしろこれから本格化していくことになり、新田は仲間である落合優里亜に対する(とむら)いのためもあってか、その目に痛々しいほどのやる気がみなぎっていた。

 

 新田が連絡をとった仲間のうち、実際に落合の部屋に行ったことがあるのは、1人だけ。某大学の研究室で生物学の助手を務める、針谷咲(はりがやさき)(29歳)。住まいは北区王子(おうじ)。新田に言わせると、ボーイズラブも好きだが、アニメのキャラクターのコスプレも大好きという、池袋のサンシャイン前、通称「乙女ロード」によくいる典型的なオタク女子だとか。針谷は落合の部屋に行ったことはあるものの、たった1度だけ。それも3カ月以上も前の話で、最後に会ったのは2週間ほど前。ちょうど仲間で集まって食事会をしたのが最後で、それは新田にとっても、生前に見た落合優里亜の最後の姿だった。

 「彼女と年も近いし、好きな漫画の好みも共通してるから、個人的に親友になれるんじゃないかと思って、1度部屋にお邪魔したことがあるんですよ。でも彼女、全然しゃべらなくて……私もあまりしゃべる方じゃないから、もうずーっと黙ったまんま2人でお酒飲むだけ。何だか気まずくなっちゃって。あれから彼女の部屋には行ってません。でも絶交したわけじゃないんですよ。SNSでやり取りは続けてましたから……」

 もう1人、新田の仲間で気になる人物がいた。某大手コンビニエンスストアの本社で商品企画の仕事をしている、木崎真菜(きざきまな)(27歳)。住まいは殺害された落合と同じ上池袋3丁目。それどころか、落合が住んでいたマンションのすぐ近く。直線距離にして数十メートルほどしか離れていない別のマンションだった。

 「もう本当に驚きました。パトカーが列を作って止まってましたから。あ、これは近くで何か事件が起きたな、とは思ってましたけど、ネットのニュース見てびっくりしましたよ。まさか優里亜さんが殺されただなんて」

 木崎は新田と海老名の前で興奮しながら話した。池袋北署の管内だから、新田と海老名は直接木崎の部屋を訪れて、本人に聞き込みをしている。部屋の中にはボーイズラブ漫画関連のポスターに交じって、色のあせた古いポスターが2枚。いずれも有名な女性芸能人を撮影したもの。海老名はこの2枚のポスターに妙に関心を持ち、新田と木崎が会話している間、そのポスターを黙って見つめていた。

 「噂には聞いてましたけど、清美さんって本当に刑事だったんですね」

 「そうよ。噂じゃなくて、私みんなの前でカミングアウトしたこと、何度もあるじゃん。真菜ちゃんだって聞いてたでしょ?」

 新田は仕事を忘れたかのように、木崎真菜と雑談交じりに話をしていたが、

 「ところで話は変わるけど、真菜ちゃん、優里亜ちゃんがすぐ近くに住んでること、本当に知らなかったの?」

 「ええ、だってみんなお互いスマホでやり取りして、たまにみんなで集まるだけだし、どこに誰が住んでるかなんて、あまり関心がないようなところがあるじゃないですか、私たちって。それに優里亜さんって無口で、あまり存在感ないし……あ、別に優里亜さんのこと嫌いじゃないですよ。ただ何となく印象薄いなって感じで」

 「ここに引っ越してきてから、まだ1カ月しかたってないって話だけど、どうしてここに住もうって思ったの?」

 「交通の便もいいし、職場にも近いからですよ。私サンシャインに職場があるから、天気のいい日はここから歩いて行けるんです。東上線の北池袋って最寄駅にも近いし、前に住んでた東長崎よりずっといい」

 「なるほどね。でもここへ引っ越してきてから1カ月の間に、優里亜ちゃんにばったり出くわしたこととかないの?」

 「ないですね。会ってたら、もっと親しくなれてたかもしれないのに……もっと早く引っ越してくればよかった」と言って、木崎は肩を落とした。

 「そう……ごめんね。犯人が見つかるまでは、刑事がまた何度かここにくるかもしれないけど、捜査には協力してくれる? 真菜ちゃんも私も含めてだけど、今の段階では私たちの仲間みんなに容疑がかかってるから。ま、もちろん、私たちの仲間に殺人犯なんていないことを信じてるけど……ところでエビちゃん、真菜ちゃんに何か質問ある?」

 と新田が海老名に聞くと、海老名はニヤニヤと笑顔を浮かべながら、

 「熊田曜子にペネロペ・クルスか……俺も大好き」

 「何言ってんの、エビちゃん」

 「いや、だって壁にポスター貼ってあるから……」

 「2人とも私の憧れの女性なんです」と木崎が口を挟んだ。「あんな風になれたらいいなって。でも無理ですよね、私なんか。手を伸ばしたって届かない」

 「そんなことないわよ。努力すれば真菜ちゃんだって、ああなれるかもしれないし。理想は常に高く持たないとね」と新田は木崎を励ました。

 「でもあまり高く持ちすぎると売れ残っちゃうぜ、このおばさんみたいに」と海老名はつぶやくように言った。

 「うるさい、このバツイチ。女心なんか全然理解できないくせに」新田が言った。「ところで真菜ちゃん、明日はコンテストの日だけど来てくれる?」

 「ええ……でも清美さん来れるんですか?」

 「もちろんよ。私、審査員だもん。これも仕事の一環だから、休むわけにはいかないでしょ? 優里亜ちゃんも楽しみにしてたから……必ず行くって喜んでたのに。ある意味、優里亜ちゃんの弔いみたいなものね。絶対に成功させなきゃ」

 「清美さんもコスプレしてくるんですよね? どんな格好してくるんですか?」

 「それはまだ内緒。少なくとも咲ちゃんには絶対負けないような恰好してこないと。真菜ちゃんもただの観客じゃ、もったいないわよ。出場すればいいのに」

 

 「コンテストって何? コスプレするとか言ってたけど」

 署への帰り道。助手席の海老名が運転中の新田に聞いた。

 「ずばりそのまま。コスプレのコンテスト。サンシャインの噴水広場借り切ってやるんだから、結構大掛かりなイベントよ。私は実行委員で審査員だから、賞とかはもらえない立場なんだけど、でもやっぱりコスプレして参加することになってるの。もう今から心臓ばくばく言ってる」

 「で、新田さんはどんな恰好するの? 『北斗の拳』で、指先1つで顔を吹っ飛ばされるような弱い悪人とか?」

 「どうして私がそんな怖い人の恰好しなきゃならないのよ? そういうのはマッチョの男の人がするものでしょ……どんな恰好するかは、今のところは内緒。というわけでエビちゃん、明日はちょっと遅れて出勤してくる。夕方の捜査会議までには間に合うと思うんだけど。フジさんも了解済み。イベントに参加するついでに、主だった参加者や仲間たちに聞き込みもできるから、一石二鳥ってとこね」

 「そっか。事件さえ起きなきゃ、いつもの気楽な日曜日が待ってるのにね」

 「ところでエビちゃん、さっきの真菜ちゃんについてどう思う? 別に何も問題ないわよね?」

 海老名は何も答えなかった。それは新田の目からみれば、同意の合図と解釈されたのかもしれないが、見方によっては肯定とも否定ともとれない態度とも見える。

 車の外は寒い。道端を歩く通行人の服装を見ても、時々塀の奥から顔を出している裸の木々を見ても、それはすぐに感じ取れた。東京には季節がないなどと、どこの田舎者が言っているのだろうか? 東京といえども寒い時は寒い。寒いという感覚に都会も田舎もないはず。寒さはどんな場所にいようと、電柱の陰から誰かを見守っている。

 しばらくして海老名は突然口を開いた。

 「なあ新田さん、全然関係ない話なんだけどさ、腐女子にレズビアンっているの?」

 「いるみたいよ。別にレズビアンや男の人が、ボーイズラブを読んじゃいけないってわけじゃないし。誰にだって門戸は開かれてる。もっとも私の周りで、そういうことをカミングアウトしてる人なんて聞いたことないけど。ひょっとして真菜ちゃんがレズビアンだとでも思ってるの?」

 「いや、そういうわけじゃない。ただ何となく関係ないことを考えただけ」

 「じゃ、どっちみち真菜ちゃんとは関係ないわね」

 海老名はまた黙り込んだ。


 夕方の捜査会議で、落合優里亜を殺害した犯人の顔見知り犯行説は、ほぼ否定された。新田のボーイズラブ愛好家仲間の間に怪しい人物はまずいない、と断定されただけではなく、落合が勤めていた銀行の同僚や落合の家族、学生時代の同級生たちに対する聞き込みの結果、落合はとにかく内気で、友達も全くと言ってもいいほどいなかった、というのが共通の意見。ましてや交際している男性など、その臭いすら感じられないほど存在しない、と言ってもよかった。

 そのようなわけで、犯人は外部からの侵入者ということで意見は一致した。特に中島秀太、別所晋哉のどちらかであろうということが。問題は中島なのか別所なのかということだが、このことについては意見が割れたまま。

 最も多い意見は中島秀太犯行説。女の子の人形に対する変態的な偏愛ぶり。生身の女性に興味がないどころか、嫌悪感すら持っていること。そんな生身の若い女性が自分の隣室に住んでいること。さらには隣室であるが故に、ベランダを伝って侵入しやすいこと……あと足りないのは、指紋などの決定的な証拠ぐらいである。別所犯行説すらなかったら、今すぐ中島を重要参考人として任意同行させる準備が整っていたことだろう。

 別所晋哉犯行説を支持する意見も少数ながら存在した。支持するのは、明らかに丸出為夫(まるいでためお)によって弱みを握られていると思しき、警視庁本庁の一部の腐った刑事だけだったが。というのも今回の捜査会議に、なぜか丸出が出席していたからである。丸出は相変わらず捜査の邪魔にしかならない頓珍漢(とんちんかん)な「名推理」を披露して、得意になっていた。

 「犯人は女性のおっぱいが、異常なほど大好きな男の仕業ですよ。それも痩せてて、なおかつFカップ以上の巨乳が好きと思えますな。あの部屋に若い女が住んでると知って、こっそり侵入したのはいいものの、いたのはデブで、しかもEカップ以下の貧乳の女だった。自分の好みに合ってない、ということで殺害したのは間違いないですぞ」

 確かに落合優里亜は少し太めの体格をしているが、「デブ」と言われるほどの肥満体ではない。着用していたブラジャーのサイズはDカップ。巨乳というほどではないかもしれないが、世間一般的には大きな方であり、厚手の上着を着用していても結構目立つ。だいたいFカップ以上で痩せている女など、胸にシリコンを注入したグラビアアイドル以外には存在しないもの。

 丸出の珍推理は、さらに失笑度を大きく上げながら続く。

 「巨乳といえば牛。犯人は牛にも興味があるはずです。そういえば被害者の女のすぐ下に、赤べこのコレクターが住んでるんですよね? ならば間違いない、そいつが犯人です」

 ということで別所犯行説も捨てがたい存在になってしまった。確かに別所が所有していたと思われる赤べこが、なぜそのすぐ階上の落合の部屋にあったのか?という疑問は解決されていない。それだけでも別所犯行説を完全に消去することはできないのだ。

 「そうですか。丸出先生のおっしゃることにも、確かに一理ありますね」と捜査本部長でもある河北署長は、澄ました顔でそう答えた。丸出に対する憎悪を、その無表情の裏に隠したまま。「あとは決定的な証拠が見つかれば、完璧なんですけど」

 落合が住んでいたマンションの前にパトカーを停め、特に中島と別所の部屋を張り込もうということで、今後の捜査方針は決まった。

 

 翌日曜日の夕方のことだった。池袋北署に怪しい人物が現れて、大騒ぎになった。

 その怪しい人物は、「機動戦士ガンダム」のアニメーションフィルムからそのまま飛び出して来たようなシャア・アズナブルの恰好をしたまま、署の正面玄関に入って来て、勤務中の制服警官たちをびっくり仰天(ぎょうてん)させた後、そのまま入館ゲートを通り抜けて、署の中へと駆け足で入って行った。

 1階受付の若い制服警官たちは動揺を隠せないでいる。

 「おい、今の、ガンダムに出てくるシャアだよな? 古くさ……」

 「でも入館ゲートちゃんと開いたぜ。ということは、ここの入館証を持ってるってことだよな? うちの刑事かな?」

 シャアの恰好をした人物は、刑事課のあるフロアまで昇って来ると、そのまま捜査1係のある場所まで直行。藤沢係長や海老名たちが口をあんぐりと開けたまま、驚きに満ちた視線を一身に浴びている。

 「遅くなりました。仕事に入ります」シャアは息を切らせながら、女の声でそう言った。

 「ところで君は誰だ?」係長は馬鹿面を克服できないまま聞いた。

 「え? 私? 新田……あ、そっか。こんな格好してちゃ誰だかわからないか」

そう言いながらシャアは帽子と目を覆う仮面、さらには金髪のかつらまで取り外した。すると首から上だけは、髪の毛を頭上に巻き上げた新田に変身。

 「じゃーん、新田清美、ただ今参上!」

 「はあ、驚いたな。うちの署がジオン公国に占領されたのかと思ったぜ」海老名があきれ返りながら言った。

 「新田さん、まさかその格好でコンテストに出たんですか?」大森も目を見張ったまま聞く。

 「そうよ。でも正直、やめとけばよかった。みんなから古臭い、なんて言われたもん。今時の若い子たちって、ガンダム知らないみたい。私たちの時代は、シャアなんて女の子にモテモテで、ボーイズラブでも人気だったもんだけど」

 「何だ? シャアってホモなのか? アムロと愛し合ってるとか」海老名が馬鹿にするように言った。

 「うん、シャアとアムロは愛し合ってるの。そんなの仲間内では昔から常識よ。ただ私としては、アムロの方が感情移入しやすいんだけどね。シャアにいつも憧れてて、戦争が終わったら一緒に暮らしたいなって、いつも思ってるから」

 「ガンダムって、そんな話でしたっけ?」と大森が疑問を口にした。

 「みんな新田さんの妄想。真面目に受け取るな」と海老名が忠告する。「でもアムロの方がいいんなら、アムロのコスプレすればよかったじゃん」

 「それは無理。年ばれちゃうもん」新田は言った。「さすがに若い子には勝てないから。シャアだったらいつも仮面着けてるから、少しは顔を隠せるかな?って思って」

 「何はともあれ、ご苦労さん」と係長が言う。「もうすぐ捜査会議の時間だけど、新田さん、そんな服装じゃ出れないな。どうしようか……」


 新田は捜査会議で、婦人警官用の制服を着用して出席した。

 「こんな格好したの何年ぶりかしら?」

 捜査に進展はあまりなかった。あるとすれば、別所晋哉犯行説の可能性が少し小さくなったことくらい。別所犯行説の熱烈な支持者だった丸出の推理が、ことごとく出鱈目であることが裏付けられたからである。

 確かに別所には、福島県出身の女性という奇妙な好みがあるが、別に巨乳である必要はないとか。趣味の赤べこも、巨乳と関連付けて集めているわけではないらしい。

 「牛にだってオスはいるし、オスは巨乳なんか持たないでしょ? 僕が福べこを集めてるのは、ただ牛だからとか、ましてや巨乳だからというわけじゃないんです。民芸品として、芸術作品として優れたものだからですよ」

 「典型的な草食男子ですね、あれは」大森がそう結論付けた。

 ただ、なぜ別所の赤べこが落合優里亜の部屋のベランダに転がっていたのか、という謎がまだ解決されたわけではない。中島秀太犯行説がほぼ確定する中、別所犯行説もまだ塵取りに掃き取る段階にまで達していなかった。何より丸出が、あくまでも自説を貫き通そうとしている。

 「あいつの言ってることは全部嘘ですぞ」いつも通りにシャーロック・ホームズのコスプレみたいな恰好のまま、丸出は捜査会議で憤る姿を見せた。

 「いい加減に自分が間違ってた、ってことを素直に認めたらいいじゃん、おじさん」シャアのコスプレをやめて、昔のような制服警官姿に戻った新田が言う。「もう中島が犯人なのは絶対に確実なんだから。おじさんのような人がいたら、はっきり言って邪魔。捜査の妨害になるから、もう黙っててくれない? この署にも、もう二度と出入りしないで」

 「何ですと、おばさん。この丸出為夫を怒らせる気ですかな? それなら後で見てらっしゃい。その弱りかけてる足腰が、二度と立てなくなるようなことを言って進ぜよう!」


 その翌日。結局土日が仕事で投げ捨てられたまま、平日の朝を迎えた。

 「ああ昨日は悪い夢を見たな。新田さんがシャアのコスプレして、俺たちの前に現れたんだから」と海老名が言う。

 「そうですね。僕もびっくりしましたよ」と大森も答えた。

 「俺、あの姿見てから、今でもしゃっくり止まらねぇや」

 と海老名は、いつものように大袈裟な冗談を飛ばして、新田をわざと少し怒らせてやろうとした……が、新田からは何の反応もなし。新田は、人の話が耳に入っているのかどうかわからないが、黙ったまま、これから始まる捜査会議の準備を始めている。どうもいつもと様子が違うような……


 会議後、刑事たちは関係者への聞き込みのために、現場のマンションに行く準備を始めた。特に新田がやけに張り切っている。コスプレのイベントも終えた今、新田の気持ちは一刻も早く仲間の落合優里亜を殺害した犯人の逮捕のために、手に持てる集中力を全て1つにかき集めて束にまとめているようだ。

 「俺も一緒に行くよ。ちょっと調べてみたいことがあるし」

 と海老名が言うと、突然新田が、

 「何を調べるの?」

 どこか少し怒っているような、(とげ)のある口調。

 「あ、いや……あのマンション、1階から2階までベランダ側から登り降りするには、どんな方法が考えられるか、もう1度確認しようと思ってさ」と海老名は少し面喰らいながら言うと、

 「そう。それ、他の人に任せるから、海老名君は来なくていいよ」

 海老名君? 新田の口からそのように呼びかけられるなんて、何年ぶりのことだろうか? 明らかに海老名との間に見えない壁を築いて、距離を置いている。気のせいか? まだ昨日の悪い夢を見続けているのか? 署に戻ってきたら、またいつも通りの馴れ馴れしい口調に戻るのだろうか? 結局、海老名は新田に付いて行くことを断念した。


 昼過ぎに戻って来ても、新田の態度は変わらなかった。新田は、一度だけちらりと海老名をにらみつけた後は、自分の席で一心不乱に報告書を書いている。おかげで海老名は聞き込みの様子を、新田と同行した大森から聞くはめになった。

 大森によると、新田は中島秀太が犯人であることを強く確信しているらしく、中島に対する聞き込みでも、常に上から目線で威圧的な態度を取り、中島が怖気づいてしまうほどだったとか。自分のリカちゃん人形に「キヨミちゃん」などと名付けて、その硬い身体に汚らしい精液を引っ掛けているだろうことが、それほど(しゃく)に障るのだろうか? 

 「あんな言い方じゃ、却って逆効果ですよ」と大森はぼやいた。


 その日の夕方の捜査会議に、なぜか海老名の姿はなかった。早退したらしい。どうも新田に冷たくされて、元気をなくしたという噂。捜査の方もほとんど進展なし。

 

 サンシャインのオフィス棟にある、某大手コンビニの本社入口。街中でもよく知られている店のロゴが大きく飾られていて、まるで店舗そのもの。海老名は急に腹が減ってきた。この中で肉まんと缶ビールでも売ってないかな?

 陽も沈み、そろそろ帰宅時間が始まっている。コートを着込み、これから外の寒い風に立ち向かって行こう、と疲れた表情で準備をする者。残業前の休憩なのか、大きな財布だけを手に持って、軽装のままエレベーターに向かう者。そんな会社員たちが次から次へと出入り口から吐き出されて来る。店でよく見かける制服を着た店員は、1人もいない。

 海老名が待っていた若い女性が、中から出て来た。茶色く染めた長い髪に、いかにも高級な店で買ったと思しきコートや長いスカート。顔は美人でも不美人でもなく、日本に6千万人いる女に顔の良し悪しで順位を決めることが許されれば、ちょうど3千万人目といった感じの平凡さ。立派な社会人女性なのだが、彼女ほど「普通」とか「平凡」という言葉がふさわしい女性もいないだろう。特徴らしい特徴をつかむのがこれほど難しい女性も、逆に珍しい。ある意味で、その平凡さが個性と言っていいかも。その女性は海老名の姿を見ると、露骨に不快な表情を見せて緊張を始めた。

 「やあ、また会ったね。俺のこと覚えてる?」海老名は笑顔で話しかけてきた。

 「私に何の用ですか?」木崎真菜は刺々しい口調で聞いた。

 「そう怖い顔すんなって。別に君を鍋に入れて食おうってわけじゃないんだし」

 「でも優里亜さんのことで私のこと疑ってるんですよね? だからここまで押しかけて来たわけですよね?」

 「どうして君のことを疑ったりするの? あ、ひょっとして疑われるようなことやってるだろう? 新田さんから聞いたぞ。腐女子仲間で酒飲んで、優里亜ちゃんが酔っ払って、道端で大の字になって寝ころんだら、君もその隣で大の字になって寝ころんで、通行人の邪魔をしたって」

 「そんなことしてませんよ。清美さんがそう言ったってのも絶対嘘です。本当は何の用ですか? もちろん事件のことで協力できることなら協力しますけど」

 「いや、事件とは全く関係ない。今日ここへ君を訪ねて来たのは、何ていうか……すごく言いにくいことなんだけどさ……俺、君みたいな女の子が好みなんだよね。で、個人的にお付き合いしてくれないかな?……って」

 真菜は少々呆気に取られながら、軽く薄笑いを始めた。

 「冗談でしょ? 私みたいなブスのどこがいいんです?」

 「いや、君ブスじゃないよ。結構いけるぜ。だいたい女は顔じゃない。俺の第6感が君を求めてるんだ」

 「私のこと馬鹿にしてるでしょう? だいたい刑事さん、バツイチなんですよね? 私、軽い男の人って大っ嫌いなんですけど」

 「おいおい、バツイチだからって軽いとは限らないぞ。俺は真剣なんだよ。君とだったら絶対うまくやれる。気も合いそうだし。熊田曜子とペネロペ・クルスが好き、って共通の好みがあるわけだし。頼む。俺と本気で付き合ってくれないかな?」

 「でもな……刑事さんのような人って、私の好みじゃないし」

 「じゃ、どんな男が好みなの?」

 「そうだなあ……まず30歳以下の若い人。結婚歴のない人。身だしなみのきちんとしてる人。それから目付きの悪くない人……ってとこかな?」

 と真菜は海老名を品定めしながら言った。どれも海老名とは真逆……というより、海老名を避けるために、わざとそう言っているとしか言いようがない。

 40を過ぎた離婚歴のある海老名は、櫛も入れないボサボサの髪をしているし、スーツもアイロンをかけていないから、ヨレヨレ。ワイシャツはクシャクシャ。黒い革靴に靴墨も付けないので、泥と埃ですっかり色あせているし、(かかと)もすり減ったまま。

 おまけに海老名は近眼だった。ものを見るにも、焦点を合わせるために常に眉根をしかめないとよく見えないから、人から目付きが悪いとよく言われる。眼鏡やコンタクトレンズをはめればいいのだが、それは海老名の主義に反すること。というのも職業柄、眼鏡やコンタクトをはめると、誰かにいきなり顔を殴られた時に危険だからである。現に前々回の珠江(しゅこう)飯店事件の際、犯人の女を逮捕する前に、海老名は顔面を思いっきり殴られた。あの時、眼鏡やコンタクトを身に着けていたら、確実に相手を取り逃がしていたところだったろう。

 「……ということなんで、今の話はなかったことにしてください」と真菜は素っ気なく海老名に言った。

 「えー、頼むよ、今すぐOKしなくてもいいから、少しは考えてくれない?」

 「んーまあ、考えるだけ考えておきます。それじゃあ私、急ぎますんで、ここで失礼させていただきます。くれぐれも私の後に付いて来ないでくださいね」

 そう言って真菜は、エレベーターに向かって小走りに逃げて行った。

 今日のところはこれでいいか。海老名はそう思いながら、会社の入口前のトイレに向かった。そのトイレの前に怪しい人影が……トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草……

 「何だ、おっさん、こんなとこで何やってんだ?」海老名はうんざりしながら丸出為夫(まるいでためお)に言った。「まさか俺に付いて来たんじゃないだろうな?」

 「エビちゃん、見ましたぞ。こんな所で女をナンパですか」丸出がニヤニヤと勝ち誇ったような笑顔で言った。「これでまた1つ、エビちゃんの秘密が増えましたな」

 「別に秘密でも何でもないよ。俺も前のかみさんと別れて、すっかり女日照りなんだ。ちょうど新しい女が欲しいと思ってさ。別にみんなに言いふらしたって構わないぞ」

 「そうですか。それなら遠慮なく署で言いふらしてあげましょう。ひひひひ……」

 「勝手にしろ。でももう俺には二度と付きまとうな。俺が自宅に戻るまで、しばらくここにいて酒でも買って飲んでろ。警備員に捕まっちまえ」


 翌火曜日。新田がシャアのコスプレをしている、という話題がまだ鎮火しない中、今度は海老名が女性を口説いているという噂が、早くも朝から池袋北署全体に、外の強風にも煽られて燃え広がっていた。

 「エビさん、今度の相手とはうまくいくといいですね」

 と大森が海老名をからかう。

 「いや、まだ口説き落としたわけじゃないんだけど……」

 一方、新田は相変わらず海老名に冷たかった。もはや北極の氷のような冷たさ。

 「よーし、今日の聞き込みは俺も頑張るぞ。みんなも張り切っていこう!」

 と海老名は大声で気合を入れながら言ったが、新田が一言、

 「海老名君は来ないで」

 「どうして? どうして昨日からそんなに俺に冷たいの、清美ちゃん」

 「馴れ馴れしく言わないでくれる? 海老名君がいると邪魔なの。捜査が乱れる」

 「新田さん、捜査にはチームワークが必要だぜ。仲間割れしないで、一致団結してやらないと。捜査乱してるの、新田さんの方じゃないの」

 「あなた、木崎真菜ちゃんをナンパしてるんですってね。真菜ちゃんも私も、容疑者リストから完全に外れたわけじゃないのよ。公私混同はやめてくれる? それが捜査の邪魔だと言ってるの」

 そこへ海老名の噂をばら撒いた張本人である、丸出が現れた。

 「おや、エビちゃん、おばさん、何を喧嘩してるんです?」

 「あんたには関係ねぇよ。今日の聞き込みには付いて来るな」海老名が言う。

 「ほう、今日の聞き込みには私も行くことになってるんですがね」

 「何だと? 誰があんたも来ていいと言った? おっさんがいると邪魔でしょうがないんだ。進むべき捜査も、どんどん後ろへ退いていくだけなんだよ。絶対付いて来るな!」

 「でもこのおばさんが、ぜひ私のお知恵を拝借したいと言ってるし……」

 「あああ? 新田さんがそんなこと言うわけないだろ! 嘘つくんじゃねぇ!」

 「嘘じゃないわよ。私が頼んだの」新田が真顔で言った。「丸出さんの知恵を借りたいから……」

 海老名は言葉を失い、途方に暮れた。その間に新田や丸出たちは出かけてしまい、海老名は取り残されることに。知らないぞ。丸出が捜査に加わると、絶対ろくなことにならない。

 それにしても新田まで丸出を持ち上げ出すとは……悪夢以外の何物でもない。これが夢なら、今すぐにでも覚めてほしいものだ。

 そういえば……海老名は突然気づいた。一昨日、新田がシャアのコスプレ姿で現れた日。捜査会議の席上で新田と丸出が言い合いになり、二度と足腰が立たなくなるようなことを言ってやる、みたいなことを丸出が新田に宣言していたのを思い出した。その翌日から新田が海老名に冷たくなり、丸出を持ち上げ出したのは……まさか、丸出の奴、あのことを知ってるんじゃないか? 知ってるとしても、どこで知ったのだろう? それは海老名と新田の2人以外に誰も知らないはずの、他人には絶対に知られてはならない秘密だった。


 さて、事件現場のマンションへ再び出かけた新田たち刑事一行ではあるが、今日も昨日の繰り返しといった感じで、捜査が進展する気配はなさそうだった。新田は中島秀太の部屋で、また中島を厳しく詰問し続けているし、その大きな声は防音壁を突き抜けて、外まで聞こえる。いくら中島が最も怪しいとはいえ、新田のあの中島に対する態度は、もはや狂気と言ってもいい。聞き込みというより取り調べ。本来なら署へ連れて来てやるべきことなのに。

 一方、別所晋哉犯行説に執拗(しつよう)にこだわり続ける丸出は、別所の部屋で別所の「嘘」の証言をひたすらなじり続けていた。別所が戸惑いの表情を見せながら、別に嘘をついたわけでも何でもなく、本当のことを言ったまでだ、と繰り返し反論しても、丸出は聞く耳を持とうともしない。それは丸出のイエスマンであるはずの本庁の刑事が、丸出をなだめすかして黙らせるまで続いた。

 大森はマンションの狭い裏庭にいた。ちょうど別所の部屋の前で、犯行現場である2階の落合優里亜の部屋を見上げている。海老名から頼まれていたことを調べている最中。

 地上から2階まで優に4メートルはあろうか? 落合の部屋のベランダの手すりに、ひもか梯子が使われた形跡はない。もしこの高さまで登り降りするとしたら、ロッククライマーでもない限り不可能だろう、と大森は判断した。登るだけでも難しいのに、直接あそこから地上に飛び降りたら、足を怪我しかねない。マンションと1メートルほどの狭い通路を隔てて、隣は個人邸宅。茶色い煉瓦(れんが)でできた頑丈そうな建物。間に塀や柵などはない。あの建物から飛び移る、ということも不可能ではないかもしれないが、それでも素人には不可能であろう。

 果たして別所に、この部屋を登り降りする能力はあるのか? 別所の話によれば、別所は昔から運動が苦手で、ロッククライミングはおろか、登山すらまともにしたことがないとか。それならば犯人は、落合の隣室の中島か常盤明男しか考えられないだろう。

 外は風の冷たい叫び声以外に、ほとんど何も聞こえてこないほど静か。辛うじて中島の住む角部屋から、新田の怒鳴り声が微かに聞こえるぐらいである。もし中島が犯人じゃないとすれば、後で必ず訴えられるぞ。知らないぞ、と大森は思った。

 そこへ丸出が裏庭にやってきた。顔付きからして明らかに機嫌が悪い。

 「あー面白くないですな。別所は間違いなく嘘をついてるのに、しらを切り通しなんですから。嘘発見器でも貸してくれませんかね、おチビさん」

 「だから僕のことを『おチビさん』って言うの、やめてくれないかな? それ言われるの、この世で一番嫌いなんだよ」

 丸出のせいで、大森にも不機嫌さが感染(うつ)ってしまった。

 「そうですか。そういえば、あなたの身長は121センチでしたっけ?」

 「そこまで低くないよ。とにかくもう黙っててくれないかな? 僕はこの建物のことを考え中なんだ」

 大森にそう言われて、丸出は素直に黙り込んだ。黙り込んだのはいいのだが、じっと落ち着いて静かにしているのは、丸出の性分には合わないらしい。丸出は少し腰をかがめて、架空のゴルフクラブを持って、スイングをする真似事を始めた。

 「あー、バンカーですか。今日は調子がよくないですな」と丸出はマンションの上の方を見ながら、独り言を言った。バンカーどころか、周りには砂場すらないのに。

 「おっさん、ゴルフやるのか?」大森が聞いた。

 「最近始めたばかりでしてな。面白いですぞ。特に真夜中にやるのが最高にいいですな」

 「真夜中にゴルフなんてできないだろう。ゴルフ場は真っ暗闇だし、練習場だって開いてないはずだ。ボールを打ったって、どこへ行ったかわからなくなるぞ」

 「何、そこの道端でだってできますし、ボールがなくてもクラブさえあれば、空き缶やペットボトルを代わりにして打てばいいんですからな」

 「でも真夜中は駄目だろう。しかも道端って、この都内だよな? あんたがどこに住んでるのか知らないけど。真夜中に外を歩いてる人だっているんだぞ。誰かに当たったりでもしたら、どうすんだよ?」

 「それは細心の注意を払ってます。人には絶対当てません。道端に落ちてるゴミとかを家のベランダに打ち込むだけですから」

 「家のベランダって自分()のか?」

 「いえ、私ん()にはベランダがありませんから、他人家(ひとんち)のベランダに打ち込んでます」

 「おいおい、それはますます駄目だろうが。迷惑行為だぞ」

 「そうですかね? でも面白いですぞ。この前もちょうどここで、この場所でプレーしましたからな。暗くてよくわからなかったんですが、何か赤べこのような形の物が転がってましてな。それをクラブで打ったら、ナイスショット! 見事この2階の部屋のベランダの中に入りましたぞ……ほら、ここのすぐ真上。あのゴミ屋敷と角部屋の間のベランダに」

 「おっさん、それ、具体的にはいつのことだ?」


 かくして別所晋哉犯行説は、ほぼ完全に消えた。例の赤べこがなぜ落合優里亜の部屋のベランダに転がっていたのか、その謎が解けたからである。

 「えーっと、あれは間違いなく先週のことでした。火曜だったか、金曜だったか……あ、事件が起きたのが火曜で、遺体が見つかったのが金曜でしたっけ? それならば水曜か木曜のはずですな……え? なぜあのマンション? そりゃゴルフやるのに理想的な場所だからですよ……おっしゃる通り、似たような建物はたくさんありますけど、そりゃ、私の名探偵としての勘でして……」

 丸出はしどろもどろになりながら、そう答えた。

 池袋北署の刑事たちの怒りは、焚火よりも激しく燃え上がっていた。海老名が冗談半分で丸出犯行説を口にすると、新田を除く刑事たちはみんな本気で賛同。

 「確かにその説は真剣に検討してみるべきだな。問題はあいつが、外からベランダを登り降りできるかどうかだが」と藤沢係長もこの調子。

 戸塚警部に至っては、ゴミの不法投棄だけであいつを逮捕できる、後は徹底的に泥を吐かせれば絶対に落ちるぞ!と息巻いていた。

 だが予想していたことだが、河北署長や本庁の刑事たちによって、最終的に丸出犯行説はなかったことにされてしまった。それよりも問題は中島だろう、ということで。

 中島秀太犯行説は、署の屋上からよく見える富士山のように、もはや不動のものとなった。その日の夜の捜査会議でも、中島を重要参考人として任意同行させようということで、捜査方針は決定。早速、新田を始めとする刑事たちは、中島の部屋へと直行した。

 だが任意同行はあくまでも任意であり、拒否することができる。中島は任意同行を拒否した。自分は何も悪いことをしていないし、ましてや人を殺してもいないから、ということで。その代わり、ますます怪しさは増し、マンションの前に停めてあるパトカーの数は増え、張り込みの刑事の数も増えることになってしまったが。


 その頃、捜査会議をまた欠席した海老名は、池袋駅近くのとある雑居ビルの入口にいた。とっくに陽は沈み、昼間開いていた店もどんどんシャッターを下ろし始めていくような時間帯。昼間でも優しさを与えてくれなかった寒さが、その冷酷さをどんどん強めていく。海老名はコートの懐から、時々小瓶に入ったウイスキーをちびちびと舐めながら、じっと立ち尽くしている。

 建物の中から木崎真菜が出て来ると、海老名は今にも凍り付きそうな顔を無理に溶かして、笑顔をつくった。真菜は海老名を見ると、急に不機嫌な顔に。

 「やあ、また会ったね。会いたかったよ」と海老名は陽気に言う。

 「何ですか? どうして私がここにいることを知ってるんです?」真菜は刺々しく言った。「まさか私を尾行してるんじゃないでしょうね?」

 「尾行だなんて……別に仕事でやってるわけじゃないんだから。好きな子がどこへいくのか、その後をつけることぐらい、少しだけならいいじゃん。ストーカー呼ばわりされない程度なら……で、例の話なんだけど、考えてくれた?」

 「付き合ってくれって話ですか? やっぱりお断りします。なかったことにしてください」

 「えええー、そんな、もっとちゃんと考えてよ」

 「何度考えても同じだと思います。あなたのような男の人、私の好みじゃないんで」

 「好みに合わなくても、合えそうなところは直すように努力するからさ。今度からもっとちゃんとした服着て、ちゃんとした靴履いて、髪に櫛入れて、コンタクトもはめるよ。俺、本気で君好みの男になりたいんだ」

 「でもボーイズラブを馬鹿にしてるんですよね? 清美さんから聞きましたよ」

 「いや、君と出会ってから腐女子……じゃなくて、ボーイズラブを読むようになったんだよ。面白いね、意外と。男が男のケツの穴にチンポコ入れる場面なんか、笑いが止まんなくてさ」

 「やっぱり馬鹿にしてる。そもそもボーイズラブの漫画とか読んだことないでしょ? そういう人は好きになれません。私、急ぎますんで、さよなら……」

 「あ、あ、あ、待ってよ。ボルダリングやった後で腹減ってない? 一緒にメシなんかどうかな?」

 「結構です。お腹なんかすいてませんから……でも私がボルダリングなんてやってるの、なぜ知ってるんです?」

 「そりゃ君が、この建物のボルダリングジムから出て来るの見たからさ。そんなこと誰にだってすぐわかるよ。それにしてもすごいね。ボルダリングなんかやってるんだ。ということは、谷川岳みたいな岩山なんかもスルスル登れちゃうんだ」

 「いえ、実際の岩山は登ったことありません。でもボルダリング、楽しいですよ。こう見えても私、体育会系なんです。大学時代なんかキックボクシングやってましたから」

 「キックボクシング? 俺もやってた。どっちが強いか、今度俺と勝負しない? もう俺たち、ますます気が合うじゃん。ますます好きになってきたな。ねえ、一緒にメシ食いに行こうよ。おごってやるから」

 「嫌です。もう私には構わないでください。それでは……」

 「ねえねえねえ、もうちょっと待ってくれない? せっかく君のためにプレゼントまで持って来たんだからさ」

 「プレゼント?」

 「そ、プレゼント……」と言いながら、海老名は手袋をはめたままコートのポケットに手を突っ込み、ある物を取り出した。それは市販の白いビニール製のブックカバーがかけられた本。小口のところに幅5センチほどの透明なテープを着けて、本が開くのを防いでいる。

 「そのテープめくってみな」と海老名は言った。

 真菜は小口のテープを少しめくってみた。明らかに、このテープに少し興味を持ったようだ。

 「そのテープ面白いでしょ。すぐにはがせるし、また着けられる。何度着けたりはがしたりしても使える優れものでね。しかもべとつかない。そのテープの糊の部分、触ってみな」

 海老名にそう言われて、真菜はテープの糊の部分を、手袋をはめていない素手のまま指で突いてみた。

 「本当だ。べとつかない」

 「でしょ? もっともっと触ってみな」

 真菜は海老名に言われるままに、何度もテープの糊の部分を指で触ってみる。

 「テープ全部はがしてもいいよ。どうせはがしても、またくっつくから」

 海老名にそう言われて、真菜はゆっくりと本からテープをはがした。本よりもまだテープの方に興味を持っている。本を脇に抱え、テープの表面を左手に乗せてから、右手の指でテープの糊を何度も何度も突いていた。

 「まだテープの方に興味あるかな? 俺のプレゼントって本の方なんだけど……あ、そのテープ俺が預かるよ。もういらないでしょ」

 テープを海老名に預けてから、真菜は脇に抱えていた本を手に取って、パラパラとめくり出した。途端に真菜が眉根をひそめて、不快な顔をし始める。

 本の中身は、女同士が裸で絡み合う描写がこれでもか、とばかりに何度でも出て来る、男が読んで楽しい典型的なエロ漫画だった。

 「何ですか、これ。女同士でエッチしてる場面ばかりじゃないですか」真菜は漫画をめくりながら、怒りをあらわにした。「しかも絵柄からして男の人が描いてる。男向けのエロ漫画でしょ」

 「あれ? 俺、君が好きそうなボーイズラブ漫画を選んだつもりなんだけどな。そんなに中身が違う?」

 「違うどころの話じゃないですよ。これじゃガールズラブです。しかも男向けの……だいたいこの部分、何ですか? 『女ってみんな、レズビアンの気があるものなのよ』って。人を馬鹿にするのも、いい加減にしてください!」

 そう言いながら、真菜は漫画本を海老名の胸に叩きつけるように押し付けた。海老名は漫画本を落とさないように両手で抱えながら、

 「あ、いや、そのつもりじゃ……」

 「あなたみたいに女心のわからな過ぎる人って、大っ嫌いです! もう顔も見たくない! 二度と私の前に現れないでくださいね! それでは、永久にさようなら!」

 そう怒鳴りながら真菜は、池袋駅方面へ駆け出して行った。

 あーあ、振られちゃった。1人取り残された海老名は、小声で独り言をつぶやいた。でもま、いいか。「永久にさようなら」だって? どうせまたすぐに会えるさ。俺の勘が正しければ……


 それから何時間か後、日付が変わった真夜中。渋滞に巻き込まれて立ち往生していた捜査が、やっと動きを見せ始めた。

 中島秀太が夜逃げを図ろうとしたのだ。スポーツバッグに必要最小限の荷物を入れて(バービー人形数体を含む)、こっそりと部屋の外に出たが、たちまち張り込み中の刑事に気づかれた。刑事の姿を目にすると、中島は走って逃げようとしたが、すぐに取り押さえられる。その際、刑事に暴力を振るったので、公務執行妨害で現行犯逮捕された。

 取り調べに際し、中島は殺人の容疑をかけられ、連日刑事たちが自宅を訪れることに対して精神的な苦痛を受け、もう耐えられないから、どこかへ逃げようと思ったとか。

 「もう、うんざりなんですよ。僕が殺人犯呼ばわりされるの。リカちゃん人形を持ってるから、人を殺したんだろうですって? バービー人形を持ってるから、女の部屋に侵入したんだろうですって? 女の子の人形を持ってることが、そんなに悪いことなんですか? 人形を愛してはいけない、なんて法律でもあるんですか? もう勘弁してください!」

 中島は、落合優里亜を殺害したことについては、あくまでも否認を続けている。

 まだ夜が明けない朝早くから鑑識係を出勤させて、中島の指紋を採取し、落合の部屋の現場に残された犯人のものと思われる指紋との、鑑定作業が始まった。刑事たち、特に新田は中島の指紋が間違いなく現場に残されたものと一致する、と固く信じていたが……

 鑑定の結果、2つの指紋は一致しなかった。

 かろうじて現場にあったリカちゃん人形から検出された程度。ワインの瓶やガラス戸など、肝心な箇所に残っていた指紋とは明らかに違う。

 かくして捜査は、また振り出しに戻ってしまった。特に新田の落胆ぶりは大きい。そろそろ彼女と和解しないと、海老名はそう考えた。


 正午。海老名は元気のないまま席を立った新田に近づいて、声をかけた。

 「新田さん、俺とデートしよう。メシおごってやるからさ」

 相変わらず新田は海老名を冷たく無視して、フロア内を歩き続けている。

 「ねえ、新田さん、どうしてそんなに俺に冷たいの? 俺が何かした? ババアなんて言ったのが、そんなに気に障った? もしそうなら土下座して謝るからさ。俺と仲直りしようよ。もうそうやって新田さんが冷たくするから、俺、毎晩枕を濡らして泣いてるんだぜ。ねえ、新田さん」

 それでも新田は無視して歩き続ける。海老名は新田の前へ出て、新田の歩みを止めた。

 「新田さんが俺のことを避け続けてるのは」ここで海老名は、誰にも聞こえないように声を落とした。「まさか岸竜馬(きしりょうま)のことじゃないのか?」


 あれは、ちょうど1年前の今頃のこと。池袋北署管内で、自称「プロギャンブラー」、つまり無職の岸竜馬(当時25歳)が、ギャンブルと覚醒剤に溺れた挙句、自宅で妻と幼い子供を刺し殺して、逃亡を図った事件が発生した。

 岸が自宅の近くにある愛人の部屋に隠れたとわかり、警察は愛人の住むアパートの周りを包囲。夜になる前に警察は愛人の部屋に踏み込んだが、岸は部屋の窓から脱出し、警察の網の目をかいくぐって逃亡。愛人も部屋の中で刺し殺されていた。

 まだこの近くにいるはずだ、ということで、夜の闇が悪事を隠し始めた中、警察官たちが岸の行方を必死に追いかけ始めた。夜の闇に加え、昼間降っていた雨が雪に変わり出す。最悪だな、こりゃ。海老名は小声で文句を言いながら、住宅街の中で目を光らせて、岸の姿を必死に探していた。

 その時、すぐ近くで「止まりなさい!」という女の大声。明らかに新田の声だった。その直後、大きな銃声が静かな闇を引き裂く。

 海老名が銃声のあった方角へ走っていくと、新田が両手で銃を構えながら、仰向けに倒れている岸のそばへ歩いているところだった。場所は住宅街の狭い裏道。他に誰もいない……はず。新田はまだ両手で銃を構えている状態で、立ったまま息を切らして、倒れている岸を見下ろしている。岸は胸を銃で打たれて、魂を失った両目を大きく見開いていた。即死状態であることは、医師の判断を待たずとも明らかなこと。倒れる前は右手で折りたたみ式ナイフを振り上げていたものと思われ、その右手の近くにナイフが転がっていた。

 銃声を聞きつけて、他の警官たちも駆け付けて来た。さらには無関係の野次馬も雪が降る中、恐る恐る現れ始めている。

 「はーい、みなさん、我々は警察の者です!」海老名はとっさに大声を上げて、野次馬たちに訴え始めた。「今ここに倒れてる男がナイフを持って、この女性刑事に襲いかかろうとしたので、彼女はやむなく発砲しました。これは正当防衛ですよ!」


 「新田さん、本当に岸は、新田さんに襲いかかってきたのかな?」

 あれから数時間後、とりあえずの処理を終えて、刑事たちは署に引き上げていた。海老名は新田とパーテーションで仕切られた席で、2人きりに。

 「俺が現場に着いた時、新田さん、倒れた岸に向かって歩いて近づいてただろ? つまり相当な距離があったはずだよな? それに岸の奴、仰向けに倒れてた。もし新田さんに襲いかかってきたのなら、前のめりになって、うつ伏せに倒れたはずだ。ゆっくり歩いて来たのなら仰向けに倒れることもあるかもしれないが、持ってたナイフはもっと新田さんに近い所に落ちるものじゃないか? どうもあの様子を見ると、岸はナイフを振り上げて威嚇(いかく)はしたかもしれないが、新田さんに襲いかかってきたとは思えない。向こうは1歩も歩いてないんじゃないか?」

 「何が言いたいわけ?」新田は(おび)えた目をして聞いた。

 「つまり、あれは正当防衛とは言えない。一方的な射殺だ。ばれたらまずいぞ。もし目撃者でもいたら……いないと信じたいけどな、あの雪の降る寒い夜に。ま、新田さんの正当防衛を主張したのはこの俺だから、もしばれたとしたら俺も同罪だ。でもだからこそ本当のことを知っておきたいんだ。後で新田さんを弁護するためにも。どうなんだ? 本当に岸は至近距離で新田さんに襲いかかってきたのか?」

 「怖かったの……」新田は涙をこぼしながら話し始めた。「あいつ、覚醒剤やってるし、何をしでかすかわからなかったから。銃を構えた時には、あいつと10メートルぐらい距離があったけど、持ってたナイフを振り上げた時、そのナイフ投げて来るんじゃないかと思って、思わず引き金引いちゃった……」

 「なるほど。シャブが切れて手が震えてる奴がナイフなんか投げたって、どうせ新田さんに当たりっこないよ。どっちみちありのままを話したら、正当防衛の成立は難しいかもな。ま、目撃者が他にいないことを祈るだけだけど、もしばれたら俺も同罪だ。一緒に罪をかぶるよ。でもこれでよかったんだ。あんな岸みたいな人間の(くず)。どうせ何年かムショに入って娑婆に出ても、更生なんかできるわけがない。友達も家族もいないし、あいつが死んでも悲しむ奴なんかいないね。新田さんにぶっ殺されて正解だったんだよ」


 「やっぱり丸出(まるいで)の奴、あのことを知ってたんだ」

 1年前と同じパーテーションで仕切られた席で、海老名と新田は2人きりで話し込んでいた。

 「どこで知ったのかな、あの野郎。まさか他に目撃者がいて、その目撃者から情報を仕入れたのかな? それとも直に目撃したのかな? いずれにしても、とんでもない疫病神だよ。あいつ、バカなふりして何でも知ってるからな。俺の酒気帯び運転のことだけじゃなく、色んな刑事の秘密を知っていやがる」

 「でも丸出、海老名君のことは一言も話してなかった」新田はあの時と同じように、怯えた顔つきで言った。

 「だから新田さんは、俺が丸出にあのことをチクったと思って、俺のことを避けてたわけだ。俺がそんなこと、あいつに言うわけないだろ。誰よりもあいつのこと嫌ってるのにさ。ただ、あいつが俺のことを新田さんに話してないってのは、少し気になるな。あいつ、あの件に関して、俺も関わりを持ってるってことを知ってるのか、知らないのか」

 「本当に海老名君は丸出に、あのことを話してないのね?」

 「当たり前だろうが。俺が仲間を売るようなことするか? だいたい正当防衛を主張したのは、この俺だぜ。もし公になったら俺も一緒に罪をかぶるって、言ったよな?」

 「今の言葉、信じてもいいのね?」

 「もちろん。新田さんが地獄に落ちる時は、俺も喜んで道連れになるよ。地獄ってどんな場所なのか、一度見てみたい気もするしね……というわけで、ほら、仲直り」

 と言って海老名は右手を差し出して、新田に握手を求めてきた。新田は数秒間ためらいながらも、海老名の手を軽く握った。

 「よーし、和解成立!」海老名は陽気に言った。「それにしても優里亜ちゃん殺害事件の捜査、行き詰っちゃったね。ま、中島が犯人なわけないけどさ」

 「私は今でも絶対、中島が犯人だと思ってる。どういうトリック使って優里亜ちゃん殺したんだろう?」

 「トリックなんて何も使っちゃいないよ。あいつは犯人じゃない。あいつは気が小さすぎるだけの変態オナニー野郎だよ。そんな奴に人を殺せるわけがない」

 「じゃあ誰が殺したっていうの? 心当たりある?」

 「もちろんあるよ。俺の勘が正しければ、夕方には鑑識の大原君が奇麗な薔薇の花束を持って、新田さんにプロポーズしに来るぜ。『新田さん、僕と結婚してください』って」

 「えー、やだ。あんな眼鏡かけた、笑わないガマガエルみたいな顔……」

 「おいおい、そんなこと言うなよ。男は顔じゃないぜ。大原君、確かに顔の表情には乏しいけど、優秀な鑑識能力の持ち主だし、それに色々と役に立つ雑学ネタをたくさん知っててさ、一緒に酒飲むと結構面白いぞ。例えば香水とかハイヒールとかって、女のお洒落アイテムが発明された裏には、割と汚い事情があるんだよ。ハイヒールって、道端に落ちてるウンコを踏まないために発明されたものなんだぜ。これ、大原君が俺に教えてくれたことな」

 「ふうん……」新田は馬鹿にしたような目付きをして、海老名を見た。「エビちゃんって大原君とも愛し合ってたんだ」


 その日の夕方、大原は薔薇の花束よりも素敵なプレゼントを持って、新田たちの前に現れた。もっとも新田は全くうれしがらなかったが。それどころか、違う意味で大きなショックを受けてしまった。

 落合優里亜を殺害した真犯人が特定されたのである。海老名が大原に渡したある物から、落合の部屋に残されていた犯人のものと思われる指紋が検出された。間違いなく同一人物である、という結論。

 海老名が鑑識に回した物とは、透明の養生テープに白いビニール製のブックカバー、そしてそのブックカバーに挟まっていた男向けのガールズラブのエロ漫画本……


 「今でも信じらんない。まさかあの子が犯人だったなんて」

 新田は車を運転しながらつぶやいた。夜遅くに向かう先は、事件の犯行現場のすぐ近くにある別のマンション。

 「信じたくない気持ちはよくわかるよ。まだ彼女が犯人と完全に決まったわけじゃない。後は供述だ」助手席の海老名が言った。「ま、俺は初めから彼女が一番怪しいと思って、付け狙ってたけどな。ナンパするふりをして」

 「根拠は何?」

 「まず優里亜の口紅の形。あれは女にキスされたんじゃないか、と思ったんだよ。初めの方で俺、そのことを話したよな? あれがどうも気になってさ。んで、彼女の部屋に行ったら、熊田曜子とペネロペ・クルスのポスターが貼ってあった。それ見て、俺は確信したよ。彼女が犯人だなって。熊田曜子もペネロペ・クルスも、女がああなりたいと憧れるようなタイプの美女じゃない。普通は男から見て肉欲をそそるような、いわゆるセクシー系の女だよ。2人とも巨乳だし。つまり彼女は女が好きな女、要するに……そういうことなんじゃないかって思ったね。だからちょっと試しにナンパしてみたんだ。男に興味があるかどうか確かめるために。もし俺に少しでも気があるようなら失敗だったけど、そこは見事に成功……とも言えないか。俺に男としての魅力がないせいもあるけど。でもわざとレズ漫画をプレゼントしたらカンカンになって怒ってたし、バッチリ指紋も採取できた。ボルダリングやってるってのも重要な情報だ」

 「そういうこと、どうしてもっと早く私に言わなかったの?」

 「そりゃ、新田さんをこれ以上悲しませたくなかったからさ。話そうにも新田さん、俺のこと避けてたし。いずれにしても確実な証拠をつかむまでは話すまい、と思ってたんだよ」

 車は目的地に到着した。昼間からどんよりと曇っていたが、夜になってから小雪がちらついている。積もる程の降りではなさそうだったが、まるで1年前のあの事件を嫌でも脳裏に自動再生させるような光景だった。

 「俺は裏に回る。新田さんは堂々と正面玄関から彼女を連れ出してくれ」

 「でも……」

 「なーに、新田さんに説得されれば、おとなしく付いて来ると思うよ。逆に俺だと絶対にベランダから逃げるはず。すっかり嫌われちゃったから」

 「でも何だか自信ない……」

 「おいおい、刑事だろ? しっかりやってくれよ。私情に流されないで、心を鬼にしてさ。手柄はみんな新田さんにやるよ。優里亜ちゃんの仇を取りたかったんだろ?」

 新田は勇気を振り絞って、車の扉を開けた。

 「ありがとう、エビちゃん」


 木崎真菜は、落合優里亜に対する殺人容疑で逮捕された。

 優里亜を愛していた。でも優里亜は自分の愛に応えてくれなかったから……

 真菜が初めて実際の優里亜と間近で出会ったのが、3カ月ほど前。新田を含め、ボーイズラブ愛好家仲間が集まって、食事会を開いた時のこと。初めて見た優里亜は見るからに内気で、積極的には話に参加せず、ただ他の仲間の話に興味を持ちながら聞いているだけだった。服装も地味で化粧も薄い。風が吹けばすぐに飛ばされてしまいそうなほど、存在感も薄い。でもよく見ると、目鼻立ちの整った端正な顔をしている。少し太めではあるが、何よりも厚手の上着に隠しても目立つ巨乳。

 一目ぼれだった。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。

 好きになった女は今までいくらでもいたが、いずれも片思いのままに終わっていた。相手に彼氏がいる。それを知っただけで、もうそんな女には失望してしまう。男なんて不潔よ。どうして他の女って、あんないつも「やりたい」って野獣のように吠えてるだけの男なんか、好きになるんだろう? 女が女を好きになったっていいじゃん。その一方で真菜は、自分がレズビアンであることをカミングアウトする女も軽蔑していた。要は「やりたい」だけでしょ? 男と変わらないじゃない。

 女しか好きになれない、でもそれを他人には絶対知られたくない。真菜は今まで、そのような葛藤を抱えながら生きてきた。

 そんな真菜でも、ボーイズラブにはたちまちはまった。描かれているのは男同士の恋愛だが、女性の作者が多いだけに、その絵柄にも心理描写にも魅かれるものがある。登場する男たちに男らしさを感じさせないのも気に入った。容易に感情移入できる。ボーイズラブ愛好家には男が好きなのだが、現実の男との恋愛に臆病な女たちが多い、という話。実際にそうらしい。でも自分と同じように、女の好きな女だって必ずいるはず。自分と全く同じ悩みを抱えている女が。

 優里亜なら自分の気持ちを理解してくれる。同じことを考えているはず。たちまち真菜は妄想に取りつかれた。ボーイズラブを愛好する女たちは、みんなこのような妄想癖を持っているのかどうかはわからないが。

 食事会の後、真菜は早速、優里亜と個人的にSNSで連絡を取り合うようになり、頻繁に2人きりで会うようになり出した。優里亜の住所を知り、そのすぐ近くに引っ越してくる。1歩1歩、真菜は優里亜に近づき、さらに1歩1歩、優里亜の心の中にまで入り込もうとしていた。

 事件当日の夜、真菜は予め優里亜に連絡を入れてから、優里亜の部屋を初めて訪れた。赤ワインのボトル1本に、いくつかの食べ物を入れたレジ袋を持参しながら。

 「ねえねえ、優里亜ちゃん、ドアの前に変な物が転がってたよ」

 2人が玄関から外に出てみると、確かに両隣の部屋の前に変な物が転がっていた。202号室の前には、固定電話の子機が。さらに204号室の玄関には、全裸のリカちゃん人形が。2人はその2つの変な物を手にしたまま、部屋の中に入って行った。

 「このリカちゃん人形、裸だし乳首が描かれてる。気持ち悪い。隣に住んでる人のものかな?」真菜が言った。

 「さあ……あの人にそんな趣味があるのかな?」優里亜が言った。「見るからに暗い男の人。挨拶もしないし。何だかちょっと怖い」

 「たぶんその男、絶対危ない奴だよ。気を付けた方がいいよ……こっちの電話機は反対側に住んでる人のかな?」

 「じゃないの? あの部屋、ほとんどゴミ屋敷みたいだし。ベランダにまで粗大ゴミがあふれてるの。でも住んでる人は優しそうなおじいさんよ」

 「ふうん。優里亜ちゃんの両隣って、変な男ばかりが住んでるのね。引っ越した方がいいんじゃない?」

 それから2人でワインを飲みながら談笑が始まった。リカちゃん人形と固定電話の子機は、外に放置されて寒かっただろうから、とこたつの掛け布団に覆われて、すっかり存在感を失ったまま。話題は主にボーイズラブのこと。他に年齢も近いので話題には事欠かない。比較的多弁な真菜が一方的に話し、口数の少ない優里亜はひたすら聞き役。だが気まずい沈黙が2人の間に入り込む余地はなく、ひたすら楽しい会話に思えた。少なくとも真菜にとっては。

 真菜はワインに酔いながら、一方的に優里亜に話しかける自分にも酔ってきた。自分の話を聞きながら、自分を見つめている優里亜の目。その美しい目の中に吸い込まれていきそう。一方的に話しながら、心の中で真菜は確信した。優里亜も間違いなく自分のことが好きなんだ、この目は間違いなく自分に恋をしている目だ。相手も自分と同じことを考えている。同じ性癖、同じ悩みを抱えている同志なんだ。今まで30年近く生きて来て、待ってきた甲斐があった。ついに自分は運命の人と巡り会えたのだ。

 真菜を見つめる優里亜の宝石のような瞳。サクランボのように甘美そうな唇。柔らかなマシュマロのような大きな胸。その奥にはベッドもある……真菜は優里亜に欲情した。

 突然、真菜は優里亜を強く抱きしめると、口づけをした。

 その次に待っていたのは、真菜にとって意外な出来事だった。優里亜が急に激しく抵抗して身を引きはがそうとしたのだ。優里亜は真菜の口づけから顔をそむけると、不快そうに「いや!」と言った。驚いた真菜は、優里亜の身体を抱きしめる腕の力を弱める。優里亜は真菜の腕を振りほどき、軽く真菜の両肩を押して身を離した。

 「どうしたの? 私のこと好きじゃないの?」真菜は優しく問いかけた。

 優里亜の目は驚愕と恐怖と嘲りとがないまぜになって、外の空気よりも凍り付いていた。何かを話そうと口を開いていたが、言葉は出て来ない。

 「怖がらなくてもいいのよ。もう1度私とキスしよう」そう言って真菜は、再び優里亜の方へ両手を伸ばそうとした。

 「やめて! 来ないで!」優里亜は必死の形相で叫んだ。「私、レズじゃないから。そんな趣味ないから」

 レズ。レズビアン。真菜が最も聞きたくない言葉。真菜は妄想から一気に目を覚ました。全ては自分の勘違いだったのだ。その酔い醒めは二日酔いよりも痛く、不愉快なものに感じられた。

 「ごめんね。今のは、みんな冗談」真菜はわざと陽気にふるまいながら言った。「私、酔っ払うと誰彼構わずキスする悪い癖があるんだ。だから気にしないでね。もう1度飲み直そう」

 「いや。もう帰って」優里亜は真菜から目をそむけて、冷たく言い放った。「もう顔も見たくない。あなたがそんな人だとは思わなかった。二度と来ないで」

 「だから今のは冗談だって……」

 「とにかくここから出て行って!」

 優里亜はそのまま黙り込んだ。重苦しい沈黙。それは床にひびが入りそうなほど重く、同時に二度と乗り越えることのできない、厚い壁のようにも思われた。優里亜は1メートルと自分から離れていないのに、諦めて立ち去るしかないように思える見えない壁。全てが終わった。

 「そう……わかった。今夜はもう帰る。ごめんね、変なことをして」

 真菜はそう言いながら帰り支度を始めた。コートを着てハンドバッグを肩にかけ、持参してきたワインのボトルの注ぎ口にコルクを差し込み、ボトルを持ち上げながら……

 まだ少し中身の残っているボトルの細い首の部分を持ち上げた時、真菜には妙な考えが浮かんだ。

 今起きたことを、全てなかったことにしてしまいたい。自分が優里亜にキスしたことも。そのことで自分を嫌いになってしまったことも。何より今まで誰にも知られることがなく、ひたすら守り通してきた自分の秘密を、他人に知られてしまったことも。全て優里亜の頭の中から消去してしまいたい……そう考えた時には、手の方が先に動き出していた。

 背を向けている優里亜の後頭部を目掛けて、真菜はワインのボトルを思いっきり振り下ろした。

 ボトルの割れる鋭い音。飛び散るガラスの破片に、赤い液体。

 気づいた時には、優里亜はこたつの上で前のめりになっていた。見開かれた眼には生気がない。

 真菜はしばらくの間、割れたボトルの首の部分を両手に持ちながら、その場で呆然と立ちすくんでいた。自分はとんでもないことをしてしまった、どうしよう……だがその後の行動は、自分でも信じられないぐらいに冷静だった。

 まず自分が飲んでいたワインのグラスを台所で洗い、食器棚に上げる。次に自分が持参してきた食べ物の袋や包装などのゴミをレジ袋の中に入れて、ハンドバッグのひもにくくり付ける。ポテトチップスだけは、袋の綴じ目を全て開けてこたつの上に乗っていたが、ガラスの破片とワインのしずくが飛び散っているので、うかつに手を出さない方がいい。自分の顔やSNSでのやり取りが残っているはずの優里亜のスマートフォンは、持ち帰って処分しよう。変な男がベランダから侵入して襲ったように見せかければ、警察だって気づかないはず。後はベランダから外へ逃げるだけ。

 ベランダの2階から地上へ降りる際には、ボルダリングを習っていたことが役にたった。優里亜の部屋のベランダの手すりにつかまりながら、隣の角部屋に住む中島秀太のベランダの手すりへと移動。マンションと隣の煉瓦の建物との間は1メートルほど。真菜は中島のベランダの手すりにぶら下がりながら、身体を大きく振って隣の建物の壁を目掛けて飛び移った。そして煉瓦の建物の壁を蹴りながら、うまく地上へ着地。

 そのまま急いで自宅へ逃げた。玄関の扉を閉め、部屋の明かりを付けると、途端に疲れと恐怖と悲しみが同時に襲ってきて、今までに味わったことがない気分に。シャワーを浴び、寝間着姿になっても、その感覚がまだ残っている。

 優里亜の死に顔を思い出すと、二度と優里亜の顔を見たくないような恐ろしい気分にもなったが、それと同時に、本気で好きになって口づけまで交わした優里亜が妙にいとおしくなった。自分のスマホを手に取ると、カメラ機能で撮影した優里亜の画像を恐る恐る見る。笑っている顔。驚いている顔。澄ましている顔……もう生身では二度と見ることのできない優里亜の顔を見ると、急に涙があふれてきた。真菜は懺悔するように独りつぶやく。

 優里亜ちゃん、ごめんね……


 外は相変わらず寒い。春は遠い雪山の向こうにあるように感じ、1日1日どんなに急いで歩いても、たどり着かないように思われる。

 池袋北署の刑事課のあるフロアは暖房も効いていて暖かいが、丸出為夫(まるいでためお)が姿を現すと、海老名の背筋に寒気が走った。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草。1年中同じ格好で署内をうろつく様子を見ていると、もう警察官なんてやめたくなってくる。それに最近は、丸出のバカ丸出しの姿には、想像を絶する恐怖まで感じるようになってきた。

 なぜあいつは岸竜馬の件を知っているのだ? 俺と新田さんしか知らないはずなのに……もしあの件に自分も関わっていることを知っているとしたら、酒気帯び運転どころの話ではない。たとえ屑みたいな奴とはいえ、1人の人間の命が関わっているのだから。こんなことがあいつに言いふらされたら、新田はおろか、自分の首にまで刃が食い込んでくることになる。あいつはあの件に俺が関わっていることを、本当に知っているのか否か。

 丸出は大の仲良しである立川刑事課長と、楽しそうに談笑をしている。その笑顔の裏側には、手で触ると火傷しそうなドライアイスのように冷たすぎる秘密を、どれだけ抱えているのか……

 丸出為夫、お前は本当にいったい何者なんだ?

 新田だって同じ気持ちのはずである。新田は木崎真菜が検察に送られ、捜査も一通り終わってから、心痛のあまり土日の代休分も兼ねて数日間、仕事を休んだ。仕事に復帰しても相変わらず元気がない。

 「よ、コスプレ刑事、お互い元気出して仕事しようぜ」

 海老名が向かい側の席の新田に声をかけた。

 「コスプレもうやめた……」新田がうわの空で答えた。

 「どうしてさ。今度のイベントでは、2代目スケバン刑事みたいに鉄仮面かぶるんじゃなかったのかよ?」

 「誰がそんなこと言ったのよ? もうやらないって決めたんだから。どうしても若い子には勝てないし、これからは裏方でいい。見るだけ」

 「おい、エビ、ちょっと」藤沢係長が突然、怒りに身を震わせながら呼んだ。「何だこの報告書は!」

 係長は海老名が仕上げた報告書を1ページ1ページめくりながら、ここがなってない、この部分が駄目だ、と細かいことをくどくどと指摘した挙句、とにかくこの報告書を全部書き直せ、と命じた。

 「えー、そんなの勘弁してくださいよ」海老名が半ば逆切れしながら言った。「だいたい今指摘したとこ、みんなどうでもいいようなとこばかりじゃないですか。そんなに気に入らないって言うんなら、フジさんの方で直しておいたらいいでしょう」

 「駄目だ。おまえが全部書き直せ。まだまだ修行が足りんぞ」

 「足りないのはフジさんの髪の方でしょ。だいたいその分け目の部分、もうだいぶ抜けてきてますよ。性懲りもなく1本ずつ増やしてないで、いっそ戸塚さんみたいに、思いっきりハゲさらしたらどうですか?」

 「何だと! 俺の髪のことなんて、おまえには関係ないだろうが! だいたい俺は植毛なんかじゃないし、かつらでもない。変な噂をみんなに広めるな!」

 「噂じゃないでしょ。事実でしょうが。いい加減に本当のこと認めたらどうですか」

 「まあまあまあ、2人とも、そう熱くならないで」新田が突然間に入って、仲裁に乗り出した。「仲良く仕事しましょうよ。ま、フジさんもエビちゃんも喧嘩するほど仲がいいから、仕事終わったらまた2人して飲みに行くんでしょ? もう、(うらや)ましいな。それだけお互い愛し合ってるんだから」

 海老名と藤沢係長は新田の方を向いて、全く同時に全く同じ言葉を口にした。

 「やめてくれ! 気持ち悪い!」


 (次回に続く)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ