Ep22
どこからともなく聞こえてきたのは、酔った男の罵声。
窓からは、声の主らしき赤ら顔の男が、見知らぬ少年を殴りつけている様子が見えた。
『かわいそう』
大きな瞳に悲しみの色を湛え、舞は僕をじっと見る。
『たすけてあげなきゃ』
『…阿呆なこと考えんと、お前は奥に行っとき』
『どうして?』
非難めいた声で、彼女は尋ねる。
『僕らが行ったかて、大人の男に敵うわけないやろ?』
『どうして?』
『………どうして…て』
『舞がやめてって言ったら、やめてくれるかも知れないじゃない』
『そんな…余計な口出して、巻き添え食ったらどうするんや?』
『………でも』
でもも何もない。この街は、そういう街だ。
僕や舞は売れっ子の『花姫』の子供で、どこかのやんごとない身分の人間の血を引いているらしい…と噂されているせいで、幸いああいう目に遭うことはなかったが。
同じ年くらいの子供が図体のでかい男に暴力を振るわれ、飢えてふらふら彷徨う姿は…悲しいけれど、沢山目にした。
この街の人間は皆、自分のことで精一杯なのだ。
僕たちがここにいてもいなくても、誰も気に留めたりはしない。
母さん同様…他人には言えない事情を抱えた人間も多い。
他人に興味を持って、わざわざ厄介事に首を突っ込むもんじゃない。日々穏便に、何事もなく過ごすことが出来ること。それ自体がこの街では、稀有なことなのだから。
幼いながらに、僕はそんな『花街』の掟に染まっていた。
なのに。
『冷たいね、風』
舞は厳しい表情で、じっと僕を睨みつけるのだ。
『風はいっつもそうだよ。いっつもそうやって、自分のことばっかり』
…そんな筈ないやろ。
僕は…いつもお前を………
『そうかしら?』
はっとして…顔を上げると。
小さかった舞の姿は、そこにはなく。
『愁くんは、ちょっと冷たすぎると思う』
学生服に身を包んだ…彼女の姿。
『あなたはずっと…そうやって他人に背を向けて、一人で生きてくつもりなの?』
『他人とは交わるな』
師匠の冷たい声が脳裏に響く。
『それが浅倉…お前の運命だ。他人に情を覚えた瞬間、命は無いものと心得よ』
物心付く前からそんな風に教えられ、そんな風に生きてきたのだ。
国の為?
誰かの為?
そんなこと。
今更………
ピチャン、という音と、氷水のように冷たい雫の頬に当たる感触で、目を覚ます。
一体どのくらいの間、気を失っていたのだろう。
ひどく寒くて、体の芯から凍りついてしまいそうな感覚。
落ちた時にぶつけたのだろう、体があちこち、ひどく痛む。
さっきいた広間よりもっともっと地下深い所へ来た筈なのに、天井の一点からはうっすら光が差し込んでおり、狭く湿った洞穴の内部をぼんやりと照らしていた。
左右の腕に視線を移すと、『螢惑』はいつもの赤い色を失い、透き通ったガラスのようになっている。
やっぱ、無理させたら…あかんのかもしれんな。
『護身用の『神器』』
玉屑の言葉が脳裏を過ぎる。
あいつ、あの短時間で…よう、見抜いたな。
『『螢惑』では…韓紅との戦いには勝てぬかもしれん』
僕はぼんやりと…ここへ来る直前の、師匠の言葉を思い出した。
朔月公の『神器』。
それは炎を操る両刃の剣で、名を『炎日』という。
ここへ来る前に、師匠はそれを手にして僕に言ったのだ。
『お前も分かっているだろうが』
『…はい』
『螢惑』は、まだ僕が士官生だった頃師匠から授かった『神器』だ。
師匠の…朔月の『務め』。
表向きに『王の身辺警護が朔月の役目』とされているものの、その実は『紺青に害を成す勢力を排除すること』。目的を達する為には、相手の生死は問わない。紺青で三本の指に入る名家の主でありながら、歴代の朔月公にどこか暗い影があるのはおそらくこの為だろう。
勿論、その身を危険に晒すことも多い。先代の朔月公…師匠の『育ての』父親も、本当は病死などではなく、反紺青の勢力との戦闘で負った傷が元となり命を落としたのだった。
15になった僕は師匠と行動を共にするようになり、『神器』の有無が生死を分けるような場面に遭遇することが多くなった。そこで護身用の『神器』として手渡されたのが、『螢惑』だったのである。
元々護身用に作られたものであるが故に、攻撃能力はあまり高くない。
だが。
それ以上に、僕に波長が合っていたし…母の形見であると認識して以降は尚更、手放すことが出来なくなってしまっていた。
舞が『氷花』に拘った時、説得しようとあんなに躍起になったのに…他人に話したら、滑稽だと笑われてしまうかもしれない。けど、『螢惑』でやれる…他人にそれと悟らせないだけの戦いをして、勝利を収めることが出来る…そんな絶対の自信があった。
『どうしても…『螢惑』でゆくのか?浅倉』
師匠は…自分の『炎日』を、僕に託そうというのだ。
『それは…朔月の家に代々伝わるものなのでしょう?僕が遣うわけには』
『右京殿とて紺青の王家ゆかりの『水鏡』を遣っておられよう。それに』
少し間を置き、師匠はまっすぐ僕を見据え、静かに言った。
『この『炎日』は…いずれお前の物になるのだ。今私がこれをお前に譲り渡したところで、それが少し早まるだけのこと』
それは…つまり。
いや。
『………聞かなかったことにしておきます』
そんなこと、出来ない。
だって僕は………
『愁は、紺青の国を動かす偉い人になるんだよ』
一夜の言葉が脳裏を過ぎる。
僕に…そんな資格、あるのだろうか。
紺青の血を引いているといったところで…私生児で。
それに………沢山の人を…この手をかけた。理由はどうあれ、紺青を守ろうとした人々を殺めたのだ。
紺青の為に何か、なんて。
『なら、お前は何の為に戦ってるんや?』
はっとして暗闇に目を凝らす。
そこにあったのは…小さな少年の姿。
あどけない顔つきながら、黒い瞳はやけに冷ややかでじっと僕を見つめている。
「何の為………?」
頷いて、黒髪の少年は淡々と言う。
『そんなんで、よう…玉屑の言葉を滑稽やなんて思ったな』
玉屑の言葉。
………ああ。
『紺青でなくてもいい』とかいう。
『趣味』…か。
そんな身勝手な理由で、紺青の九十九人もの人間の命が奪われたなんて。
『だから、そこや』
苛立つように、少し眉を上げて…少年は首を傾け、僕に尋ねる。
『あいつが身勝手なんて、お前には言えるんか?て…聞いてんねん』
「そんなん…」
『お前は『紺青の為に』戦ってるわけやない』
ずばりと言い放つ少年に、言葉を失う。
『そんなら、妙な執着見せんと、とっとと『螢惑』を捨ててる筈やからな』
「………お前に」
『言われる筋合いはない』と言いかけた僕を、何もかも全てお見通しだ…とでも言いたげな、少年の黒く澄んだ瞳が制す。
『ほんまは…孝志郎や霞姫や右京のように、『紺青の為に自らを投げ出そう』なんて…考えられへんのやろ?国とか、全ての国民とか…そんな大義の為なんて…物心ついた時から生き延びることに精一杯で、ただ己のみと向きあってきたお前に想像出来る代物やないからな』
「そんなこと」
『違うか?』
…動揺していた。
少年の言葉と、『違う』と言い切れない…自分自身に。
少年は僕に近づき、小さな拳で僕の胸をどん、とどつく。
その突きは想像以上に重く、胸がみしりと軋むように感じた。
『だとすれば…何やと思う?』
「それは………」
冷たく単調な彼の声は、僕の耳に残酷に響く。
『お前には…右京のような『正義の味方』を演じることは出来へんはずや。だからと言って一夜みたいな、『愛の戦士』にもなられへん。だとすれば』
少年は不意に目を細めて笑い、薄暗い闇の中に…すうっと溶けて消えた。
『お前の戦いって…何なんやろな』
厳しい問いを…突きつけたままで。
不意に足が、がくん、と傾き。
あっ…と思った瞬間には、もう…私は硬い地面に倒れこんでいた。
「いっ………」
土や砂利で汚れた膝に、じわりと血が滲む。
石か何かに躓いて、転んでしまったらしい。
不意に流れた涙を、ぐい、と手の甲で拭って。
ずきりと痛む足を引きずるようにして…私は再び走りだす。
「どうってことない…こんなの」
白衣を真っ赤に染め、倒れる…咲良の姿が脳裏を過ぎる。
「あいつの痛みに比べたら…こんなの」
『ちゃんと帰ってくるのよ』
途切れ途切れの…あいつの言葉。
わかってる。
もう誰にも…あんな思い、させたくない。
「終わらせるんだ、絶対」
霞は…大丈夫だろうか。
母様は………
いや。
…そんなことは、後で良い。
私は、ポケットの中の赤い石を…ぐっ、と握りしめた。
「早く…早く、右京の所へ」
唸る風の音が、どこからか聞こえたような気がした。
立ち止まり、耳を澄ます。
…間違いない。
そしてそれは…強い『神力』の気配と、共にある。
「…あっちか」
待ってろ…右京。
脇に延びる細い道をじっと睨み、私はまた、走り出した。
今までの激しい雪も風も、彼女にとってはほんの準備運動に過ぎなかったようだ。
白い光に視力を奪われ、轟く嵐に聴力を奪われ、体を打ち付ける無数の氷に肌の感覚まで失ってしまいそうになる。
『…紺青の姫よ』
彼女の声は激しい風の中でもはっきりと、耳の内側に響いてくる。
『命乞いをするなら…今ぞ。もし紺青を捨て、全てを捨てて野に下ると申すならば…命だけは助けてやってもよい』
低く静かなその声からは、喜怒哀楽の類が一切読み取れない。
目を閉じたまま沈黙する私に、たてはの声は更に大きくなる。
『私も人の親だ。情けをかけてやってもよい…と申しておるのだ』
人の親………か。
『そなたにも母はおるのであろう…浅はかな考えで、母を悲しませるものではないぞ』
『母はとうに亡くなりました。まだ私が幼い頃…くれはよりずっと幼い頃のことです』
目を閉じたまま、私は彼女に語りかける。
『あなたの行為によって、くれはがどれほど悲しんでいるか…あなたには理解出来ないのですか?あなたにとってたった一人の…大切な娘が』
『黙れ小娘!そなたには関係のないこと。もっとも…』
激しい吹雪が不意に止み。
体を引き裂くほどの強い『神力』が…周囲を包みこむ。
『そなたが死にさえすれば、くれはとて…もう悩むことも苦しむこともなかろう』
目を開けると、大蛇の裂けた赤い口がすぐそこに迫っていた。
『命乞いの機会を与えてやったというのに、聞き入れぬとは愚かなことこの上ない!望み通りに死ぬがよい、紺青の姫よ!!!』
近づく冬鬼の、コツコツという足音が…冷たい洞窟に響いている。
態勢を低くし、『水鏡』を構えようとするが。
一瞬…視界がぐらりと、傾いだ。
冷たい地面に膝をついて睨む僕に、彼の冷たい視線が注がれる。
『どうやら…相当に『神力』を消費したようだな』
「……………」
『それ程までに、貴様が紺青に肩入れする理由は…一体何だ』
微かに首を傾げ、冬鬼は更に問う。
『貴様も、兄を殺した紺青に…恨みを抱いておるのではないか?』
「…なぜそれを」
こやつが教えてくれたのだ、と、冬鬼は手をかざして『水鏡』を指し示す。
『敵を取ろうと、貴様は思わなんだのか』
「復讐の連鎖は…何も生まない」
『…ほう』
「一時の感情に流されて、狂気に身を委ねたとして…それは平和で穏やかな世界から、自らを遠ざけるだけだろう。それに、周りの大切な人達を傷つけたり、悲しませたりしなきゃならなくなる。そんなの僕は…我慢出来ない」
『だから、長い物に巻かれた…ということか』
「紺青が強国だったからじゃない。紺青の人々は…常に真剣に自国や周りの国が、豊かで幸せな国になることを望んでいる」
脳裏に浮かぶのは、草薙さんや、藍さんや…十二神将隊の皆の顔。
そして…彼女の真摯な赤い瞳。
「紺青の長たる、霞様は…自らを犠牲にしてでも、皆が平和に暮らせるようにと…そう、願っておられるんだ。だから僕は…」
無論、悩んだことだって…一度や二度ではない。
今でも本当にこれでよかったのかって…考えることも。
でも、紺青の人々や、霞様の警護の為訪れる諸国の民が笑っているのを見ると…これでよかったんだって、きっと兄様も喜んでくださってるだろうって…自分を納得させることが出来るのだ。
僕に、後悔はない。
『強いな…貴様』
彼は口の端を上げ、微笑む。
『『神力』の消耗は、相当のものであろう。現に立つもままらなず、呼吸も其様に乱れておるではないか。それなのに…理想を語り、決して己の信念を曲げようとはしない』
気に入った、と彼は呟いた。
そして。
『貴様は、韓紅をどう思う?紺青に背いたが故、時流に取り残され、ただ滅びの運命を受け入れるより他ない、哀れで愚かな一族といったところか』
静かな口調に、少し戸惑う。
一体…どういう意味だ?
「そうまで言えば言い過ぎだが…否定は出来ないと思う。けど…未来は変えられる」
その言い分では、と…彼はまっすぐ僕を見据えた。
『韓紅に対し、悪意を抱いている訳ではないようだな』
「…それは…そうだ。僕にも、お前達と同じ…韓紅の血が流れているのだから」
『では………』
薄い青い瞳が…妖しく光る。
『紺青にしようとしていたのと同様、韓紅の為に…己の身を捧げることも?』
「何だ…と………」
不意に、異様な空気に包まれた。
自らの『神力』とは異質な何かが、体の中に流れこんでくるような…感覚。
体温が一気に下がり、心臓の拍動が乱れ、頭はガンガン痛む。
………これは。
『気づいたか?小僧』
「な…ん…だ………」
『貴様程、意志の強い男ならば…この私の力を授けるも本意。私亡き後も、韓紅の為に力を尽くしてくれよう』
「どう…いう…」
苦しい。
冷たい何かが体の中で蠢いていて、次第に意識が薄れていく。
『これは、族長の家系に伝わる、もう一つの秘技だ。自らの力と意志を他者に植えつける…よって、子孫が途絶えた場合でも、韓紅の一族を束ねていく能力を持った人間を絶やさずにおれるという訳だ』
「なに…を………」
そんなこと…させてたまるか。
『これは名誉なことなのだぞ。貴様の紺青に対する忠誠心は失われるであろうが、その分…途方もない大きな力を手にすることが出来るのだからな』
静かに笑う冬鬼に…背筋が寒くなる。
『なに…貴様が操を立てている姫も、じきたてはに打ち破られよう。さすればどうだ、紺青にこだわる理由も失せてしまうのではないか?』
「霞…さん…は………」
震えが止まらない体に、何とか力を込め…刀の柄に手をかける。
「霞さんは、絶対に負けない!僕は…」
抜き放った『水鏡』が、淡い青い光を放つ。
僕は…最後まで、彼女と一緒に戦うんだ。
『水無月』!
青い炎が、冬鬼に向かって一直線に走る。
『何………?』
驚愕の表情を浮かべた冬鬼が、荒れ狂う炎の向こう側に見えた。
が。
すぐに彼は、元の冷ややかな笑顔に戻り…炎に向かい、手をかざす。
瞬時に白い氷の壁が築かれ、『水鏡』の炎を遮った。
………まだだ。
「行け!!!」
炎が勢いを増し、みるみるうちに白い氷を溶かしていく。
冬鬼はやや顔を歪めつつ…皮肉っぽい笑みを浮かべ、呟いた。
『やはり…貴様は、思った通りの男だ』
だが、と…彼が声のトーンを落とすと同時。
『水鏡』を握る腕に…グン、と強い力が掛かり。
押し戻されそうになるのを、強く歯を食いしばって耐える…が。
目の前が、真っ白な光に包まれた。
「なっ………!?」
『斯様な理想のみで、この私に勝てると思うたか!?』
無数の氷の塊が体に突き刺さり、僕の体は凍てつく風に煽られ。
遥か後方の岩壁に、強く…叩きつけられる。
「…ぐっ………」
体が凍りついたようで、身動きがとれない。
『水鏡』が…手から滑り落ちて、地面に突き刺さった。
『…他愛もない』
薄い笑いを浮かべながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる…冬鬼。
『私を拒むというのなら…ちと惜しいがここで葬り去るのが、韓紅の為であろうな』
「く………」
霞む視界の中で、冬鬼の瞳がまた、青白い光を帯びる。
僕の目の前に、彼の大きな手がゆっくりと…かざされた。
『さらばだ…誇り高き、紺青の戦士よ』
く…そ………
どうやら、残る『神力』も…消耗しきってしまったらしい。
流れる血まで凍りつきそうに、冷えきった体は…まるで微動だにしない。
駄目だ。
ここで…負ける訳には………
しかし。
冷たい表情の冬鬼が放つ白い光が…残る僅かな視力を奪った。
………霞…さん。
その時だ。
「右京!!!」
瞳に強い光を帯びて、彼女は…はっきりした声で呼びかける。
「『水鏡』!」
繰り出した荒れ狂う吹雪を、『水鏡』の放つ青白い光に遮られ…苦々しい表情の冬鬼が呟く。
『くれは…そなた』
「『水鏡』!そうだ、それでいい!!!」
『くれは!そなた、自分のやっていることが』
「分かっている!」
くれはは、じっと彼を見据え…再び叫んだ。
「『水鏡』!汝の主を…右京を、守れ!!!」
その瞬間。
『水鏡』のすらりとした刀身を、今までよりずっと激しい炎が覆った。
「右京!動けるな!?」
「…ああ!」
「遣え!今だ!!!」
気持ちを奮い立たせて、手を伸ばして『水鏡』を握りしめると、その力がすっ…と体に流れこんできた。
「行くぞ」
躊躇する暇はない。ぐっと奥歯を噛んで立ち上がり、冬鬼を見据え…構えた。
『水無月』!!!
目を丸くした冬鬼に、激しい炎が一直線に飛んでいき。
「行け!!!」
くれはの叫びで、更に勢いが増長される。
これならば………
彼は唇を噛んで、硬く目を閉じ。
そして。
かっと目を見開くと、叫んだ。
『甘いわ!!!』
無音が広がる。
白い獣が、燃えさかる青い炎を…かき消した。
「なっ………」
「右京!!!」
くれはが僕に駆け寄ってきて、両手を前方に突き出し眼を閉じる。
白い大きな鳥が現れ…襲い来る獣に、鋭い爪を突き立てた。
が。
「くっ………」
顔を歪ませたくれはの額から…ぽたりと汗が滴り落ちた。
「くれは、大丈夫か!?」
「大…丈夫だ。これは…私の」
『くれは、それがそなたの選んだ道か』
牙を向く獣と対照的に、冬鬼の静かな声が向こうから響いてくる。
『そなたは、私に背き…たてはに背くというのだな』
くれはは、辛そうな表情で…一瞬目を伏せ。
「そうだ」
きっぱりと、言い放った。
「冬鬼、言ったであろう…『お前の好きにしろ』と」
か細い彼女の腕に、激しい吹雪の重みがかかり…震えた。
だが、彼女は厳しい表情で、ただ一点…冬鬼の目をじっと見据えている。
「これが私の答えだ。韓紅の為に、これ以上…無益に血を流したくない」
『無益、と…申したか』
「そうだ!もう十分だろう!?韓紅に必要なのは紺青への憎悪じゃない、忌まわしい過去を呑み、紺青と共に歩む強さだ」
『………くれは』
「だから…だから、私は」
彼女の掌から、激しい吹雪が放たれた。
「お前と…母様に背いてでも、己の信じる道を貫く」
巨鳥がくちばしを突き立て、獣が叫び声を上げる。
「安らかに眠れ!冬鬼!!!」
劣勢となっても尚、彼は…冷たい表情を崩さない。
…そんな。
「まさか」
『そうか…』
にやりと笑う、冬鬼。
『ならば、私も………己を貫かせて貰う』
「くれは、逃げろ!!!」
僕の叫びは…彼女に届いただろうか。
驚愕の表情を浮かべたくれはが…白い光の中に………飲み込まれた。
「くれは!!!」
大蛇の体内はただただ静かで。
血も凍る程の…冷たい空気で満ちていた。
ふと見ると。
先程から感覚を失いかけていたつま先が…凍りついて青白い氷に覆われている。
身動きが…とれない。
『怖いか?紺青の姫』
たてはの声が脳裏に響く。
『一息に息の根を止めてやろうとも思うたが…それでは積年の恨みに適わぬ。そうやってじわじわと体の端から順に凍りついて、怯え震えながら死ぬが良い』
彼女の声は、相変わらず低く…静かだ。
『分かるか?これが韓紅の苦しみだ。紺青に追われ、この北の地まで追いやられ…流行病で多くの同志を失った。それでもなお…紺青に一矢報いんとする、我らの恨みがそなたに理解出来るか?』
そうしているうちにも、冷気が私の体の自由を徐々に奪い、氷の塊ももう膝のあたりまでさしかかってきていた。
『それでもそなたは、我らが間違っていると…くれはが不憫だと申すのか?あの子とて、まかり間違えれば冬鬼達や父親のように、病で幼い命を奪われていたやも知れぬのだ』
冷たい。
震えが走るという感覚はもうなく、硬直した体がただただ…痛い。
吐く息は白く、凍って肌に張り付くよう。
ここまでの寒さ…紺青では経験したことがない。
このまま…私も、生きたまま氷の柱に閉じ込められてしまうのだろうか。
…彼女のように。
『どうだ?紺青の姫。最期に何か申し述べたいことはないか?』
両の目から涙が溢れ…たちまち凍ると、真珠のようにきらりと光って地面に落ちた。
『どうした?怖いか?強情を張っておったが、やはり命が惜しいと見えるな!』
嘲るような彼女の笑い声が頭に響く。
目を閉じ、冷たく湿った息を肺いっぱいに吸い込んで。
私は…姿の見えないたてはに向かい、声を張り上げた。
「私は、自分の命などこれっぽっちも惜しくはありません」
自分の為に、どれほどの血が流れたか。
それを思えば…この命、投げ出すべき所があれば進んで投げ出そう。
そう決心して…今日まで生きてきたのだ。
「ですから先程あなたがおっしゃったように、国を離れ生き永らえることを選ぶ、などということは出来ません。私は紺青の姫であり、紺青を守ることが私の責務なのです。紺青を捨ててしまえば…私は私でなくなってしまうのですから」
『…ほう。では、先程の涙は一体何と申すか?』
「悔いていたのです。もっと早くに…なんとかすることは出来なかったのかと」
悲しみの涙も、恐らく無邪気な幼子の笑顔さえ…凍りついてしまうような辺境の地で。
くれはは…韓紅の人々は、一体どのような思いで生きてきたのだろう。
そして。
「あなたも…こんな風にして、氷柱の中に閉じ込められてしまったのでしょう?」
『…何だと?』
「どんなに寒かっただろう、苦しかっただろう、怖かっただろう、それに…」
弾けるような笑顔が脳裏に浮かび、彼女の笑い声が…どこかから聞こえた気がした。
「それに、くれはを思うとどんなに心残りだったことか」
氷柱の中で眠りにつけば…もう二度と、愛する娘を抱きしめることは出来ないのだ。
彼女は見たところ…藍や愁兄様達と、それほど年も違わないように見える。
若くして、自分でその人生に…終止符を打たねばならないなんて。
「…あなたにそこまでの決心をさせるほど、韓紅の一族は苦難の中にあったのですね」
彼女は黙り…私の声に耳を傾けているようだった。
「私には…何が出来るのでしょうか?」
『………何?』
「永きに渡る確執に終止符を打ち、韓紅の人々の笑顔を取り戻す為に…私に出来ることはないのでしょうか?」
『戯言を』
「絵空事と笑われようと、国を護り民の幸せを心から願うことが、姫として生まれた私の務め。あなたの立場だって、同じなのではないですか?」
『……………』
「信じては…くださいませんか?あなたにだって分かっている筈…こんな風に紺青を攻め血を流すことが、韓紅の未来にとって本当に良いことなのか。これによって、本当に韓紅の人々が幸せになれるのか」
『…黙れ!』
はっと…息が詰まる。
腿のあたりまで来ていた冷気が、瞬時に肩まで上がってきたのだ。
ぎゅ…と心臓が締め付けられるような感覚。
意識が…遠のいていく。
『紺青なぞ…消えて無くなってしまえばいいのだ!それが…それだけが、私の』
「本当にそうお思いですか!?」
掠れる声を振り絞って叫ぶ。
「韓紅を守ること、紺青を倒すこと、それはあなたの使命なのでしょう!ですが…それだけですか!?あなたが心から願うのは」
『黙れと申しておるのが分からぬのか!』
「大事な一人娘の…くれはの幸せな笑顔ではないのですか!?」
体の芯が、熱くなっていくのが分かる。
『私は、韓紅の為に何か為さねばならぬ…それが族長の家に生まれた私の役目。そなたも先程申したではないか!?己の感情に流されるわけには』
「確かに、民の幸せを願うのが紺青の姫として生まれた私の運命。その為に力を尽くすのが私の役目です。が…それも、一人一人の大事な人達の笑顔が、瞼の裏に思い浮かぶからこそのこと」
霧江や、城で働く沢山の人々。
それに、藍や孝志郎兄様や愁兄様や。
十二神将隊の皆さんや。
城下町の人々の…沢山の笑顔。
それに………
私を心から想ってくださる…大切な人。
体に触れた氷が…白い蒸気を上げて溶けていく。
「先程…冬鬼に言われました、私の願いは甘い理想でしかないと。ですが、身近な人から幸せにしたいと…笑顔でいて欲しいと強く願うことが、空虚なこととは思いません!」
そして思うのだ。
私が笑っていられるのは…支えてくれる人たちのおかげだと。
私は………
一人じゃない。
『うるさい!そなたに何が分かる!?そなたに』
強い風が吹き荒れ、大粒の雪が頬を叩く。
が…依然、心は静かなままだった。
『死ね!紺青の姫!!!そなたの息の根を止め、そして…紺青をこの世界から消し去るのだ!!!それが…それが韓紅の…私の』
「そんなこと…させません!!!」
周囲に艶やかに赤い炎が上がり。
それは勢いを増し…暗く冷たい大蛇の胎内を突き破り、高い洞窟の天井まで達する。
そして。
耳を劈く、大蛇の悲鳴。
猛る炎は鎮まることなく、白い蛇が塵になるまで…燃え続けた。