Ep20
男の薄青い瞳からは、一切の感情が掴めない。
………般若…か。
『母さんが死んだ時のこと、覚えてる?』
「…覚えてるさ」
眠るように息を引き取った母さんは…いつもより一段と美しくて、神々しくさえ思えた。
『醜くもがきながら死ぬのは嫌だろ?』
俺も、あんな風に綺麗に逝きたいなって。
そう。
ガキの頃からずーっと、そんな風に考えながら生きてきた。
あの日、胸にぽっかりあいた大きな穴。
見ないように見ないようにして…生きてきたのに。
『お母様と同じご病気の疑いがあります』
突如降って湧いたような、死の宣告。
今思い返すと…一種のパニック状態だった。
『一体…何が心残りなんだ?』
「………何だって?」
『お前は、剣護に勾陣を譲って…きっちりケリもつけただろ』
いつも俺の後を追いかけてきた、剣護。
あいつがどんなに素晴らしい能力を持っているか、俺はちゃんと知っていた。
けど…あいつは決して、俺の前に出ようとはしなくて。
『お前は俺なんかいなくたって十分一人でやってけんだろうけどな、俺にはどうにも…そんなこと出来そうにない』
いつだったか、どこぞの宴席の帰り道。
そんなことを呟いて、照れくさそうに笑った…剣護。
そんなことない。
『運命共同体』だって…いつか胸倉掴まれて怒鳴られたことがあったけど。
俺だって…そうだったよ。
剣護がいなきゃ、今の俺はなかった。
ありがとう…って。
そして。
勾陣隊の隊長に本当に相応しいのは、いつも何事にも真っ直ぐ向き合える…お前だって。
『伝えたいことは…ちゃんと伝えられたんだろ?』
「…ああ」
『それに…孝志郎だ』
あいつの本意を…ちゃんと見届けたかった。
責任感が強くて、正義感が強くて、それに。
あんなに…藍のこと、大事にしてた奴だったのに。
『紺青に背く?』
出来るだけいつも通りの声で笑って聞き返してはみたけど…孝志郎のことだ。俺がどんだけ動揺してるか、見抜いていたに違いない。
そうだ、と重々しく頷いて…真剣な眼差しであいつは言った。
『それがゆくゆくは紺青の為になる…今の腐った紺青を、一度まっさらに戻してやる必要があるって、お前はそう思わないか?』
けど。
そのために、あの化物の手を借りる…なんて。
『今は…手段を選んでる余裕はない。沢山の血が流れるかもしれん、だが…世界を大きく変えるためには、それなりの代償を支払うものだろう?』
平静を装いつつも、乾いてヒリヒリする喉で…再び孝志郎に尋ねる。
『藍は………何て言ってるんだ?』
『…『来斗は』じゃなくて…『藍は』か?』
『……………』
『…あいつには何も言っちゃいないさ。ただ…』
『………ただ?』
『『十二神将隊も紺青も全て捨てて、俺についてくる気があるか?』と…聞いただけだ』
一瞬頭が真っ白になった。
『傲慢な奴だな…相変わらず』
ずきり、と病んだ肺だか心臓だかが痛む。
頭の血がすうっと下がり、嫉妬か…案外弱いんだな俺、と…思った。
『藍は…何て?』
孝志郎は一瞬…寂しそうな表情を浮かべたように見えた。
『嫌だと…『お前は一人じゃ駄目なんだ、俺と一緒に来い』って、ついかっとなって言っちまったんだがな…『霞様を放ってはおけないもの。あなたが何を考えてるのか知らないけど、一緒には行けないわ』とさ』
何故か少しほっとして、そう…と呟く。
『で…一夜。お前はどうするんだ?』
『行くよ、一緒に』
怪訝そうな顔をする孝志郎に、首を傾げて微笑んでみせる。
覚悟はもう、決まっていた。
『何だか…面白そうだからね』
藍を紺青に置いて…孝志郎らしくないなって思ったんだ。
あの身の毛もよだつような化物に与して、何を求めているんだろう。
自分が紺青を…なんて。あいつは確かに尊大な所のある奴だけど、さすがにそんなこと…顔色一つ変えずに、あっさり実行しそうな奴とは思えなかった。
けど………
『藍に会った』
物凄く動揺する孝志郎を見て…安堵した。
昔と…同じだ。
『紺青に害を成そうとしている奴は、俺にとっても敵だ』
何故こんなやり方しか…思いつかなかったんだろう。
不器用な奴だったんだな。
けど…ちゃんと見えてるじゃないか。
仲間が血を流し、倒れていくのを目の前にして…お前がやらなきゃならないこと。
孝志郎が忌まわしい連中の誘いに乗っていなければ、もっと事態は目に見えない暗い暗い所で進行して、誰かが気づいた時にはもう…取り返しのつかないことになっていたかもしれない。そう考えたら…自ずと見えてくるだろう。
けど…俺にはもう、そんな時間は残されちゃいない。
『後は頼んだよ』
去っていく孝志郎の背中にそう呟いて。
俺は…アジトの洞窟を後にした。
『それに、あいつにも…ちゃんと別れを告げられたんだろ?』
彼の声に…はっとして、我に返る。
それは、剣護にも出来なかったことだった。
あの日心にあいた大きな穴を…笑顔で埋めてくれた人。
『忘れないで』なんて…どんなに傲慢なことか、よく分かってる。
『でも…伝えたかったんだろ?』
ぞくっ…と背筋が寒くなる。
どうしてだろう?さっきまでの痛い程の寒さは、もう…感じないというのに。
………ここは…どこなんだろう。
『藍に会いたかった、そして『好きだ』ってちゃんと伝えて…』
「もう…分かった。十分だよ」
『彼女の心のどこか片隅でもいいから…留めておいて欲しかったんだ、お前は』
「十分だって言ってるだろ!?それ以上言うな!!!」
『その割には…随分と大人げないやり方だったけど』
「うるさい!」
『桜の花…綺麗だったね』
「黙れ!!!」
目の前の冷たい笑顔を浮かべた俺に、逆上して怒鳴る俺も…本物の俺なんだろうか。
この、頬を伝う涙も…現実なのか。
『願わくは、花の下にて春死なん…か』
「黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!」
『望みどおりだったろ?お前の…』
「黙れ…ってば………」
耳を塞ぎ、地面に膝をつく。
でも…歌うような声は依然として、頭の中を響き渡る。
『一夜。お前は…死ぬのが怖い?』
「………こわい…よ」
嫌だ。
こんな風に…独りでひっそり灯火を消すなんて。
『大丈夫さ。一度捨てた命だろ?』
慰めてるつもりなのか?
それとも…怯える俺をせせら笑っているのか。
近づいて膝をつき、俺は俺の頭に触れる。
『死ぬ時は誰だって独りだしさ。望むような死に方だったらもう…前に一度、経験済だろ』
「お前は…あの日の俺なのか?」
彼は何も答えない。
『六辺香って男だって…多分ほっときゃそのうち消えちまうんだ。お前は良くやったよ』
「………霞…様は?それに…くれはも」
『それだったら、右京や愁がどうにかしてくれるだろ?あいつらはそう…お前よりずーっと強いんだから』
………そうか。
でも。
「藍………は…?」
『藍は強い子だもの、お前がいなくたってちゃんとやってけるよ』
「………けど」
『人の心は移ろいやすい。なら…藍がお前を一番愛してくれてる今ここで時間を止めてしまえたら、それはある意味幸せなことだと思わない?』
彼は微笑んで、じっと俺を見据えて言った。
一度捨てた命だろ。
ここまで永らえて来れただけでも…儲けもんじゃないか。
ふと…脳裏を過ぎるものがあった。
『剣士たるもの、刀を抜いた瞬間に死ぬことも辞さない態度で敵に臨むべし!』
これでいいのか?と、めんどくさそうに呟いた…剣護。
『死への恐怖は、万人が持つ…一種本能的なものだ』
学者ぶった口調で、静かに答えた…来斗。
『お前、熱でもあるんと違うか?』
胡散臭そうに俺を見つめ、ため息をついた…愁。
『そうですね…きっと怖いから、ずっと目を背けてきたのでしょうね』
弱々しい笑顔を浮かべた…力哉さん。
『真に武士とは、忠義に死ぬことと心得ています』
優等生らしい答えを、はっきりとした声で返した…蔵人。
『怖ぇんだったら今すぐ下りろ!俺は怖くなんかねえぜ』
愉快そうに笑った…剛さん。
『どうかな…』
孝志郎は、一瞬言葉を詰まらせた。
『為さねばならぬことが全て為し遂げられた後ならば…恐るるに足らんのかもしれんな』
そして。
『そんな事を聞いてどうする?』
冷たい目をして、彼女はそう聞き返した。
『…どうして?か。なんとなくね…あれだよ、一種の』
『酔狂か。馬鹿の一つ覚えのように、お前はそればかりだな』
『まあね。だって…舞ちゃんみたいに戦場にばっかり身を置いてる女の子は、一体どんなこと考えてるんだろうって…ずっと興味あったんだもん、俺』
『…馬鹿馬鹿しい』
黒いベールに包まれた十六夜舞は、踵を返して去っていく。
つまんない、とわざと大声で呟いてみても、彼女は振り返らない。
『いいじゃん?馬鹿馬鹿しい質問の一つくらい、付き合ってくれたって』
『………ならば』
彼女の歩みが、ぴたりと止まった。
『一つだけ…教えてやる』
それは…彼女が戦って散る、前の日の夜だった。
振り返った彼女は、顔を半分覆っていた黒いベールを剥ぎ。
意外な答えを…返した。
『お前が死んだら、私は泣くぞ?古泉』
『………どういう意味?』
『私がその時、この世界には居らずとも…』
それは、孝志郎の…ベルゼブの、というべきかもしれないが…配下となった後、彼女の見せた最初で最後の笑顔だった。
『確実に…三日月藍は…泣くであろうな』
すとん、と彼女の言葉が胸の中に収まった。
そっか。
『死ぬのは怖い?』
その答え…俺が求めていた、本当の答えは。
『俺が死んだら』って…そういうことだったんだな。
『死なないで』
藍はそんな風に言って、ぽろぽろ大粒の涙を流した。
『もう…どこにも行かないで』
舞ちゃんの言う通りだった。
………それに。
今でも…あの子は泣くんだ。
『あの日の夢を見たの』って…俺の胸に顔を埋めて。
「………駄目だよ」
俺は、目の前の俺をきっ…と睨む。
「俺はまだ死ねない」
『…どうして?この後に及んで、まだ…生きたいと願うの?』
「…綺麗になんて死ねなくたっていい」
そうだ。
『母さんみたいに綺麗に逝きたい』なんて…とんだ世迷言だ。
『足掻いて足掻いて、どんなに醜くても?』
「生きるんだ。俺は…」
一度捨てた命だ。
だから………
「藍が…紺青で待ってるんだ」
『顕明連』が…今までに見たことがないくらい、眩しい光を放っている。
『神力』の尽きかけた体。
目からは赤い涙が流れ、口の中の鉄臭い味は不快なことこの上ない。
加えて、冷たい風に貫かれる痛みで、思わず叫び声を上げてしまいそうになる。
そんな中。
…目の前の男からは決して目を離すまい、と…必死に目を凝らした。
俺と同じ。
『死』を経験したことのある…剣術遣い。
「約束したんだ!絶対に…生きて帰るって」
みっともないって…こんな俺のことを、お前は情け無いって思うんだろうな。
…でも、いいさ。
「醜くたって見苦しくたっていい!!!俺は限界まで生きて生きて生きぬいてやる!!!」
青白い吹雪に飲み込まれそうになっていた、『顕明連』の黄色い光。
その瞬間…一層輝きを増したように思えた。
『顕明連』の真の威力は、『大通連』を上回るという。
そんなものを遣いこなせるだけの力は、もう………
否。
そんなことはどうでもいい。
所謂、火事場の馬鹿力ってやつだ。
『顕明連』…頼む。
「行け!!!」
自分の叫び声が…遠く聞こえた。
さっきと同じ…無音が目の前に広がったように感じた。
でもさっきと違うのは…
意識も感覚もはっきりしていて、六辺香が、吹き荒れる雪の粒が…目の前の世界が…止まっているように見えたこと。
そして…すぐ近くで、声がした。
『汝の願い…しかと心得た』
男とも女ともつかぬ、それは今までに聞いたことのなかった『顕明連』の声。
そして。
放射状に伸びた黄色い光の筋に、青白い嵐は貫かれ粉々になって消え。
六辺香の巨体は…幾筋もの光に貫かれ。
『ぐ…うっ………』
声にならない声を残し…冷たい地面に崩れ落ちた。
『やはり…貴様は不思議な男だ』
天井を仰いで、涙を流しながら…六辺香はそんなことを呟く。
「…そう?」
冷たい洞窟の壁にもたれて座り、薄れそうになる意識を懸命につなぎ止めている俺に、気づいてか気づかずか…彼はさっきと同じことを問いかける。
『何故…とどめを刺さぬのだ?』
「………だって」
ごほっ…と咳をすると、口を押さえた手が赤く染まった。
けど…慣れているので、俺は大きく息を吸い込んで、呼吸を整える。
「どうせお前は…あともう少しで消えちゃうんだろ?」
『………情けは掛けぬのでは…なかったのか?』
「…難しいこと考えずに、残り僅かな今生を愉しめよ」
『………貴様』
愁…決着ついたのかな。
右京は…霞ちゃんとくれはに会えただろうか。
とにかく…これで、生きて帰るって約束は果たせそうだ。
藍………無事かな。
ふう…と一つため息をつく。
当たり前だ。
居合…俺が教えてやったんだから。
藍は…強い子なんだから。
『何を…考えている?』
不安な想像から呼び戻してくれた六辺香に心の中で感謝して、肩をすくめて笑ってみせる。
「…教えてやんない」
『先程言っていた…私に良く似た男…というのは』
「…それも内緒!でも…分かってるんだろ?」
『………そうだな』
見ると、彼は清々しい顔で微笑んでいた。
どうやら彼も、黒い獣の呪縛から…解き放たれたらしい。
「もうすぐ…大手を振って彼女に会えるな」
『………そうだと良いな』
「どんな人だったのさ?美人?」
『………教えてやらん』
何だか…勿体無いな。
違った出会い方をしていたら、俺とお前は無二の親友になれたかもしれないのに。
…いや、やっぱ違うな。
違う形で出会ったとしても…俺の性格上、きっとこんなもんだろう。
「なあ」
『………何だ?』
「もし…特に思い残すこともなくて、俺に残したい遺言の一つも無いんだったらさ」
『………だから、何だ?』
「冥土の土産に…俺のすっごくかわいい恋人の話、聞いてかない?」
『……………』
真っ赤な炎が、一直線に彼の背中へ飛ぶ。
が………
青い光が前に立ちはだかり、弾けるような音を立てて消えた。
一瞬にして…元の薄暗く冷たく、静かな空間に逆戻りする。
『…卑怯な野郎だなあ』
言葉とは裏腹に、振り返った玉屑は愉快そうににやりと笑う。
「卑怯?」
『惚けやがって…人の背中を狙うなんざ、卑怯者のやるこったぜ、紺青の兄ちゃん』
「呑気なこと言うんやな、韓紅の人間ちゅうのは」
『螢惑』が赤く光る両腕を前に突き出し、僕も笑って応える。
「紺青にはな、『先手必勝』て言葉があるんや」
『そうかよ。けど…そういうの、俺も嫌いじゃねえぜ』
言い終えるや否や。
青く光る鎖鎌が、刃のような冷気を伴いこちらへ迫ってきた。
『火柱』!
轟音と共に立ち上った火柱は、鎖鎌の軌道を阻む。
ちっ…と舌打ちして少し残念そうな顔をした後。
すぐさま玉屑は、つり上がった細い目をぎゅっと細めて…笑った。
『いいじゃねえか』
まるで、大きな獲物を見つけた獅子か虎のような…瞳。
『殺してずたずたに切り裂いてやった時の快感は…敵が強けりゃ強い程でかくなるからな』