Ep16
私達は、韓紅一族を幸せにするために生まれてきたのよ。
母様がそんなことを言ったのは、確か…
そう、あの日の朝のことだった。
『お散歩に行きましょうか、くれは』
父様が亡くなってからというもの…洞窟の奥に篭もり外に出ることのなかった母様の言葉が、私はすごく嬉しくて…うん、と大きく頷いた。
洞窟の外には、冷たい風が吹いていて。
身震いして首を竦める私を、母様は優しい目で見つめていた。
『綺麗ね…くれは』
『…なあに?』
『外の世界は、とても…とても綺麗だわ』
そうかな。
枯れた木々の立ち並ぶ荒野を目の前にして、私は思わず首を傾げた。
『何故、私達は暗い洞窟の奥で暮らさなければならないのだと…思う?』
『それは…隠れてないと、紺青が攻めてくるから』
そうでしょ?と尋ねると、母様は少し困ったように微笑んで。
『紺青を倒せば、明るいお日様の下で暮らすことが出来るようになる、という訳ね』
紺青を…倒す?
紺青が憎い、紺青のせいで我々は…と口にする大人は沢山いるけど、紺青を倒すなんて…
そんなこと、初めて聞いた。
『冬鬼を覚えている?』
『…族長の?』
それは、私がまだ小さい頃に死んだ…鋭い目をした怖い男の人。
私の答えに、母様はまた困ったように笑う。
『そうね、小さかったあなたには怖く見えたのかもしれない。でも…とてもいい人よ』
『いい…人?』
『そう。誰よりも韓紅一族を大切に思い、誰よりも韓紅一族を幸せにしたいと願っている人』
思って『いる』?
『いた』…ではなくて?
何だか、今日の母様は…ちょっと変だ。
『支えてあげてね…これは、あなたにしか果たすことの出来無い大きな役目だわ』
『…母様?一体』
どういうことなの、と…口を開きかけたけど、言えなかった。
母様は泣いていたのだ。
声も出さず、にっこり笑った優しい表情のまま…涙を流していた。
そして。
『これは…私達にしか出来無いことなの』
「くれは、大丈夫!?」
体を揺さぶる誰かの声に、ゆっくり目を開けると…
白い額から血を流す、霞の心配そうな顔が目の前にあった。
「か…すみ………?」
全身に鈍い痛みが走る。
そして。
前に玉屑にやられた…あの刺し傷が、ズキリと痛んだ。
母様は………相変わらずの、穏やかな表情のまま。
でも周囲の氷柱からは、目がくらむような…青い光が放出されていた。
「あ…れは………」
立ち上がって近づこうとするが。
青い光が集まってきて…私の体は大きくはじき飛ばされてしまう。
「うっ………」
「くれは!」
霞が地面に叩き付けられた私に駆け寄ってきて。
「これは………」
立ち上がって、また母様に近づこうとする私の腕をぐいと引き戻す。
そして…辛そうな顔で首を振った。
「無闇に…近づかないほうがいいわ」
「…そんな」
氷柱から凍てつく風が吹きつけ、息が苦しい。
「拒絶…してるのか?母様は…」
私のことを?
「そんな………」
『ただで破壊されるたてはではない』
冬鬼は静かに僕に語りかける。
『たとえ血を分けた最愛の娘であるとしても…紺青に与する者を、たてはが許す筈はない』
だから、二人を放っておいても問題はないという。
「そんな…どうして」
『お前に…今までの我ら一族が味わってきた苦しみが分かるか?』
首を振ると、彼はふっ…と口の端だけ上げて、小さく笑う。
『たてはの苦しみは…お前の知る、あの花蓮などの比ではない。高い『神力』を持つが故に、族長の一族でありながら…疎まれ追放の憂き目に遭わんとしていた…その時だ』
何の前触れもなく訪れた…忌まわしい疫病の流行。
続々と倒れていく一族の実力者達。
そんな中で、彼女を追放することは一族にとって致命的だった。
慣例を破り一族に留まることになった彼女は、周囲からの冷たい眼差しを一身に受け…
人目を避け、洞窟の奥で息を潜めるようにして暮らしていたのだという。
『私が世を去った後、最愛の伴侶にまでも先立たれ…最後の、一縷の望みをあの呪わしい氷柱の術に、そして…私に託したのだ』
「そんなの…間違ってる」
『何故…貴様にそう言い切れるのだ』
「お前達の行為が…まだ幼いくれはをどれだけ縛り、苦しめているか」
『くれはもまた同じ運命を背負った身だ。安易に逃れることなど出来ぬ』
「僕には理解出来無い!」
響き渡る僕の声に、冬鬼は眉一つ動かすことはなく。
『ほう…』
周囲の空気のように冷たい視線が、僕を捉える。
「今はお前達の知る、昔の紺青とは違うんだ。広い領土に様々な文化を持ち、様々な考え方を持った人々が暮らしている。沢山の国を束ね、皆が平和に暮らすことが出来るよう心から願っているのが、霞姫…お前達が敵と呼ぶ紺青の王だ」
『強くなりたい』
彼女はいつも…寂しそうにつぶやく。
『私がもっと強ければ、誰も苦しむことのない…紺青を平和で穏やかな国にすることが出来るのに』
「韓紅のことだって…そうだ。彼女は自分の生い立ちを悔やんでいる」
それは…霞さんのせいではないのに。
韓紅の一族をこんな風に追いやってしまったのは、自分の先祖なのだからと…
「直接お前と話がしたいと、そう…彼女は」
『話なら先程済ませた』
「………何だって?」
『小娘の甘い理想なぞ、今に打ち砕かれよう』
感じぬか?
彼は目を閉じ…つぶやく。
『この、冷たい『神力』…これはたてはの怒りだ。紺青を倒し、韓紅は再び広い世界を手に入れる。たとえ最愛の娘であったとしても…その怒りを鎮めることは出来ぬ』
冬鬼の白い体が、青い光に包まれる。
不意に背筋が寒くなるほどの…強い『神力』。
『たてはの命の最後の炎が、青く白く冷たく燃え…私に力を授けてくれる』
青い瞳に…鋭い光が宿り。
ぐっと奥歯を噛みしめ…僕は『水鏡』の柄に手をかける。
『これが…紺青の最後だ。小僧』
「…何を」
『たてはの力は私だけでなく、一族の者達全てに与えられている。玉屑や六辺香、それに…青女や、紺青を攻める者たちにも…な』
…風向きが変わった。
『月岡伍長!これはっ…』
「落ち着け!まずは足場を固めて…」
無線から叫び声が聞こえ…応答は途絶えた。
ちっ…と舌打ちして顔を歪め。
傷だらけで倒れている紺青の兵士達を避けながら、僕は城下の大通りを走り続ける。
一体…どうなってるんだよ。
さっきまでとはまるで違う、『神力』に満ちた韓紅の人間達、そして無数の『オンブラ』に…十二神将隊の隊士達さえ対抗することが出来ず、一人また一人と倒れていく。
霧江様は、剣護さんと一緒にどこか城下にいるらしい。
あの人が一緒なら、まあ大丈夫だろうけど。
『風牙!無事か!?』
無線から聞こえてきたのは、病院から抜けだしてきたらしい龍介さんの声。
「城へ向かいます!」
街の人達は皆、涼風公の指示で城の中に集められているのだ。
「城門の守りを固めないと…朱雀の隊士達も集合するように指示してあります」
ただ…この状況下、どれだけの人数が辿りつけることか。
『頼む!こっちも残った隊士かき集めてそっちに向かわせるからよ!』
「わかりました!でも」
その時。
突如、目の前に現れた…小柄な人影。
「きゃっ!!!」
「うわっ!!!」
ぶつかって、地面に尻餅をついて。
「いっ…てて………あれ?」
涙目で後頭部を摩っているのは…
「ちか!?」
「ふっ………風牙さぁん!!!」
ぎゅうっと不意に抱きつかれて、思わず…鼻の下が伸びそうになるけど。
「な…何してるんだよ!?こんなところで」
「…救護ですよぉ…だって…こんなに怪我してる人がいっぱいいるのに………」
…はっとして。
僕の腕にしがみついて泣きじゃくる、ちかの髪にそっと触れる。
「ちかは…天后隊士なんですから」
「…そうだね」
源隊長不在の中…天后隊士達は兵士達の救護のため、必死で城下を駆けまわっているのだという。
「すっごく危険なのは分かってます…でも…隊長も頑張ってるんだもん。頑張らなきゃ」
「…ごめん」
華奢な両肩に手をかけ、潤んだ瞳をじっと見つめる。
「僕は城へ向かうけど…気をつけて」
「風牙さんも…ご無事で」
彼女の額にそっとキスして、僕はまた駆け出そうとして。
…ふと思い立って、振り返ってちかの方を見た。
「…でも」
「…なんですかぁ?」
「君達がみんな城下に出てたら、病院には一体誰が」
「宇治原さんですよ。それに先輩達も半分は残って治療を続けてらっしゃいますし」
「でも…病院の守りは」
『残った騰蛇隊士も皆城に向かわせる』って…確かさっき、草薙さん言っていたけど。
「だから…宇治原さんです」
きょとんとした目で、ちかは同じ言葉を繰り返す。
「………宇治原さんたって、いくらなんでも一人じゃ」
「『任せとき』って…言ってました」
いつもの眼鏡を地面に放り…靴の踵で踏み潰して。
彼はいつもの口調で淡々と…つぶやいたのだという。
『何や知らんけど…今日は虫の居所が悪いねん』
大粒の雪が降り始めた街を、僕は再び走りだす。
右京様、一夜さん…愁さん………
きっと、韓紅の親玉は…皆さんが倒してくれるはず。
それまで僕たちは…紺青を守りきらなくちゃ。
そして…
灰色をした空を仰ぎ、この街のどこかで闘っているはずの…彼女の名を呼ぶ。
「ミカさん…」
『おやおや…さっきの元気は一体どこへ行ったんだい?』
けらけら笑う青女を…ぐっと…睨む。
『ほーお、まだそんな顔する力が残ってたとはねぇ』
感心感心、という上機嫌な声に、ぐっと奥歯を噛んで。
立ち上がると、ふらりと足元が揺らいだ。
何とか堪えて…額から流れる血を腕で拭う。
足元は…小さな赤い海だ。
白い雪の塊は、静かに静かに…その中に落ちて溶けていく。
と。
「…ぐっ………」
飛んできた雪風の刃に…反応出来ずに弾き飛ばされる。
また着物が裂け、血がほとばしり…
どん、と地面に背中を打ちつける。
「あっ………」
全身を貫く激痛に…思わず声が漏れた。
『何だい、せっかく立ち上がったと思ったけど…やっぱりもうおしまいかい?お嬢ちゃん』
獲物を見据えた獣のように光る、青女の目。
『百花』を握り。
激痛に耐えてもう一度…体に力をこめ、立ち上がる。
………負けてたまるか。
「…でぁああああ!!!」
渾身の力で抜いた刀から真っ赤な炎がほとばしり、降り積もる雪を蒸発させながら青女に迫るが。
『…ふっ』
うつむいたまま不敵に笑い、彼女は白く光る刀を抜き放ち。
瞬間、炎の塊を真っ二つに切り裂いた。
そして。
『お返しだよ!!!』
返す刀から放たれた氷の刃が、真正面から私に迫り。
無論、避ける余裕などなく。
「きゃあぁぁぁ!!!」
右肩からばっさり、袈裟懸けに切り裂かれ。
そのまま後方に吹き飛ばされて。
まだ血に濡れていない、真っ白な雪の中に…ぐしゃっ、という音と共に叩きつけられた。
灰色の雲が垂れ込め、光の差さない空。
かろうじて、うっすら開いた目に…映ったのは。
『これで、本当におしまいみたいだねぇ………三日月藍?』
私の喉元に刀の切っ先を突きつけ、嘲笑を浮かべる…青女の姿だった。
「…う………」
『その、火の出る『おもちゃ』…あんたがそれを持ち出したときには、ちっとは楽しめるかと期待したんだがねぇ』
低く、憎しみに満ちた、彼女の声が頭に響く。
『どうやら…あてが外れたようだ』
………どう…して。
『百花』を手に入れて…この戦いのために、出来る限りの訓練を積んできた筈だった。
一夜も『これなら大丈夫』と太鼓判を押してくれた。
なのに………
『あんた、まさか…居合で私に勝とうなんて思ったんじゃなかろうね?』
そんなのとんだ思い違いだよ、と青女が吐き捨てるように言う。
『これはあんたと私の…格の違いさ』
この女、まさか………一夜の居合より…速い?
そんなこと………
『それともう一つ。あんたと私じゃ…戦に賭ける重みがまるで違ってんだからね』
………重み?
だって、考えてもごらん?と、彼女は嘲るように笑う。
『あんたみたいにいつも誰かに守られて、甘やかされて…そんでちゃらちゃらちゃんばら稽古してきたお嬢ちゃんに…この私が負けるわけないじゃないか』
「な…ん………ですって?」
『おやまぁ、否定するってのかい』
ぐっと奥歯を噛み締める。
反論しようと、上半身に力を込めて、起き上がろうとした。
その時………
『お前は、俺がいてやらねーと駄目なんだから』
幼い日の、孝志郎の笑顔が脳裏を過ぎった。
………そう…か。
誰かに守られて、甘やかされて?
そんなことされた覚え…ない。
………って…思ってたけど。
そう………
あの言葉だ。
『刀を抜いた瞬間に、死ぬことも辞さない態度で敵に臨むべし』
剣護が昔、しょっちゅう口にしていた言葉。
本気でそう思う?と、興味本位で聞いた私に、まだ濃紺のローブを纏っていた一夜は、綺麗な笑顔で…当たり前のことみたいに答えた。
『だって、刀を抜くっていうのはそういうことじゃないか。殺すか、殺されるか…敵が強いなら自分が死ぬだけ。たとえ敵わないとしても…逃げて生き恥を晒すくらいなら、敵に斬られて死ぬことを選ぶな、俺なら』
首筋に、冷たく硬い刃の感触。
「う………」
どんなに目の前の敵が強くたって、頼りになるのは己のみ。
誰が助けてくれるわけでもない。
自分の力が及ばないなら、黙って死ぬだけ。
そんな戦い………
私………今まで経験したこと…なかったのかもしれない。
『どうした?お嬢ちゃん』
一夜の居合だって、きっと実戦では…命を賭けた戦いでは、もっとずっと速い。
『あんた…まさか、この後に及んで泣いてるんじゃないだろうね!?』
冷え切った体に、焼け付くような傷の痛み。
そして…頬を伝う、熱い涙の感覚。
『へぇ…怖いってのかい?この私が』
血がどくどくと、体から流れ出していくのがわかる。
意識がだんだん遠くなる。
………こわい。
誰か助けて。
……………馬鹿じゃないの?
小さな子供じゃあるまいし。
でも…こわい?
そんなこと…考えてる場合じゃないのに。
『感情的になったら負けだぞ』
孝志郎の言葉が頭に響く。
落ち着きなさい…藍。
何とかしなきゃ。
何とか…この状況を。
だって………私、まだ…死にたくない。
『じゃ…痛みがないように、一思いにあの世へ送ってやろうじゃないか』
青女がすっ…と刀を振り上げ、切っ先が白くきらりと光る。
駄目だ。
体が…動かない。
頭の中で…小さな子供のままの私が、こわいこわいと泣いている。
冷静になろうとすればするほど、幻影を振り払おうとすればするほど…声は大きく強く、頭の中に響く。
タスケテ。
孝志郎…
『三日月藍は守られる女ではない』
十六夜隊長…そう言ってくれたのに。
悔しい。
けど…もう私に、反撃する余力は残ってない。
あるのは激痛と…恐怖と…絶望と。
タスケテ…ダレカ。
右京様。
愁くん。
来斗。
龍介。
剣護。
助けて。
『じゃあねっ!』
刀が真っ直ぐに振り下ろされ。
白く煌く切っ先の動きは、ゆっくりと流れるように見えた。
助けて。
その時。
ぼんやりと閉じた瞼の裏に映ったのは…
『藍』
優しい声と…あの笑顔。