Ep14
「………ん………」
ぶるっと大きく身震いする。
ここは………
気がつくと、私は冷たい石に覆われた洞窟の、鉄格子の檻の中にいた。
きっと、ここは韓紅の住居なのだろう。
薄暗く息苦しい雰囲気だが…
「来斗様のおっしゃってた通りだわ…空気は澄んでる」
くれははどこへ行ったのだろう?
その時。
鉄格子の向こう側に、見慣れた黒い瞳。
「…くれはちゃん?」
彼女は黙って私に近づいてくる。
「大丈夫?彼らにひどいこと、されなかった?」
私の問いかけに驚いたように目を見開いて、少し瞳を潤ませる。
頷いた彼女を見て、よかった…と微笑む。
「優しいんだな、霞」
「優しいのはあなたよ」
「………私?」
頷く。
「草薙隊長と源隊長、助けようとしたのではなくて?」
あの男、彼らの命と引き換えに、彼女に戻ることを迫ったのではないだろうか?
藍の話を聞いたときからずっと、そう思っていた。
黙って瞳を伏せる。
…やっぱり。
小さな彼女の、精一杯の優しさに心を打たれた。
「きっと二人とも大丈夫だわ…あなたのおかげ。お礼を言わなくては」
「…礼?」
「私の国の、私のために働いてくださる人を、あなたは助けてくださったんだもの」
「…霞」
泣きそうな顔の彼女に、思い出したことを告げる。
「そうだわ!私、あなたに見せたいものがあって」
懐に持っていたメモを取り出す。
「…何だ?」
「これね、来斗様が古文書から、大事なところを書き抜いてくださったものなんだけど」
来斗様のような専門家でないと、古典を読むのはなかなか骨が折れるものだ。
原典のままでは、知識のない彼女にはちんぷんかんぷんだろう。
「何て書いてあるんだ?」
「それがね」
思わず声が大きくなってしまう。
「紺青の一族と韓紅の一族は、元は一つだったのですって!」
「………ええ!?」
不思議な力を持った一族の中で、特に大きな力を持つ姉妹がいた。
姉は高い『神力』を持ち、妹は『神器』の扱いに長けていた。
「それが…一族のご先祖様なのか?」
「そういうことみたい」
彼女は紙片を見つめたまま、感嘆のため息をつく。
黙り込んだ彼女の前髪が、洞窟に吹き込む風に、さらさら揺れた。
「………霞」
「…何?」
再び私を見つめたくれはの瞳には、何か強い意志が感じられた。
凛とした声が部屋に響く。
「私と一緒に…来て欲しい」
「炎の意識を持って、刀を抜いてみてくれぬか」
………炎。
目を閉じ、大きく一つ息をする。
そして、鞘から刀を解放すると。
青白い炎がふわっ…と立ち上った。
「これが………」
濃い青い炎を纏う『蛍丸』を見つめ、剣護さんは息を呑む。
「…すげえ」
「お気に召したようで何よりだ」
壁にもたれながら、碧玉隊長は淡々と言う。
「寝ずの作業であったからな、出来にはちと不安があったが」
「…本当ですか!?」
ああ、と彼女は満足そうに微笑む。
「それが六合の…私の仕事だ。何ということはない」
「…そうか」
「…ありがとうございました」
彼女は、こちらへ近づき、僕の瞳をまっすぐ見つめた。
「右京殿」
「…はい」
以前と同じ…自分の仕事に対する、自信に満ちた瞳。
「姫を…紺青を頼むぞ…」
緊迫した空気が漂い、賑やかな『花街』も、今日はしんと静まり返っている。
「あらぁ?浅倉さんじゃありません?」
ぎょっとして振り返ると、そこに立っていたのは『花姫』の香蘭だった。
以前と比べると、少し落ち着いた色目の着物を身にまとっている。
『花姫』は引退したんですよ、と相変わらずの甲高い声で言う。
「平原のお母さんのように、私も店を持って落ち着いて暮らそうかと思いまして」
彼女の裾を引く、小さな子供が目に留まる。
男の子らしいが、まだ一つか二つか…危なっかしい足取りである。
「この子………お前の?」
「いえいえ、私が産んだんじゃありませんけど…私の子っていえば、そうですねぇ」
病で死んだ妹分の『花姫』の子を、引き取って育てているのだという。
「それはまた…たいしたもんやなぁ」
「ねぇ!人間変われば変わるもんですよぉ、私も自分でそう、思いますもの」
賢そうな黒い瞳の少年。
彼もこの街で育つのだろうか?
『風』のように………
怯えるように彼女に隠れる少年に、しゃがみこんで微笑みかける。
最初その瞳には戸惑いの色があったが、彼はにっこり笑いかえしてくれた。
「で、今日はどうなさったんです?」
「ああ…それが」
店の名を告げると、うーん…と彼女は首を捻る。
「今はもう、ないのかも知れへんけど…そんな店があったて、聞いたことないか?」
「えーと…ちょっと待っててくださいね」
香蘭は近くの店に入って中年の女性と話をした後、こちらですって、と僕を誘った。
その店は、屋号こそ変わっていたものの、外観はそのままだった。
不思議そうに僕を見つめる少年の頭に、そっと手を置く。
「なあ、チビ…僕な、ここで育ったんやで?」
「…ふうん」
少し離れたところで香蘭は驚いたような顔をしたが、個人的なことには立ち入るまいという様子で、静かに微笑んで立っている。
店を出居りする沢山の男達、華やかな女性達。
『いい子にしててな』
母さんは優しい笑顔でいつもそう言って僕の頭を撫で、この店に入って行くのだった。
香水のいい香りのする後姿を見送り、半泣きの舞を伴って、近くのいつもの遊び場へ。
その小屋も、驚いたことにまだ残っていた。
「ここでいっつも本読んだり遊んだりして…母さんの仕事終わんの、待ってた」
店の人は親切で、店の空いた部屋で遊ばせてくれたりすることもあったのだが。
『ここは、風と私のひみつきちだもんね』
舞は少し薄暗くて静かなこの小屋が、大層お気に入りだった。
見上げると、今でもあの店の窓から、母さんの歌声が聞こえてくるような気がする。
穏やかな日々…
幸せだったと思う。
『連れてってくれるのか?』
くれはにここの話をすると、目を輝かせてそう訊いた。
『別に…行っても多分何もないで?』
『でも…見てみたいんだ。お前と藍が子供の時に、いたところなんだろ?』
『そんなとこより、孝志郎はんのとことかの方がおもろいで?白蓮は歌上手やし、孝志郎はんのぼんも大きなってきたし』
舞が一度だけ連れてきた孝志郎のことも、彼女はしっかり覚えていた。
『私、子供好きなんだ。清志くんだったか?』
『ああ…お前よう覚えてんなぁ』
自分だって子供のくせに…
言ったらきっと怒るので、それは黙っておいたのだが。
またあの笑顔を…見られるだろうか?
母親を失い、大きな宿命を背負った少女。
また笑ってくれるだろうか?
ねぇ、と少年が僕の袖をひっぱる。
「かえろうよ。かぜひいちゃうから」
優しい少年の言葉に、思わず笑顔になって答える。
「ああ…おおきにな」
香蘭に礼を言い、右京達の待つ騰蛇隊舎へ向かう。
…そうだ。
「名前…」
「はい?」
香蘭の手を引く少年に、もう一度しゃがんで目線を合わせ、問いかける。
「お前…名前何ていうんや?」
「なまえ?」
にっこり笑って彼は言う。
「…るい」
流れる衣と書くんです、香蘭が嬉しそうに付け加える。
「流衣か…」
『花街』らしい、雅な名前だ。
「流衣…お袋さん、大事にするんやで?」
「うんっ」
小さな手を振る少年に背を向け、僕はまた歩き出した。
甲種警戒態勢が布かれ、都はにわかに騒がしくなっていた。
十二神将隊の連中は皆、隊士達への指示や作戦の詰めで忙しいらしい。
「どこ行っちゃったのかなぁ、藍…」
都を発つ前に、せめて顔見ておきたかったんだけど…
背後から声が飛ぶ。
「一夜!?」
ばたばたと駆け寄ってきた藍は荒い息を整えながら、渡すものがある、と言う。
それは、軍用の無線機だった。
「必要でしょ?これ…」
「うん…さんきゅ」
無線機を受け取った俺の手元をひょい、と覗き込む。
「使い方、分かるよね?」
短縮ボタンを指差す。
「1は右京様、2は愁くん、3は剣護に設定してあるからね。4,5は空いてるから、必要なら自分で設定して…」
ん?
「待って、藍…」
「なあに?」
短縮の0を指差すと、ああそれね…と小さくつぶやく。
「これは…私」
…え?
彼女は俺の目をじっと見つめ、微笑んだ。
「気をつけてね…行ってらっしゃい、一夜」
「………藍」
華奢な背中に腕を回し、細い体を抱き寄せる。
普段なら『恥ずかしいからやめて!』と怒る彼女が、今日はされるがままになっている。
「0って…一番掛ける頻度の高い人を設定するものでしょ?」
「…そうね」
「間違って掛けちゃったらどうするの?」
「大丈夫、ちゃんと転送してあげるから」
唇を重ねると、彼女は少し身じろいだが、すぐに諦めたように体の力を抜いた。
長いキスの後、もう一度、藍の体を強く強く抱きしめる。
柔らかい黒髪から立ち上る、甘い香りが鼻をくすぐる。
「一夜…いたい」
「あ…ごめん」
そう言いながらも、腕の力は緩めない。
この香り、この感触…
覚えておこう。
帰ってこられるように。
絶対に………
「藍?」
息苦しそうに、なあに?と聞き返す、彼女の耳元でささやく。
「俺が帰ったらさ…」
「…うん」
「帰ってきたら………沢山いちゃいちゃしようね!」
「……………」
「一夜ぁ!!!」
怒鳴り声の方を見ると、真っ赤な顔をした剣護が両拳を握り締めて立っていた。
「てめえ!!!そういう直接的なこと言うんじゃねえよっ!!!」
「…剣護」
ぱっ、と俺から離れ、頬を赤く染めて髪の乱れを整える藍。
………あーあ。
「いつからいたの?」
「んなことどーでもいいじゃねえか!?」
「どーでもよくないよ、せっかくいいとこだったのに…」
「うるせえなぁ!!!公衆の面前でけしからんっつってんの!非常時だから、今日くらいは大目に見てやろうかなと思ってたらお前は…」
「何、ずっと見てたの?剣護やらしー」
「やらしーことしてたのはお前らだっ!!!」
藍の無線が鳴る。
「…了解、すぐ行きます」
無線の声にそう答え、バツが悪そうに笑う。
「まだ仕事沢山あるから…じゃあね」
「あ…うん」
とことこ小走りに去っていく後姿を見送る。
しかし、藍は少し離れたところで、ポニーテールを揺らしてくるっと振り返った。
「…一夜?」
「ん?何?」
躊躇するような顔をして、小さく深呼吸をして…
少し瞳を潤ませ、目を細めて微笑む。
「さっきの話…楽しみにしてるからねっ」
「…えっ?」
「………おい」
じゃあね、と彼女は風のように去っていった。
取り残された俺は、同じように呆然と立ち尽くしている剣護の肩をぽん、と叩く。
「…なあ、剣護」
「…何だ?」
「…代わってくれ」
「………はぁ???」
「藍置いてけないもん。勾陣は俺が面倒看るからさぁ、代わりに北行かない?」
「お前…バカだろ?」
「だってぇ………聞いたでしょ?楽しみって言ってたよ?ほっとけないじゃん…」
剣護はがくっと肩を落として大げさにため息をつき。
突如俺の襟を掴んで、思い切り怒鳴った。
「……………お前は北で、もういっぺん死んで来い!!!」
以前と同様花蓮様の力を借りて、南に棲む大鷲の背に乗って、北へ…
冷たい空気は紺青では想像できない程だった。
目の前にそびえる、奇妙な形をした岩山には、ところどころ穴が開いている様子。
「あれが…」
「…おそらくな」
愁さんが懐から取り出したもの。
来斗さんお手製の、住居内部構造を調べる探知機だ。
『反応はどうだ?』
無線から来斗さんの声。
「そうやなぁ…も少し近づかんと、まだわからへんみたいやけど」
『そうか…一夜のほうはどうだ?』
ふむ、と一夜さんはくれはの『玉兎』に反応する探知機を見つめる。
「こっちだね」
ぴ、と指差したのは、巨大な岩の塊が幾つも重なり合ったような、不思議な岩山。
見ると、岩肌の一箇所に小さな洞穴のようなものがある。
「あれ…入り口でしょうか?」
愁さんが探知機を向ける。
思わず息を呑む。
その画面には断面図のようなものが表示された。
…来斗さん、大成功。
あの入り口から地下へ、幾層にも折り重なった空洞が広がっているらしい。
「さて、どうする?」
一夜さんが意味ありげに微笑む。
「どうするて…行くしかないやろ?」
右腕に装着した『螢惑』を左腕で掴み、不敵な笑みを浮かべる愁さん。
「怖気づいたなら、帰ってもええんやで?」
「俺が?ご冗談」
一夜さんが長い前髪をかき上げる。
「お前のわがままに付き合うって言ったろ?お供しますよ、地獄の果てまでね」
ふっ…と笑って愁さんが一夜さんを見る。
「…なんや、気持ち悪いなぁ」
「そりゃ心外だねぇ」
「じゃあ…行きましょうか」
二人は僕の顔を見て、力強く頷いた。
その時。
『右京!まずいことになった』
来斗さんの少し焦った声が飛び込んでくる。
「どうしたんですか!?」
『オンブラの一団が都に…』
冬鬼や三将の姿は、今のところ目撃されていないという。
無論、くれはの姿も………
三人で再度、頷きあう。
「急ぎましょう!」
「そやな」
「りょーかい!」
僕らの前を、強く冷たい風が吹きぬけた。
現れたオンブラは、大多数が狼や熊のような形をしていた。
白装束の忍者の数は、以前と比べると少ないようだ。
『まだアジトに大勢残っているんだろう。おそらく先発部隊といったところだな』
来斗の声が無線から聞こえてくる。
「三日月さん…」
振り返ると、騰蛇隊士達が不安げに私を見ていた。
椅子から立ち上がって、ぴょこんと頭を下げる。
「草薙隊長不在で、色々不手際もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします!」
みんなが焦ったように一斉に敬礼する。
「そ…そんなことありませんよぉ、三日月さん!」
「よろしく頼むぜ。俺たちの命、お前に託した」
「三日月伍長!頑張ってください!!!」
ふう、と大きく深呼吸して天井を睨む。
よし。
その時だ。
「邪魔するぞ」
隊舎の中にいた隊士全員の目が入り口に立っていた人物に注がれる。
「…何だ?」
「孝志郎!」
「孝志郎様!?」
「一体何故…ここに?」
孝志郎は居心地が悪そうに頭をかく。
「いや…何か出来ることはないかと聞いたら、来斗がな…」
『何もしなくていいから、とにかく騰蛇隊舎にいてやれ』と言われたらしい。
事の真意をはかりかねている様子の彼は、私達を見回してバツが悪そうに笑う。
「やはり…俺がいたら邪魔だよな」
「な…」
掴みかからんばかりの勢いで、そんなことありません!!!と隊士達が詰め寄る。
「居てください、是非!」
「座っててくださるだけでいいんです!」
「さすが涼風隊長、良い事言うっ!」
彼らのきらきらした目に、圧倒された様子の孝志郎が目を丸くしてつぶやく。
「そうか…じゃあ、居させてもらうかな」
「勿論です!!!」
「よろしくお願いします!!!」
歓声を上げる隊士達。
「みなさん…やっぱり私じゃ不安だったんですねぇ」
先輩隊士の一人がぽん、と肩を叩く。
「いや、三日月…それは違うぞ」
「?」
「お前がしっかりやってくれればそれで十分。だが孝志郎様がいてくれれば、尚安心ってところかな」
「…はあ」
要は士気の問題ってことね。
「何よりお前のやる気が違うだろ?孝志郎様がいるのと、いないのとでは…」
「…私?」
にやりと笑って彼は言う。
「古泉には悪いが、孝志郎様はまた別格だろうが?お前にとっちゃ…」
どきっ…
少し離れた所で、那智さんがくくく…と可笑しそうに笑っている。
「ちょ…ちょっと何がおかしいんですかぁ!?」
「いえ…何でも」
孝志郎が私の名前を呼ぶ。
「隊士の配置はどうなってるんだ?早く出動しなくては他の隊に出遅れるぞ」
「あ…はあい!!!」
彼女が私を連れてきたのは、洞窟の奥にある、礼拝堂のようなところだった。
どんな方法を使っているのか、その空間は地上からの光で満たされている。
奥に見える、巨大な氷の柱。
その内部には。
一人の女性が佇んでいた。
瞼は閉じられているが穏やかな表情で、まるで眠っているようだ。
腰まである、艶やかな黒い髪。
「母様だ」
くれはは静かに言う。
注意深く見ていると、氷の柱は微かに青白い光を放ち、すぐにふっと消える、それを繰り返していた。
点滅する氷の柱は、呼吸しているようにも見える。
ああやって、彼女の微かな命の残り火と力が外に放出されているのだろうか。
以前ベルゼブに捉えられた時のことを、思い出した。
水槽のようなものに閉じ込められた。
彼が何かを唱えるたびに、体の中から力が抜き取られていくような感覚。
思い出すと…ぞっとする。
「助けてあげることは…出来ないのですか?」
くれはは悲しそうに首を振る。
「もう手遅れだ…帰ってきて色々調べてみたけど、このまま5年の歳月が経ち、氷の柱が溶けると同時に母様の体も消えてしまうのだそうだ」
時計の針を止めることはできない。
「…そう」
くれはは愛しそうに母親の姿を見つめる。
「母様の…この氷柱がある限り、冬鬼達の力は絶えることがない。このままでは、右京達には勝ち目がないかもしれない」
決意のこもった黒い瞳。
「………そう」
彼女が何を言おうとしているのか…痛いほどわかった。
沈黙が流れる。
私はただ、くれはがそれを私に告げるまで、待ってあげたいと思った。
白い頬を涙が一筋、流れる。
「この柱を………」
迷いの無い瞳が、じっと私を見つめる。
「破壊しようと思う」