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森の中の花畑

 そこは、深い森の中だった。


 あちらこちら、どこを見回しても生い茂る緑が彼を押し潰すかのような圧を持ってそこに立っていた。


 走る。走る。走る。


 向かう先はどこへでも良かった。


 例えばこの先がとてつもなく高い崖であっても、彼はその足を止める事は無かっただろう。


 もう彼にとって生き死にはどうでもよかったのだ。


 そんな彼が足を止めたのは、終わりの見えなかったはずの森が、唐突に終わりを迎えたからである。まだ続いていたはずの景色、それらが唐突に消え去り、そこにあったのは一面に広がる花畑で──


 あら、と。


 それは、彼に気がついた。


 長く、薄い桃色をした艷やかな髪に、おっとりとした穏やかな空のような目、そしてその柔和な笑顔に、彼は足を止めた。


「こんにちは、見知らぬ人」


 そう、そよ風のように優しい声で彼を出迎えた。


 ※※※


「ごめんなさいねえ、こんなぼろぼろの家なんかに招待して」と紅茶が出される。


 そこはワンルームの家だった。

 玄関の隣にキッチン、中央にテーブル、そして一番奥には少し大きめのベッドが一つ。あとは埃の被った食器棚や窓やらがそれぞれの壁に心ばかりにあるだけだった。


 そのテーブルを囲むように二つだけ椅子があり、今はお互いに向かい合う形に座っている。


「いえ……そんなことは……」


 そう言いつつ出された紅茶を一瞥した。


 きらきらと、まるで湖を彷彿とさせるほど透き通っているその紅茶に見惚れたのか、彼はしばらく見入っていた。

 それを温かな笑顔を浮かべたままの彼女は見つめ続けていた。


「それで……あなたはどうしてここへ?」


 あまりにも固まって動かない彼へ、そんな質問を投げかけた。

 さらさらと薄い桃色が揺れている。隙間風だ。部屋に入り込んでいる風が原因だった。


「……彼女と、喧嘩別れしてしまいまして」


「あらまあ」


「それで、もう、なんか……こう、むしゃくしゃして……なんか、どうでもいいやって……走ってたら……」


 ぽん、と彼の頭に手が置かれる。滑らかで、柔らかい手だった。

 温もりのある、優しい手。氷が溶かされるような、ふんわりとした穏やかな心地。


 それが、彼を包み込んでいた。


「よしよし、泣かないで。ね?」


「っ……」


 彼は慌てて溢れていた涙をその袖口で拭き取ると、すぐに何度も何度も頭を下げた。


「すみませんでした……。まさか泣いてしまうなんて……」


「ふふっ、大丈夫よ。カッコいい顔して、かわいいところもあるんだなあって思いました」


 花のように笑う彼女から顔を背けた彼へ、あっ、と提案を出した。


「そうだわ。もし行く場所が無いならここに泊まっていけばいいわ。私も一人で退屈していた所だったので」


「い、いやでも……悪いですし……」


「良いじゃないですか。ほらほら」


 そう押し切られ、彼は彼女と同居する事になった。


 ※※※


 朝、彼が目覚めた時には、既に彼女はそこにはいなかった。

 昨夜は寝つけなかった彼だったが、とはいえもう日が昇って随分経っているようだったのでベッドから出ることにした。


 小屋から出ると日の光が目に焼き付き、咄嗟に手で陰を作って視界を守った彼は、睨むように周囲を見回した。

 少し冷えているそよ風が吹く。


 その風の来た方を見ると、彼女はそこにいた。

 彼からは遠目にしか彼女を見る事はできないが、何かを見上げていて、その顔は酷く哀しげに、その瞳には映った。


 そこでふと、彼女の視線の先へ目線を逸らすと──


 ──宇宙船だ。


 巨大な宇宙船の残骸らしきものが、そこには鎮座していた。


 悠久の時を経てなお、未だその猛々しい姿は健在で、苔が生え、鳥の巣ができ、半壊していてもその勇姿は、死してなおその存在で何かを支えているような、厳かな雰囲気を醸し出している。


 それは、今か今かと次の旅を待ち続けているかのようだった。

 遥か彼方、時も場所も超えて、この場所に佇むその姿に魅入り、暖かな風が吹くこの場所が彼にとっては果てしなく広く感じた。


「あら、おはようございます」


 彼女は何事も無かったかのように話しかけた。

 豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして一瞬の間が開く。


「あー、えっと……はい。おはようございますデス」


 そう挨拶を交わしたは良いものの、その後に続く言葉を切り出せずに目線をあちらこちらへふらふらと彷徨わせているところへ、彼女はぽん、と手を叩いて「そうだ」と提案する。


「今ちょうど紅茶のお花を切らしてて。良ければ一緒に行きませんか?」


「ぜ、ぜひ!」


 すぐに食いついた。


 ※※※


 その花畑には色んな花が咲いていた。

 彼が知るものを挙げていくなら、すみれやポピー、たんぽぽなど季節も育つ環境もばらばらな花ばかりであった。遠目に見える木には楓のようなものもあった。


「広い、ですね」


「ええ。ずっと昔から育てているもので……ははは、最初はもっと小さなお花畑だったんですけどね」


 そう嬉しそうに笑う彼女の横顔を見て、さっと目を背けた。

 彼女の手には小さなブランケットが提げられ、花畑の間に作られた道を、様々な花に見守られながら二人は歩く。

 ふわふわとした、まるで夢の中のような空気を全身で味わいながら、彼の顔にもいつの間にか笑顔が浮かべられていた。


 晴れた青い空、ふんわりとした空気、穏やかな風が吹いて、色とりどりの花達がふわりふわりと踊る。


 花の種類などさほど詳しくはない彼だったがそれでも居心地が良かった。


「あ、この花ですね」と彼女はその場に足を止め、しゃがみ込んだ。


「その花は……」なんですか、と聞く前に返事が返ってくる。


「体に良いんですよ。少し前に、彼から貰ったんです。帰ったらこれでお茶を作りますね」


 そう彼女は花を摘みながら、笑い混じりに言った。

 そんな小さい背中を見下ろした彼は、ただ静かに花たちと共に彼女を見守りながら握り拳を作り、返事はしなかった。


 彼女が花を摘み終わると、二人は帰路についた。

 話す言葉はあまり無かった。来た時とは違った心地がして、彼は空を見上げた。


 空は果てしなく、どこまでも青い。

 ゆっくりと形を変えていく白い雲が、彼には眩しく思えた。


 夢はいつか覚めるものだと誰かが言ったのを思い出した。


「あ、少し雲が多いですね」


「……そうですね」


 それならば、夢なんて見なくてもいいと、そう思いながら道を歩いた。


 ※※※


 その日は雨が降った。

 朝の暖かな風は、湿気を孕んだものだったのだろう。


 ことんと置かれた紅茶が湯気を立てている。

 がたりと対面に座る、湿気のせいか少し髪のはねた彼女。


 彼は出された紅茶を軽く飲んだ。


「すみません、濡れませんでしたか?」


「大丈夫ですよ」


 彼は気丈に笑って見せたが、それでもどこか不安そうな顔をする彼女に、あ、と話題と共にこの空気を切り替えるべく努めて明るい声で話す。


「そう言えば気になってたんですけど……」


「はい?」と目を丸くする彼女。


「あの宇宙船のような物はどういったものなんですか? ああいうものを見たのは初めてで気になってしまって……」


 ははは、と笑いながら言う彼は、少し経っても返事の無い事に脂汗をかきながら「失礼しますね」と紅茶を煽る。


 紅茶を飲み切ったが、それでも返事は無く、カップを置き、見れば彼女は俯いてしまっていた。

 その顔は桃色の髪に隠されて上手く見ることができない。


「ぁ、えっと……その、すみません。気を悪くしてしまったのなら……謝ります」


 空気が凍りつく。彼は目線をぐるぐるとさせているが何も言葉が浮かばないようで、彼も項垂れてしまった。


「……本当に、すみませんでした」


 それからしばらくの間、二人は沈黙して過ごした。

 ざあざあと、外では雨が鳴り止む様子が無い。

 話しかける言葉は何分経とうとも浮かばず、まるで時間が停滞したようにその場に留まり続ける。

 それとは対象的に震えて定まらない瞳は部屋中のあちらこちらへ動いてしまい、その間二人が言葉を交わすことはなかった。


 やがて、降る雨が子守唄になりそうで意識がどこかに行ってしまいそうなのをどうにか食い止めながら、最終的に彼は眠りへと誘われてしまった。


「──夢は、いつか覚める」


 寝入った彼を置いて、彼女はその家を出た。雨の降る外へと。


 濡れる、濡れる、慣れる。


 全身をびしょ濡れにしながら、彼女は歩いた。

 一人で、ふらふらと。


 足を止めた彼女の前には、かの損壊した宇宙船があった。

 その閉じた扉を前にして、彼女は手を伸ばして撫でるように触れ、ぼそりといくらかの言葉を紡いだ。

 すると苔の生えた扉は自分から開いて、夜のように暗いその中へと招き入れるのだった。


 ※※※


 ──君の事が分からないよ。


 それが、始まりだった。


 彼は夢を見た。

 喧嘩別れをした彼女との思い出を見た。


 それはとても幸福で、彼女と過ごす時間はとても幸せなものだった。

 けれど、彼は失敗したのだ。自分が思い描く幸せと、彼女の思い描く幸せとの違いを分かっていなかった。


 自分が幸せならば相手も幸せだろうと、そんな気持ちをどこかに抱いていたのだ。そのために彼女を深く知ろうとしなかった。

 その結果、些細な事がきっかけで喧嘩になり、別れることになったのだ。


 相手を知らないというのは、知ろうとしないのは、まさしく悪だろう。


 ──幸せだった分、その反動は大きかった。


 何を言ったのかは憶えていないが、彼はその口から自分でも信じられないような暴言や罵倒を数多く投げかけたような記憶がおぼろげにあった。


 そうして、頬を打たれて幸せだったものは瓦解したのだ。


 彼女が出て行って、たった一人取り残されたどんよりとした部屋に立っていた。


 ──知らぬ内に走り出していた。

 一秒でもその場所にいたくなかった。


 自分が壊してしまった幸福だと思っていた日々を忘れてしまいたかった。直視したくなかったのだ。自分が笑顔にしたかった彼女の涙を。


 どこか、遠い所へ──


 走る。走る。走る。


 向かう先はどこでもよかった。


 例えばこの先がとてつもなく高い崖であっても、彼はその足を止める事は無かっただろう。


 もう、彼にとって生き死にはどうでもよかったのだ。


 それでも今、少なくとも笑えているのはひとえに──


「ん、ぁ」


 目が覚める。

 頭がぼんやりとしていた。


 忘れられない思い出は頭にこびりついて、今もこうして心に住み着いていた。


 彼は相手の事を知ろうと思った。


 しかしそれは、踏み入ってはならない場所へ踏み込んだらしかった。


「二度も……」


 思い出は、記憶は、杭のように心に刺さって抜けやしない。

 思い出は、記憶は、その人を変える力を持つのだ。


 思い出は力だ。心を蝕み、知らぬ間に人を変える、そんな力を持っている。


 たたた、と窓を叩く雨音に顔をしかめた。

 そこでふと、彼は瞬きを挟む。


 目を丸くして、顔を上げた。


 そこには誰もいない。


 しんと静まり返った部屋に一人立った彼は辺りを見回した。


 呼吸が震える。一人きりの暗い部屋から思い出されるものに良い思い出は無かった。少なくとも、今の彼にはそこにいる事は躊躇われた。


 外に出ると、まだ雨が降っている。

 大粒な訳ではないが、決して小雨と言うような弱さでもなかった。


 ざあざあと言うよりかは、さああああというような勢いだった。


 やけに広く感じたはずのこの場所には霧がかかり、さほど広く感じられず、それどころか狭くすら思えた。


 辺りを見回すが目的の姿は見つけられない。


 雨が打つ頬に触れ、下唇を噛む。


 叫んでも叫んでも、どれだけ呼びかけても、返事は無い。

 それでも逸る心に駆られて何度も何度も呼びかけた。


 ──すると、霧の中にうっすらと人影が見えた気がして、そこへ飛び込んだ。


 ※※※


 ──果てしない宇宙の旅、その果てに辿り着いたのがこの場所だった。


 吸い込まれるほど暗い、暗澹とした宇宙に、点々と光る星を見ているのが好きだった彼女は、やさぐれていく両親や親戚、あらゆる人を見て、心底うんざりしていた。


 彼女はこの景色が好きだった。

 壁一枚向こうにある果てしなく広い景色が、とても自由なものに思えたのだ。


 衰退していく人類は、もうすぐ滅ぶだろうと彼女は悟っていた。

 そんな、死の間際だからこそ、幸福でありたかったのだ。


 だからこそ彼女は、人間が嫌いだった。


 顔を合わせれば言い争うことしかできない彼らを、どうして好きになれようか。慣れはするが好きにはなれない。

 そんな醜悪なものよりも、広大で、果てしなく広がる闇の中でも光る星が輝く宇宙の方が好きだった。


「君もここが好きなの?」


 そんな彼の態度が、笑顔が新鮮で、彼の事がまるで分からなかった。


「あなたの事が分からない」


 それが、始まりだった。


 彼を知っていった。

 無限大に広がる宇宙のように広く、どんな人にも笑顔で接する彼は、この船の中では異質だった。


 人々は彼を不気味がった。けれど彼は笑って言うのだ。


「皆が僕を嫌うなら、それで彼らの喧嘩は止まるだろ?」


 そんな彼の危うさを見ていられなかった。

 日々ボロボロになる彼を、見ていたくはなかった。


「逃げましょう、ここから」


 何度も傷つき、それでも毎日会いに来てくれる彼に、そう提案した。


 彼は断った。


 理由は単純だった。


 ──腐っても知り合いなんだ、見捨てられないだろ。


 彼の思いとは裏腹に、人々は争いの仲裁に入る彼を痛めつけた。痛め続けた。


 ある日、倒れて動けなくなった彼を背負って、彼女は小型艇へと向かった。


 彼を死なせてはいけないと、そう脅迫されたような感覚に頭が重くなる。まるで宇宙のようなこの人を失ってはいけないと思った。


 小型艇に彼を乗せ、扉を締め、二人きりで逃げ出したのだ。


 ──広い、宇宙の中へと。


 喜びと、幸せと、好奇心が胸を躍らせた。

 最後に見納めだとばかりに、口の両端が釣り上がったきらきらした顔で船を振り返った。


 そこで見るも無残な船が煙を上げて宇宙に漂っていたのを見て、そのきらきらとした瞳から熱が引き、はは、と乾いた声が漏れた。

 その後、彼女が振り返ることは無かった。


 それから数日が経ち、彼が目を覚ました。


「ここは?」と弱々しい彼の言葉に、彼女は優しく、状況を説明したのだ。傷つき倒れた彼を運んで、あの船から逃げ出した事、あの船の惨状、自分がこれまでに見てきた事を、ぜんぶ全部。


 彼は「そっか」と目を潤ませて弱々しい笑顔を見せた。

 それは今までで一番弱々しい、儚く散りそうな姿に見えた。


 彼はその傷ついた体が壊れないようにと再び横になった。

 彼女に背を向けて横になった彼の、ボロボロの背中を見詰める。


 ──君の事が分からないよ。


 そう、ぼそっと言っていたのが聞こえてしまった。


 ※※※


 雨が降り、霧が漂うその場所に、それは鎮座していた。


「宇宙船……」


 口の中で確かめるように反芻する。

 その扉は開きっぱなしだ。

 びしょ濡れの彼は大きく体中に鳴り響く音を少しずつ落ち着かせ、中へ入って行った。


 いくつかの部屋に別れた、何人か一緒に住めるほどの広さがあった。


 彼女がどこにいるのか、探している内に一つの部屋を見つけた。

 何も無い他の部屋とは違う。明らかに生活していた痕跡のある部屋だった。


「これが……」


 少し大きめのベッドが一つ、腰くらいの高さの横長のタンス、その上に一枚の写真が飾られている。


 そこには、彼女と同じ髪の色をした、今にも壊れそうな雰囲気の青年が、彼女と寄り添うようにして座っている姿が写されている。


 その写真をそこに置いて部屋から出る直前、部屋の前を人影が過った。それを追いかけ部屋の外に出るとそこには何もいなかったが、人影が向かった方へ追いすがるように走って行った。


 鼓動が高鳴る。暗い廊下。一人だけ。


 思い出は、つくづく人を変えると確信した。

 思い出したくないものが、消し去りたいものが強く思い描かれるのは苦痛だった。


 けれど、絶望の底にいた自分を笑わせてくれたのだ。

 優しい言葉をかけて、包んでくれたのだ。


 たったそれだけ、それだけでも、救われた。


 ──ああ、と笑みが溢れた。


 それは、彼に気がついた。

 長く、薄い桃色をした濡れた髪に、涙に晴れた曇り空の瞳、そしてその今にも消えてしまいそうな儚い顔が振り返り、彼を目に留めた。


「こんにちは、お姉さん」


 息せき切らせて、彼は努めて明るく、瞳を潤ませて、にっこりと笑顔を浮かべた。


 ※※※


 彼は、今にも消え入りそうな彼女へと色んな話をした。

 自分の過去、彼女に救われた事、ここでの一日が新鮮に感じ、嬉しかったこと。


 沢山の感謝を伝えた。

 自分を知ってもらい、相手を知るために。


 それを一通り聞いた彼女の口から出たのは、「あなたの事が分からない」だった。


 その言葉はまるで魔法のようで、彼は石化させられたようにその場に固まってしまった。縛り付けられたように動かない彼を一瞥して、彼女は目の前に開かれたモニターに映された動画を見る。


 そこには、写真に写っていた青年と、目の前の彼女が笑いながら撮った動画が流されていた。


「……彼は、笑っていたの。幸せだった。やっと彼が安心して暮らせるようになるって」


 動画内の二人は笑っていた。

 他愛無い事を言い合って、何気ない事で笑って、幸せが溢れていた。


「でも彼は死んだ。自殺だった」


 息を呑む彼を気にも留めず、彼女は話を続けた。


「こんなに笑っていたのに、彼は幸せじゃなかったの。──私は怖くなった。けれど、彼との思い出を消したくなくて、ずっとここに居座り続けた」


 けれど、限界だと彼女は言った。


 彼は、彼女との別れ際の事を話した。


 幸福で、笑い合っていたはずの日々。けれどある日突然、彼女から別れを切り出され、自分で自分が分からなくなるくらいに激怒してしまった事。その彼女との間に感じていた幸福が、偽物であった事。


 そこまで語って、彼は「そっか」と呟いた。

「人の事なんて、分からなくて当たり前なんですよ」


 そう告げた彼に、彼女は怪訝な顔をして振り返った。


「……何、言ってるの? 当たり前じゃない」


「でも僕たちは、それに気づいていなかった。だから相手の事を知らない内に傷つけていたんだ」


 何かを言おうとして、けれど彼女は俯いて黙ってしまう。

 そうして迎えた沈黙の時間は彼によって終わらせられた。


「……ここが、好きなんですか?」


「ぇ……」


 彼はすっと、雨の弱くなっている外が見える窓へと指を差し向ける。

 そこには先の動画内で映っていた景色が見えた。

 また、その窓には二つの星が落書きされていて。


「きっと幸せだったのは確かだと思いますよ。──それに、その幸せな思い出はやっぱり……」ぐずっと湿った鼻をすすった。「ずっと、消えませんから」


 失ってしまった幸せな思い出は、決して消えてはくれなかった。だからこそ、余計に悲しくなって、虚しくなって、忘れたくなるのだ。


 言いながら、彼は涙を堪えることができなかった。

 彼女はその星の落書きを見つめながら、ぽろぽろと涙を流していた。


 ※※※


 その後、二人は笑って過ごした。

 他愛もない事で笑い、何気ない事に幸せを感じて。

楽しんで書きました。満足です。

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