ドネーション ―命の寄贈―
「いらっしゃいませー!」
私の入店を告げるドアベルと共に、姉の声が耳に入る。
店の中には広めのソファとバーバーチェアがそれぞれ二つずつある。ソファは待合室のような空間に。バーバーチェアは大きな鏡の前に。
鏡には仕事着なのにオシャレな姉と、ジーパンをはき、Tシャツの上からシャツを着ただけの私が映りこんでいる。
他の客はいないようだ。
「ねぇ、綾姉」
「葵じゃない。どうしたの?」
二年ぶりに家から出た私を見てとくに驚いた様子もなく、姉は以前となんら変わらない対応をしてくれる。
「髪、切ってくれないかな?」
「どうかしたの? 失恋でもした?」
「うん、そんなとこ」
からかうように聞いてきた姉に、私は適当な答えを返す。
髪を切る理由はそれだけではないけれど、失恋したことも、確かに理由の一つだからだ。
「そっか。せっかくキレイなロングなのに。少しもったいないね?」
「どうせすぐ伸びるよ」
いつのまにか背中まで伸びた髪を弄りながら、私は入り口側のバーバーチェアに座る。
早く伸びろ、早く伸びろ、と祈っていた時期がなつかしいくらいだ。
「それもそうね。それでどんな風に切りたいの?」
「輪ゴムで縛ってまとめてバサッと」
「――ぷっ」
思わず、といった様子で姉が吹き出した。
「何かおかしかった?」
「いや、あのね。私は髪型を聞いたつもりだったから、ついね」
「髪型か……」
そういえばここ最近、髪型なんて気にしたこともなかった気がする。
家に閉じ籠って人目を気にせずに済んでいたこともそうだが、髪を意識するようになったのはここ数年のことだし、意識するきっかけをくれた人とはもう二年も会ってない。
それに、どうせまたある程度まで伸ばして、まとめて切るのだ。髪型なんて適当でいい気がする。でもどうせなら、プロに任せてみようと思う。
「おまかせでお願いします、美容師さん」
「はい、おまかせくださいお客様」
遊び半分で少しかしこまってみると、姉は芝居がかった様子で答えた。
「じゃあ、葵――」
すぐに元通りになったけど。
「――どうな風になりたい?」
「えっ。……似合えば、それでいいけど?」
不意に聞かれた質問に、私は答えを出せなかった。
「髪とか服とか、そういうのは似合えばいいってものじゃないのよ」
姉はそう言って、少し説明してくれた。
姉曰く、一応私もプロだから容姿や髪質に似合う髪型にはできる、とのこと。しかし、当人の気持ちに似合うかはわからない。だからこその、どうな風になりたいのか。
「って言われても、急にはわからないよ」
「まぁ、そんなものよね。じゃあ、髪を切るのはなんで? 別にもう少しあとでもいいのか、今日じゃないといけないのか」
なるほど。あとでもいいなら、ゆっくり考えられるわけか。でも――
「――明日は三回忌があるから、今日中に切りたい」
三回忌が、親族以外も招かれる最後の法要なのだ。せめて、最後くらいは。
「そっか。じゃあ、凛ちゃんが好きそうな髪型にする?」
「えっ。そんなの知ってるの?」
「家も近所だったし、話す機会もあったからね。女子会の一度や二度はしたわよ」
「へぇ。そんなことあったんだ……」
姉が彼女の好みを知ってることよりも、彼女が女子会などというものをしていたことの方が驚きだ。
小学校の休み時間は男子よりも先にサッカーボールをとって行き、昼休みにクラス全員でドッジボールをすれば終始内野にいるようなやつだった。
夏休み明けなんて、男子よりも日焼けして真っ黒になっていたと記憶している。中学でもバリバリの運動部だったと聞いた。
男子よりも男子していた彼女が女子会。事実なのだろうが、ピンとこない。誰にでも意外な一面があるというのは本当らしい。
それに、どんなのが好きだったのか興味がある。
「……じゃあ、それでお願い」
「オッケー。お姉ちゃんに任せなさい!」
自信満々そうに自分の胸をトンと叩いてから、姉はてきぱきと準備を進めていった。
髪を整え、定規で測り、輪ゴムで縛る。
長さは「31cm」以上。
もちろん、条件は満たしてある。そのために伸ばし続けてきたのだ。
「そうだ葵。せっかくだし、自分で切ってみる?」
「いいの?」
私の疑問に姉は間髪入れずにうなずいてくれた。
「わかった。やってみる」
縛った髪を肩から前に出し、姉が押さえてくれる。姉から借りたハサミを右手に持ち、左手は胸元で強く握りしめた。
目を瞑り、覚悟を決めて、刃を髪に当てる。
そして私はこの四年間を……彼女のためにと伸ばし続けたこの髪の毛を、切り落とした。
* * *
幼馴染みの小夜凛が元気だったのは、彼女が中学一年の頃までだった。
いつのまにか彼女からは、お日様の匂いではなく、病院の臭いがするようになった。
日焼けた肌は白く染まり、太陽の笑顔は曇天に覆われた。
彼女の愛用の帽子がキャップからニットに変わるまで、そう時間はかからなかったように記憶している。
それでも、私の日常は変わらなかった。
彼女に連れられて公園に行く日々が、彼女へ会うため病院に行く日々になっただけ。
公園で走り回るよりも、病院で彼女の話し相手をする方が、体力的には楽だった。それに、彼女と話してるだけの方が、鬼ごっこやら缶蹴りやらよりもはるかに楽しかったのだ。
一番楽しかったのは、彼女が暇をもて余すようになってからだった。
「葵って、ふだんどう暇潰してる?」
「読書だね」
「ふーん。どんなん読んでんの?」
「漫画とか児童書とかのファンタジー。最近はラノベも読むよ。あ、ハリー・ポッターくらいなら聞いたことあるんじゃない?」
「映画なら一回だけ。けど怖かったし、ここじゃ見れないしなぁ」
「じゃあ、家に本があるから明日持ってくるよ。映画より明るい話しが多いし読みやすいから」
「うーん、葵がそういうなら読んでみよっかな」
それからは、毎日のように本の話しをした。
貸した本の感想を言い合い、次はどんな本を読もうか話し合った。
私の好きなことを彼女と共有できることが、楽しくてしかたなかった。
けれど、変わらないと思っていた日常に、変化のようなものはあった。
「ねぇ、綾姉。小夜は、なんでニット帽をかぶるようになったのかな?」
それはなぜか、彼女に直接聞くのはためらわれた内容だった。
「抗がん剤治療とか、放射線治療とかじゃないかな」
「えっ……と。どういうこと?」
理由を聞いたはずなのに、知らない単語が返ってきて、私は困惑した。
よくよく考えてみれば、私の家族に入院している人はいないし、私の好きなジャンルはファンタジーだ。時々ミステリーと恋愛を読む程度で、医療系は読んだことがなかった。
意味を理解できなかった私を見て姉は少し悩んだが、結局答えをくれなかった。
「私も詳しくはないからね。凛ちゃんに直接聞いてみな」
「……わかった」
――もしも教えたくないって言われたら、それ以上聞かないであげてね
姉にそう注意されたあと、その日も私は彼女へ会いに行った。