アリスのはらわた 《花園解体編》
──その血は鉛の味がした。
人間も異形も等しく殺す《殺し屋》に舞い込む不可解な依頼。
森の中、咲き誇る花園に建てられた館は誘蛾の様に命を誘う。
悪夢が潜むのは森か、館か、──人の業か。
花吹雪よりも可憐に激しく鮮血舞い散る女達の闘いが始まる。
職業、サンドバック。
そう言ったら引かれてしまった。冗談っぽく言ったつもりだったのに。
その時の女性の、無理矢理捻り出した様な愛想笑いが網膜に焼き付いていた。
仮にも接客業なのだから、もっと愛想良く、適当な返事でもしてくれたら良かったのに。よっぽど僕が合わなかったのだろうか。ひょっとしたら新人だったのかもしれない。結構若い子だったし。もしそうなら、反応に困っただろう。少し可哀想な事をしてしまったかも……。
「──集中!」
眼前から鋭い女性の声。
ハッとして我に帰る。そうだココはあの薄暗い湿気った部屋じゃない。四方を打ちっ放しのコンクリート壁に囲まれ、天井には剥き出しの配管と疲れた蛍光灯。
雑居ビルの4階を丸々使った、ココは雇主のトレーニングルームだ。
そして僕の両手にはスパーリング用のミットがはめられている。
キュッ
とリノリウムの床を擦る音が聞こえ、慌てて両手のミットを構え直す。
目の前──1メートル半先、鉛色の長髪をなびかせて眼光鋭い細身の女が僕へ向かって飛び込んできた。
瞬間。
──ボンッ!
とミットが爆ぜた様な音と衝撃。ミットの中の手がビリビリと痺れる感覚。
女の右拳が左手のミットにめり込んでいた。女は止まらない。右手のミットを横に向ける。ミットにめり込んでいた女の右拳の感触が消失。直後、衝撃。ミットから乾いた打撃音が響いた。僕の首を狙って打ち込まれた女の膝をミットで受け止めたのだ。一瞬の音が鳴り止んだ時、彼女は既に僕から離れていた。軽いウォーミングアップを終えた彼女は、両の拳を構えて射殺す様な視線を僕に向けていた。
──次はどう来る?
次の攻撃を、次の次の攻撃を予測して合わせないと間に合わない。
思考では遅すぎる。考えてる間にヤられてしまう。
経験と勘。今は経験に頼る。毎日この女性のスパーリングに付き合っているのだから。
しかし得られる情報が多いに越したことはない。
今、彼女はタンクトップにライトイエローのショーツだけ。健康的で皮下脂肪の少ない腕や脚がよく見える。綺麗に割れた腹筋や、ツンと攻撃的に突き出た乳首もチラチラと見えている。
──つまり筋肉の動きも見えている。彼女を目視し続けてられるなら、視線、筋肉の収縮、呼吸で動く胸、それらの観察も攻撃を見極める判断材料になるだろう。
目視し続けられるなら。
彼女が動いた。
そのままゆっくりと僕へ向かってくる。彼女が見えている間はまだマシだ。でも直ぐに消える。そうしたら、腹に力を入れて、経験に頼って、覚悟を決める。
握手を求める様な速さで歩み寄って来る。そして凶暴な視線はそのままに、挑発的に薄く笑った。ゾクリと背筋に悪寒が走る。
直後──彼女の姿が消えた。
来る。左側から強い衝撃。直撃したミットがビリビリと震え、激しい音が鼓膜も震わせる。間髪入れず次が来る。一瞬足りとも気をぬく事は許されない。どこかから来る拳や膝を両手のミットを使って受け止める。吹き飛ばされない様に脇をしっかり締めて腰を落とす。
四方八方からの激しい連打の僅かな隙間、攻撃の瞬間だけ彼女が見えた。
見えないからといって透明になっている訳じゃない。
相手の視線を視界を読み、捉えられない様に動き、そして仕掛けて来る。
それが恐ろしく早く、容赦がない。
しかし、ぎりぎり対応出来ている。今日までに流した汗と血は全て経験として今に活きている。
ハズだった。
「────昨日の女、誰?」
一瞬の隙。眼前1ミリに彼女の拳があった。まるでそう止まるようにプログラムされていた機械の様にピタリと止まった硬い拳。恐らくはかなり前の段階でそう決められていた。そうで無ければこの拳は今頃、僕の顔の骨を砕いて血に濡れていただろう。
「い、依頼人、です」
今になって激しくなった鼓動を抑えながらなんとか返事を絞りだす。
「ふうん」と怪しむ様な眼差しを向けてから、やっと拳を下げてくれた。
ほっとするのも束の間、目の前でタンクトップとショーツを脱いでいた。汗で肌がテカリ、汗の雫が腹筋の割れ目を伝う。滅多にしない彼女の行動に正直目のやり場に困る。思わず視線を逸らしてしまったせいで投げられたショーツを顔面で受け取る事になった。
「下着は脱衣所で脱いで下さいよ。こんなにびっしょり……せめて投げないで……」
「マーキングよ。臭うのよアンタ、昨日のあの女の臭いが移ったのね。上書き、必要でしょ」
臭いなんてしないと思う。これでも身嗜みは人並みに気を付けている。いや、しかしこの手の人間は『臭い』に敏感なのかも知れない。『人の死の臭い』というやつに。
「それと」と彼女は続けた。
「殴られて勃つなんて、変態じゃない?」
「貴女も、乳首勃ってるじゃないですか……」
彼女はアリス・ヘザー。本名は分からない。しかし業界で彼女はこう呼ばれている《鉛色のヘザー》、殺し屋で僕の雇主で──ご主人様だ。
†
「──魔女の館?」
その後、二人でシャワーを浴びた僕らは事務所へと場所を移した。
事務所といってもかたちだけで、それらしい物はソファーが二つ、テーブルを挟んで置かれているぐらいだ。壁側には所狭しと世界中の土産物や用途不明のオブジェが乱雑に置かれている。これは世界中を飛び回る僕らはの知り合いに半ば強引に押し付けられた物だ。駅や空港で買える物から現地から勝手に持ち出した物──中にはココにあってはいけない物もあるらしいが、僕には分からない。ヘザーにはどれか検討が付いているようだけれど。
土産物たちの間にあるドアはヘザーの寝室に繋がっている。事務所が僕の寝室で今座っているソファーがベッド代わりだ。
「はい。実際は依頼主の別荘ですが、その館に行ったきり帰って来ない人が多いので付近の住人はそう呼んでるようです。別荘といっても常に使用人と宿泊客が滞在しているようです。……が、依頼人が使うことは稀で無償で貸し出しているようです。山奥の森の中、お忍びで使うには調度いいようですね」
「魔女……ねぇ」
「それと、ターゲットは別荘じゃなく、森の中、のようです」
「ふうん」マグカップを片手に鋭い視線を僕に向けたままヘザーは何やら思案している。継ぎ接ぎだらけのソファーの傍らに立ち座ろうとはしない。埃っぽく尚且つ「ダニがいそうだから嫌」と言った彼女の意向でボロソファーは来客用で、僕が今座っている年季が入り色褪せた革のソファーが二人共用のソファーだ。
「ハッキリしない……嫌な依頼ね」
マグカップに入ったプロテインをペロペロと飲みながら彼女は言った。まるでミルク皿と猫。でもこれは彼女の機嫌が悪い時の飲み方だ。機嫌が良いとプロテインを一気飲みする。極端だが分かりやすい所は好感が持てる。
「私は探偵じゃないし『掃除屋』でも『壊し屋』でも無いの。殺し屋、特定の誰かさんを死なせるのが私」
今時はなんでも細分化だ。この業界も例外では無い。業界史に詳しいワケではないが、最初は《殺し屋》だけだったらしい。それが様々な依頼に合わせて枝分かれした。といっても、大本であった《殺し屋》のその直系である殺し屋は、業界内では何でも屋という位置づけになっているようだが。
「正直に言うと、相手は異形かも知れません。……やっぱり人間の方が良いですよね」
「魔女狩りでも異形狩りでも、人間相手でも、ヤる事は一緒よ」
彼女は言いながら僕の隣に腰を下ろす。トレーニング後のシャワーで使った石鹸の匂いが仄かに漂ってきた。まだ乾いていない髪がソファーにじっとりとシミを作っていく。
「詳しい話は現地──というか別荘の最寄り駅のカフェで、を希望だそうです。ただ、僕らに来る依頼ですから、殺しで間違いはありません。報酬は前金で半分、入金済みです」
「断りなさい」とプロテインをペロペロ。舌の動きが速くなっていた。フラストレーションが溜まってきている……まずいな。
「今回は僕も同行────」
ヘザーは急にプロテインを一気に飲み干して立ち上がる。そして別室へ消え、仕事道具一式と着替えの入った大きなバッグを持って戻ってきた。相変わらず静と動の切り替えが早く極端だ。
《魔弾》の異名も間違いではない。
「アンタも準備、できてるんでしょうね?」