いま、そこ。 ──きみとぼくが別の世界線を生きている可能性──
なんちゃってジャーナリストの彼氏が、災害現場へ飛んでいってしまい帰ってこない。困った……。赤ちゃんのこと、どうしよう。その日のうちに話しておけばよかった。
報道局により、または人により違った情報を発信・受け取っている世界で、みんなが何かを選択しながら生きている。さまざまな家族に出逢いながら、キヨは今まで理解できなかった他の人の生き方や価値観を少しずつ理解できるようになっていく。
現代/フィクション/ヒューマンドラマ/家族/価値観の違い/コミュニケーション/災害/社会問題
F-1が爆発した。
「行かなきゃ」
「えっ」
三月の曇り空と灰色の海を背景に、唐突に立ち上がるまっ黒な爆煙。
モノクローム映画みたいなそのニュースを見て、彼はすくと立ち上がり、私はびっくりして声をひっくり返した。
「行くってエフワンに? え、宇多、今行くの?」
「もちろん」
嘘でしょ。
つぶやいた私の声は、取り憑かれたかのようなスピードで出掛ける準備を整える彼の耳には届かない。
「危ないよ、絶対。近づかないほうがいいと思う」
「絶対なんてないでしょ」
電上特区F-1。
特殊発電事業の一環として設けられた実験住宅区。
熱水になった冷却水や蒸気などの余剰熱源を有効利用するために、百を超える住宅がわざわざ発電所建屋の屋上に建てられており、特殊発電所の安全性のアピール役も担っていた。住民サービスが充実していて教育レベルも高く、住みたい街ランキングの上位常連。そのF-1が、発電所ごと爆発したのだ。
全体的に灰色で縮尺のよくわからない映像から住宅部分を見つけて推測したところ、爆煙は十階建てほどの高さがある建屋より何倍も高く上がっているようだ。上空でもくもくと広がっていく様子は、過去の戦争やよくないものを想起させる。その上、オレンジ色の炎がいたるところから上がりはじめていて、画面下部には『震度7強』『余震に注意』『大きな津波に注意』『避難指示:F-1』と物騒なテロップが流れている。
「準備完了」
本当に行くの?
爆発の原因は地震だということだろうか。となれば、いつ何が起こるかわからない。
「待って。かえって邪魔になるかもよ? もう少し情報が分かって、地震がもう大丈夫だってわかってからボランティアに行くとか……」
「キヨ。ボランティアもするけど、取材ね」
「でも」
「今ここにいてできることなんて何もない」
愛車のクラシカルバンに食糧と寝袋とカメラを詰め込んで、着のみ着のまま行ってしまった私のパートナー。
私は彼に伝えなければいけないことがあったのに、まぬけにもポカンと突っ立ったまま、バンが発進するのを見送ることしかできなかった。走って行って車の前に回りこんで、怒られてもいいからもっと真剣に止めればよかったと後から何度悔やんだことか。
『現在、エフワン上空にはヘリで近づくことができません。地震による被害が大きく、二次的、三次的な事故の可能性も──……今、三回目の爆発が起こったようです!』
あれ。おかしい。宇多のいなくなった部屋、やけに広すぎる。
走ってもいないのに心臓はバクバクうるさいし、瞬きひとつでめまいがして倒れそうになる。
彼は──宇多は。
前線バリバリのジャーナリストというよりはのんびり定職につかないフリーライターだった。任されている連載はバックパッカー向けコラムとイベント取材、趣味の関係のものばかり。いつか大きな取材をすると言いながら、ゆるい生き方を自認していたはずだった。
『爆発規模は不明。映像が間に合いません──……』
別の局では、今の爆発で燃料由来の毒性のあるガスが漏れた可能性が高いと報じていた。
伝えそびれてしまった、大切なこと。
私、日向キヨの妊娠が判明したということ。
「赤ちゃん……。どうしよう」
不安を口にした瞬間、ひどい無責任感に襲われて私はホーンに反射的に手を伸ばす。
「宇多」
彼の愛車に通信を繋ぐ操作は手慣れているのに、指がふるえて三回失敗した。
「出て」
彼のお気に入りのシンガーの哲学的な曲が五秒ほど流れて、歌詞が意味を結ぶ前にプツンと途切れる。ホーンの画面では、彼の車は圏外になっている。
「まだそんなに遠くまで行っていないはず……」
彼が切ったのだろうか。バッテリーがもったいないとか? それとも、こちらの地域まで通信障害が起きているのだろうか。
「どうしよう」
お互いに結婚を意識してはいたけれど、それだけだ。まだ何の約束もしてはいなかった。薄いままのおなかをなでてみても実感はない。でも事実だ。
「どうしよう。待ってるだけでいいの? 本当に?」
彼が取材に満足して戻ってくる場面を、うまく思い浮かべることができない。
あんなところへ向かってもきっと通行すらできないはず、そう思うのに、心配で心配でたまらない。
私に電上特区の危険性を教えてくれたのは、F-1出身の宇多自身だ。
伝えられなかった言葉、受け取りそびれ宙に浮いたままの愛──
途切れたイントロの続きが頭のなかをグルグルまわる。
◇・◆・◇
小鳥が青空に向けて恋のうたを歌っている。
建物の外へ一歩出ると風が冷たかったけれど、四月の日差しの晴れやかさは素直に嬉しい。
まるで自分の選択を後押しされているみたいだと私は思った。
「キヨさん……本当にやめちゃうんですか? ずっと一緒に働けると思ってたのにぃぃ」
洟をすすったひょうしに自分のほうが泣き出してしまった可愛い後輩が、運転席に乗り込む私に張り付いてくるので愛車の窓を全開にした。
「ふふっ、ありがとう。でも今日は送り出してくれるんじゃないの?」
「だって行ってほしくないんですよぅ!」
「こらこら。そんなことをやってたら、日向さんがちっとも出発できないじゃない」
エンジンをかけても離れようとしない後輩を、上司陣が泣き笑いで諭してくれる。
「ほら、お花を渡すんでしょう」
スクエアフォルムのピンクの軽自動車に小さな娘を乗せて、今日は私、日向キヨがこの町を出発する日だ。
荷台に積み込んだものと、この町に残していくもの。行方不明の彼を待ち続けた部屋も、職場も、私にとって大事なものだけれど全部いっぺんに選ぶことはできなかった。
「うわぁぁん! キヨさぁぁん! また会いに来てくださいぃ!」
「ありがとう。また、来られたら」
「わぁぁ! それって来ないつもりじゃないですかぁ! もういいです、私が行きますっ!」
「それは、いいけど。まだ住むところも決まってないよ?」
後輩は興奮してしまって、花束と一緒に握った手をなかなか放してくれない。
「私たちも落ち着いたら連絡してほしいと思っているわ。……日向さん。しっかりね。元気でやるのよ」
「ありがとうございます、所長。かならず連絡します」
あぁ、どうしよう。
この職場が大好きだったのに、うまくお礼を伝えられないし、先輩方まで泣きそうで胸が詰まる。
「すみれちゃんが大きくなったらまた写真を見せてね……」
うん。うん。最後は頷くことしかできなくなりながら、私は泣き笑いのみんなに見送られて愛車を発進させた。バックミラーのなかで大きく手を振る同僚たちが、みるみる小さくなっていく。
『特殊発電所は危険』
『その上に住むなんて電上特区は狂気の沙汰』
事故直後は世論的にも満場一致で危険視されていた特殊発電所は、事故から一年が経過した今、すでに危険はないということになりつつあった。
有毒性で有名だった特殊発電所由来の化学物質の呼び名が変わり、汚染の測定方法が変わり、そもそも汚染が報道されなくなり。国中で停止していた同じタイプの発電所も『安全』だということになって、順次再開が決定した。
廃止運動なんてしなくても特殊発電所は廃止になる、と信じて疑っていなかった私はものすごくびっくりした。
耐震性を再計算? 十分にクリアしている? 世界一の基準?
正気を疑ったのは、私だけではないはずだ。けれど私たちの生活は変わらない。国の方針に反対を表明する有効な手立てを、私たちは持っていなかったらしい。
子どもの頃、学校で過去の公害について習ったとき、死人が出るほど汚染された土地の住人はなぜそこに住み続けたのだろう、全員が全員引っ越せない事情があったのだろうかと不思議に思ったことがある。
大人になった今では、少しわかる。
人間は慣れるものなのだ。そして、自分のホームが日常的に危険にさらされていると認識し続けるストレスに耐えられない。
私は、彼が見に行ったこの国の真実が見たい。少しでも見たい。
そして、黙って同じ場所に住み続けることで『汚染を受け入れた』『つまり大したことではなかった』『むしろ何事もなかった』とされてしまうのなら、あえて移住したくなる天邪鬼なのだ。
それにしても、この春の山々の見事さだ。
小さなすみれと暮らす私は少し寝不足で、運転中の眠気を心配していたのだけれど、キラキラと光る淡い緑が土地ごとに表情を変えていくのを眺めるのは想像以上に刺激的だった。
ハイウェイを降りて山間を走り、トンネルを抜けてもまた山と山。
笑ってしまった。こうして遠くまで移動してみると、この国はほとんど全部山だということがよくわかる。その山の、川や海に洗われてできたちょっとした平地に人間が密集して町を作って住んでいる。
どこもかしこも津波や洪水に弱いはずだ。そして水に恵まれているはずだ。
自然のなかは気持ちがいい。そして厳しい!
町に住んで、そこから出ないでいるうちに、私はそんなことも忘れていたらしい。
「あっ! 来たよ!」
ピンクの軽、と伝えておいたからだろうか。
ゆるやかなカーブの途中、ログハウスの窓から顔を出していた男の子が声を上げて家の中に駆けて行った。
折よく、車の止まりそうな気配を察して、小さな人専用のシートで丸くなっていたすみれがぱっちりと目を覚ます。
彼の好んだ、気ままに進む車中泊の旅。
旅の目的は私たちが暮らすのにぴったりな町を見つけること。