彼女の嘘が僕を殺す
わたしの背中を最後に押したのは、加賀美くんに言われた死ねという言葉です。
自殺した高校のクラスメイト――桐生鳴海の遺書にはそう書かれていた。
名指しされた加賀美だったが、まるで身に覚えのない告発に困惑を隠せない。
なぜ彼女は自殺したのか。
なぜ彼女は嘘の告発をしたのか。
身の潔白を証明するため、そして桐生鳴海の真意を探るため、加賀美は真相究明に乗り出す。
わたしの背中を最後に押したのは、加賀美くんに言われた死ねという言葉です。
残された遺書にはそう書かれていた。
クラスの誰もが言葉を失う。特に、名指しされた僕は、身も凍るような感覚を味わった。
「鳴海は、あんたに殺されたのよ……!」
遺書を公開した人物、久世彩音が、黒板に背を向けながら僕を睨みつける。普段のたおやかな印象は鳴りを潜め、彼女の瞳には隠しきれないほどの怨嗟の炎が燃え盛っていた。
「ちょ、ちょっと待って。いったい、なんのことを言ってるんだよ」
僕は慌てて口を開いた。血潮が逆流する思いだった。あまりに予想外の出来事を前にして、呂律がうまくまわらない。
死ねって言われたから死んだ? しかも、それを言ったのが僕? まさか。ありえない。なにかの間違いだ。僕はそんなこと、一言も口にしていない。
寝耳に水だった。弁明を試みようとしたが、久世さんの声に阻まれる。
「とぼけないで! 鳴海の遺書にはっきりと書いてあるのよ!」
いまやクラス中の視線が僕に向けられていた。見なくてもわかる。強烈な圧迫感が、全身にのしかかってきた。心音が耳元で激しく鳴り狂う。喉を強烈な閉塞感が襲う。
「違う」
僕は声を絞り出した。
「僕じゃない……。僕は死ねだなんて言ってない。なにかの間違いだ」
声が震える。なにが起きているのか、いまだ全容を理解できない。身に覚えのない罪を着せられようとしている、それだけが確かだ。
桐生鳴海。彼女が残した遺書には嘘が書かれている。彼女の自殺に、僕は関与していない。その事実を僕は知っている。だけど、それが真実だとクラスメイトに納得させるだけの証拠を持ち合わせてはいない。
教室を見まわす。誰か一人でもいい。僕のことを信じてくれる人はいないのか。助けを求める。しかし、誰もかれもが、僕に猜疑の目を向けていた。
最低。
そんな呟きを耳が拾う。
僕を犯人だと決めつけている。教室に充満する空気から、そのことをひしひしと感じ取る。
愕然とするしかない。
なんで誰も信じてくれないんだ。
頭の芯が痺れるような感覚だった。目の前が真っ暗になる。
「自首しろよ」
伊勢崎雄二が吐き捨てるように言った。先ほどの休み時間まで、普通に世間話をしていた相手だ。僕は耳を疑う。
「どうして」
「桐生を自殺に追い込んだのはおまえなんだろ。ちゃんとその罪を認めろよ」
「だから、違うって言ってるだろ!」
僕は吠えるように叫んだ。クラスが凍りつく。やってしまったと後悔するが、もう遅い。感情のコントロールがおぼつかなかった。思考が働かず、焦燥感ばかりが募っていく。
僕は久世さんを見た。
「そもそも、なんでいまなの。桐生さんが亡くなったのは一週間も前のことだ。それなのに、なんでいまになって、遺書が見つかるんだ。おかしいだろう」
墓穴を掘っている。そう理解したのはひとしきり喋り倒したあとだった。これではまるで、遺書が存在することに不都合を感じていると捉えられてしまうのではないか。案の定、久世さんは目をつり上がらせた。彼女につられ、教室内の怒気も膨らんでいく。
僕はもう止まれなかった。
「第一、その遺書が桐生さんのものだっていう、確かな証拠はあるの?」
しゃべればしゃべるほど、泥沼にはまっていくような感覚だ。しかし、黙っていても脱出できる見込みはない。沈むのが遅いか速いか、ただそれだけの違いだ。
「あんたが気安く鳴海の名前を呼ばないで!」
久世さんが声を張り上げた。
「証拠? それならあるわよ! この遺書は手書きなの。ここに書かれた字は、間違いなく鳴海のものよ。親友のわたしが保証する。それでも疑うんだったら、筆跡鑑定でもなんでもすればいいじゃない!」
久世さんの隣に座る女子が、遺書をのぞきこむ。
「ほんとだ……。この癖字、なるみんのものに間違いないよ」
そう言われてしまえば、僕は口をつぐむしかなかった。遺書が彼女自身の手によって書かれたものであるならば、自殺の原因が僕にあると告げたのも、桐生鳴海の意思によるものということになる。
死人に口なし。彼女本人に真意を問いただすことは、もうできない。
不安が全身を侵食する。
世界が変わってしまった。紙面に書かれたたった一文で、僕の日常はいとも容易く壊されてしまった。
どこで間違えたのか。なにが原因だったのか。なによりも、桐生鳴海はなぜ僕を罠にはめるような真似をしたのか。
わからない。
なにもわからない。
出口のない迷宮に突き落とされた、そんな気分だった。
すべての始まりは、一週間前にさかのぼる。
二年D組の生徒、桐生鳴海が、校舎の屋上から飛び降りて自殺をしたのだ。
現場に遺書らしきものはなかったそうだ。屋上には、綺麗にかかとを揃えられたローファーのみがあったという。
彼女はクラスの人気者だった。勉強とスポーツをそつなくこなし、明るい性格。寛大な心を持ち、誰に対しても分け隔てなく接する。
男子からも女子からも慕われていた彼女が自殺したと知り、生徒たちは騒然となった。
彼女は自殺ではなく、誰かに殺されたのではないか。当初はそんな憶測も飛び交った。しかし、屋上に通じるドアは外側から施錠されており、唯一の鍵は職員室で厳重に管理されていること、そして現場に争った形跡がなかったことから、警察は事件性なしと判断した。
彼女の自殺の理由には、誰一人として心当たりがなかった。クラスメイトばかりでなく、教師も彼女の両親も、首を傾げるしかなかったという。
なぜ彼女は自殺なんてしようと思い立ったのか。その答えがわからぬまま、僕たち二年D組の生徒は悶々とした日々を過ごした。
そんな日常に変化が生じたのは、桐生さんの親友であった久世さんの自宅に、遺書が届けられたことがきっかけだった。
学校から帰宅後、家のポストを開けたら、桐生鳴海と書かれた封筒が入っていた。遺書をクラスの前で公表する前、久世さんは遺書を手にした経緯をそう説明した。
彼女が読み始める遺書の内容を、僕はただじっと座って聞いていた。関心がなかったといえば嘘になる。しかし、生前の桐生鳴海とたいした接点を持っていなかった僕は、彼女を慕っていたクラスメイトのように、嗚咽を漏らしながら彼女の死に思いを馳せるという真似はできなかった。喉に刺さった魚の小骨がようやくとれる、そんな感覚に近かった。
だから、僕の名前が遺書に登場したときは、心の底から驚いた。
冬の冷気に満ちた廊下を、僕は担任教師に連れられて歩く。窓から見える空は曇天だった。色褪せた灰色の雲が、太陽を覆い隠している。
向かうのは職員室だ。遺書に書かれた内容に関して学校側に事情を説明しろ、そうお達しがおりたのだ。
足取りは重い。押さえつけられたかのように、心は闇の深くへ沈む。
僕はどうなってしまうのだろう。やってもいない罪で裁かれてしまうのだろうか。
そう思うと足が竦む。二本足で立ち、こうやって歩けているだけでも奇跡だった。
前を歩く担任はなにも言わない。無言の背中が、終始僕の視界に映る。
遺書を公表した久世さんは、先に職員室へ向かった。僕と一緒に歩くのは死んでも嫌だと言ったからだ。いまごろ教師陣による事実確認が行われている最中だろう。きっと僕のことを悪魔だの人殺しだの言っているに違いない。彼女は桐生さんの遺書を信じて疑わなかった。久世さんの目には、僕は親友の仇として映っていることだろう。
担任が職員室の扉に手をかける。銀縁眼鏡の奥から、冷たい双眸が僕に向けられた。
「入れ」
その指示に素直に従う。
職員室の片隅に置かれたテーブルに案内された。久世さんの姿はなかった。もうすでに聞き取りを終えたのかもしれない。
「加賀美君」
真向かいに座った教頭先生が口を開く。
「単刀直入に訊こう。桐生さんが残したとされる遺書に書かれていた内容は事実かね?」
「いえ。違います。事実無根です」
腹に力を入れようとしたがうまくいかない。おかげで蚊の鳴くような情けない声しか出なかった。
「では、桐生さんが嘘の内容を遺書に書いたと、君はそう考えているわけだ」
「ええ、まあ」
あまり故人を悪く言いたくはなかったものの、ここではこう答えるしかない。
「彼女がそうした理由に、なにか心当たりは?」
「ありません」
「君と話す前に、遺書を受け取ったという久世さんとも話をしてね」
教頭先生は探るような目つきを向けてきた。
「桐生さんは生前、久世さんに一度だけこう告げたそうだ。私は加賀美君が怖い、と」
「鳴海さんが?」
「ええ。数日後、彼女はその言葉を撤回したそうだが」
ふと記憶の一部が喚起される。
そういえば、クラスの女子から距離をとられるようになった時期があった。もともとクラスメイトと関わりをそれほど持っていなかったし、あからさまな態度をとられるわけでもなかったから、そのときはたいして気にも留めなかった。
もしその変化の理由が、桐生さんが久世さんに告げたその言葉のせいだったとしたら。あの遺書の内容を、クラスメイトが鵜呑みにした理由もいくらか合点がいく。
全身を衝撃が駆け抜けた。
彼女は自殺するずっと前から、着々と準備を進めていたのだ。
自らの死をも利用して、僕を破滅させる計画を。
だけど、彼女はなぜそんな真似を?
 





